その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
今日一日を乗り越えれば、待ちに待った夏休み。
そう思うと、麻里子の口元にふわりと笑みが浮かんだ。
仕事帰りには、後輩・萌(もえ)ちゃんとの約束がある。
ランジェリーを買いに付き合ってほしい、というなかなか珍しい依頼だった。
萌ちゃんは入社3年目。部署のムードメーカーで、誰からも「萌ちゃん」と親しげに呼ばれている、元気いっぱいの社員だ。
先日、その彼女から、珍しく真剣な顔で声をかけられた。
「麻里子さん、ちょっと……相談、乗ってほしいことがあるんです」
てっきり仕事の話かと思って身構えた麻里子だったが、返ってきた言葉に少しだけ面食らった。
「実は……下着を買い替えたくて。でも、ひとりじゃ選べなくて……ついてきてほしいんです」
「……えっ、どうして私に?」
思わず問い返すと、萌ちゃんは慌てたように言葉をつなぐ。
「麻里子さんって、いつも完璧に服を着こなしてるじゃないですか。雑誌で読んだんです。ファッションの完成度って、下着で決まるって。麻里子さんは、きっとそこまでちゃんとしてるんだって……」
そう言って、さらに小声で続けた。
「最近、幼なじみの彼が……結婚をほのめかすようなことを言ってきてて。……だから“ここぞ”ってときの勝負下着も、ちゃんと揃えておきたくて。でも、恥ずかしくて誰にも相談できなくて……麻里子さんしかお願いできないんです!」
その一途な視線に、麻里子は思わず笑ってしまいそうになった。
けれど内心、少し嬉しくもあった。
—まさか、自分がそんなふうに見られていたなんて。
そして、彼女にはまだ話していないけれど—
実は麻里子自身も、静かにランジェリーを愛している。
肌に触れる一枚で、心の奥がすっと整うような感覚を、ずっと大切にしてきた。
「いいわよ」
そう答えた自分の声が、思いのほか弾んでいるのを、麻里子は自分でも感じていた。
今夜は、久しぶりに心からワクワクする買い物になりそうだ。
「……ああ、終わった」
麻里子は、そっとため息をついてPCを閉じた。
定時が過ぎ、オフィスには緩やかな静けさが流れている。
机の上を整えながら、明日から始まる夏休みに思いを馳せる。
一週間、何も考えずに過ごせる。
そのことが、心から嬉しかった。
そのとき、少し離れたデスクから貴之の声が飛んできた。
「麻里子さん、お疲れ様。……明日から夏季休暇だったよな」
麻里子が顔を上げると、彼はわずかに微笑みながらこちらを見ていた。
「今夜、食事でもどうかな?」
一瞬、空気が止まる。
そして麻里子は、静かに微笑んで首を横に振った。
「所長、お誘いありがとうございます。でも今夜は……予定がありまして。申し訳ありません」
貴之の表情が、ほんのわずかに曇った。
「予定……って、何の?」
声は静かだったが、確かに刺がある。
感情を抑え込もうとしているのが、ありありと伝わってくる。
麻里子はその様子を見ながら、心の中で首をかしげていた。
—そんなに怒ること? もしかして、断られるのに慣れてないのかしら。
……いくら女性にもてるからって、自意識過剰じゃない?
思わず呆れそうになったそのとき、明るく通る声がその空気を破った。
「所長ー! ダメですよ、それ!」
萌が、いつもの元気な調子で声を張り上げながら近づいてきた。
「そういうの、セクハラって言うんですからね! 昨日も佐藤さんから注意されたって聞きましたよ?」
腰に手を当て、ちょっと得意げな表情で言い放つ。
「それに今夜は麻里子さん、私と一緒にお出かけするんです。だからダメですっ!」
「……え?」
一瞬、言葉を失う貴之に、萌は追い打ちをかけた。
「所長って、いつも“麻里子さんは俺の嫁さん”とか言ってますよね?」
バチッと目を合わせたあと、にっこり笑って、核心を突く。
「本気で“嫁さん”にしたいなら、そういう詮索とか、やきもちとか、絶対にしないほうがいいですよ? 束縛の強い男って、嫌われますから!」
ぐさっ。
その一言に、貴之の脳内で何かが音を立てて崩れた。
—嫌われる……?
(……それだけは、絶対に避けねば)
硬直したまま何も言えなくなった貴之をよそに、麻里子と萌は仲良く並んでエレベーターへと向かう。
麻里子は何も言わなかった。ただ、小さく会釈して、微笑んだだけ。
その後ろ姿を、貴之はただ黙って見送るしかなかった。
そう思うと、麻里子の口元にふわりと笑みが浮かんだ。
仕事帰りには、後輩・萌(もえ)ちゃんとの約束がある。
ランジェリーを買いに付き合ってほしい、というなかなか珍しい依頼だった。
萌ちゃんは入社3年目。部署のムードメーカーで、誰からも「萌ちゃん」と親しげに呼ばれている、元気いっぱいの社員だ。
先日、その彼女から、珍しく真剣な顔で声をかけられた。
「麻里子さん、ちょっと……相談、乗ってほしいことがあるんです」
てっきり仕事の話かと思って身構えた麻里子だったが、返ってきた言葉に少しだけ面食らった。
「実は……下着を買い替えたくて。でも、ひとりじゃ選べなくて……ついてきてほしいんです」
「……えっ、どうして私に?」
思わず問い返すと、萌ちゃんは慌てたように言葉をつなぐ。
「麻里子さんって、いつも完璧に服を着こなしてるじゃないですか。雑誌で読んだんです。ファッションの完成度って、下着で決まるって。麻里子さんは、きっとそこまでちゃんとしてるんだって……」
そう言って、さらに小声で続けた。
「最近、幼なじみの彼が……結婚をほのめかすようなことを言ってきてて。……だから“ここぞ”ってときの勝負下着も、ちゃんと揃えておきたくて。でも、恥ずかしくて誰にも相談できなくて……麻里子さんしかお願いできないんです!」
その一途な視線に、麻里子は思わず笑ってしまいそうになった。
けれど内心、少し嬉しくもあった。
—まさか、自分がそんなふうに見られていたなんて。
そして、彼女にはまだ話していないけれど—
実は麻里子自身も、静かにランジェリーを愛している。
肌に触れる一枚で、心の奥がすっと整うような感覚を、ずっと大切にしてきた。
「いいわよ」
そう答えた自分の声が、思いのほか弾んでいるのを、麻里子は自分でも感じていた。
今夜は、久しぶりに心からワクワクする買い物になりそうだ。
「……ああ、終わった」
麻里子は、そっとため息をついてPCを閉じた。
定時が過ぎ、オフィスには緩やかな静けさが流れている。
机の上を整えながら、明日から始まる夏休みに思いを馳せる。
一週間、何も考えずに過ごせる。
そのことが、心から嬉しかった。
そのとき、少し離れたデスクから貴之の声が飛んできた。
「麻里子さん、お疲れ様。……明日から夏季休暇だったよな」
麻里子が顔を上げると、彼はわずかに微笑みながらこちらを見ていた。
「今夜、食事でもどうかな?」
一瞬、空気が止まる。
そして麻里子は、静かに微笑んで首を横に振った。
「所長、お誘いありがとうございます。でも今夜は……予定がありまして。申し訳ありません」
貴之の表情が、ほんのわずかに曇った。
「予定……って、何の?」
声は静かだったが、確かに刺がある。
感情を抑え込もうとしているのが、ありありと伝わってくる。
麻里子はその様子を見ながら、心の中で首をかしげていた。
—そんなに怒ること? もしかして、断られるのに慣れてないのかしら。
……いくら女性にもてるからって、自意識過剰じゃない?
思わず呆れそうになったそのとき、明るく通る声がその空気を破った。
「所長ー! ダメですよ、それ!」
萌が、いつもの元気な調子で声を張り上げながら近づいてきた。
「そういうの、セクハラって言うんですからね! 昨日も佐藤さんから注意されたって聞きましたよ?」
腰に手を当て、ちょっと得意げな表情で言い放つ。
「それに今夜は麻里子さん、私と一緒にお出かけするんです。だからダメですっ!」
「……え?」
一瞬、言葉を失う貴之に、萌は追い打ちをかけた。
「所長って、いつも“麻里子さんは俺の嫁さん”とか言ってますよね?」
バチッと目を合わせたあと、にっこり笑って、核心を突く。
「本気で“嫁さん”にしたいなら、そういう詮索とか、やきもちとか、絶対にしないほうがいいですよ? 束縛の強い男って、嫌われますから!」
ぐさっ。
その一言に、貴之の脳内で何かが音を立てて崩れた。
—嫌われる……?
(……それだけは、絶対に避けねば)
硬直したまま何も言えなくなった貴之をよそに、麻里子と萌は仲良く並んでエレベーターへと向かう。
麻里子は何も言わなかった。ただ、小さく会釈して、微笑んだだけ。
その後ろ姿を、貴之はただ黙って見送るしかなかった。