その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
帰宅した貴之は、玄関で革靴を脱ぎ捨てると、そのまま深いため息をついた。
スーツのジャケットをソファに投げ、ワイシャツのボタンを雑に外して、Tシャツと寝間着代わりのパンツに着替える。肌に触れる柔らかな布の感触に、ようやく自分の空間に戻ってきたことを実感する。

—まさか今夜の予定が麹料理教室だったとはな。

胸の奥が、妙にスッと軽くなった。そういうことなら、そうと先に言ってくれればいいのに……と思ったが、すぐに自分で首を振る。

麻里子は、そういう女だ。
自分のプライベートを、誰彼かまわず話すようなタイプじゃない。
仕事中も、最低限のことしか言わない。でも、それがまた貴之の興味を引いてやまない部分でもある。

—それにしても。

貴之はソファにどさっと座りながら、じんわりと湧いてくる感情に気づく。
偶然とはいえ、あいつのプライベートを知っているのは俺だけ。
誰にも知らせず、誰にも見せずにいたあの時間を、たまたま俺が見ていた。
その事実が、妙に胸を満たしてくる。

—麻里子は俺のものだ。誰にも、やらない。

そう強く思った瞬間、脳裏に浮かんだのは、タクシーの前で電話に出たときの麻里子の表情だった。

「お兄ちゃん!」
あのときの、花がほころぶような笑顔。

—……ブラコンか?

思わず小さく舌打ちした。あんな笑顔、会社でも見たことがない。
あんな声、俺には出してくれたことがない。

……妬ける。

でも、まあ。兄妹相手じゃ結婚できるわけじゃないしな、と一人でふてくされながらも冷静さを取り戻す。

それに、あいつは—

俺のものだ。

視線が、テーブルの上に置きっぱなしになっていた一冊の文庫本に向いた。
カバーの端に書かれたポップなタイトルと、ふんわりしたイラスト。
確か、昼休みに麻里子が読んでいたのと同じラノベだった。

—これか。何か、ヒントがあるかもしれない。

そう思いながら、貴之はその本に手を伸ばす。
麻里子の好きな物語の中に、彼女の心の奥が隠れているかもしれない。

ページを開いた瞬間、微かに甘い紙の匂いがした。
まるで彼女に近づいたときのように—

ラノベを数ページ読んだところで、貴之は思わず絶句した。

—なんだこれは……。

ページの中のヒーローが、あまりにも自分と重なる。
不器用で、言葉足らずで、けれど心の底ではヒロインを独占したくてたまらない。
不安定な態度や強引な一面も、読み進めるほどに自分の姿を見ているようで、思わず顔をしかめる。

しかもヒロインは、自立心が強くてちょっと鈍感—
……まるで、麻里子そのものじゃないか。

やがて物語はクライマックスに差しかかり、初夜の場面へと進んだ。
細やかな心理描写と赤裸々な愛撫の描写に、貴之は思わず息をのむ。

……これ、麻里子が読んでるのか? しかも、何度も。

彼女の部屋に合った本の背表紙は柔らかく、角は丸くなっていた。
幾度となく開かれ、読み込まれた痕跡がはっきりとそこにあった。

ヒロインは三十歳。男性経験がなく、それを恥ずかしいと感じている。
だが、そんな彼女を、ヒーローは愛おしむように包み込み、絶対に傷つけない。

貴之の頬がじわじわと熱くなった。
赤面、という言葉では足りないほどの衝撃。
けれどその奥で、確信にも似た疑問が芽を出す。

—まさか、麻里子も……経験が、ない?

だからこそ、この本に惹かれているのか。
こんなふうに、激しく、でも優しく、全身で包み込まれる愛を—求めているのか?

貴之の胸がずしりと重くなる。

これまでのアプローチじゃ、ダメかもしれない。
俺の気持ちをただ押しつけるんじゃなくて、もっと、ちゃんと安心させてやらなきゃ—

彼は本をパタンと閉じ、手のひらで目元を覆った。

「……作戦、練り直しだな」

夜の静けさの中、ソファの上で目を閉じる貴之の胸には、
初めての恋を前にした少年のような、切実な決意が宿っていた。

彼の夜は、静かに麻里子で満たされていく。
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