その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子は貴之の言葉を受けて、ほんの数秒、時が止まったように感じた。
「好きだ」—その言葉は、あまりにもまっすぐで、逃げ場がないほど真剣だった。

でも、すぐには返せなかった。

どう返せばいいのか、わからなかった。
胸の奥で何かが確かに揺れているのに、それが「恋」なのか、「ときめき」なのか、「ただの憧れ」なのか……言葉にできなかった。

「……私……」

かすれるように口を開いたものの、言葉が続かない。
その視線を、貴之はただ静かに受け止めていた。焦らせようとはせず、黙って彼女の答えを待っている。

麻里子は、そっと視線を落とす。

貴之にされることは、嫌ではない。
むしろ、触れられると心地よくて、キスされた唇はまだ、じんわりと熱を帯びたままだ。

あの腕に抱きしめられたとき、自分が安心していたことにも気づいている。

—でも、これが「好き」ってことなの?
私は、恋をしているの?
それとも、ただ優しくされて、舞い上がっているだけ……?

自分の気持ちが、まだ輪郭を持っていないことが、もどかしかった。

「……ごめんなさい、今は……うまく言えないんです」

それでも、逃げるような言い方にはしたくなかった。
せめて、正直な気持ちを伝えたかった。

麻里子の声は、小さく震えていたが、貴之はゆっくりと頷いた。

「わかってる。無理に答えなんか、出さなくていいよ。……ただ、今夜は、君のそばにいたかっただけだから」

その言葉に、麻里子の胸が静かに熱くなった。



「……冷えてるうちに、飲もうか」

沈黙をやわらげるように、貴之がそっと声をかけた。
その声音は落ち着いていて、どこか安心させる響きを持っていた。

そして、自然な仕草で麻里子の手を軽く握る。
強くもなく、ためらいがちでもなく、
あくまで優しく、心の距離をそっと縮めるように。

麻里子は驚いたように一瞬まばたきをしたが、手を引くことはなかった。
貴之の手は大きくて、あたたかくて、不思議なほどしっくりと馴染んでいた。

まだ自分の気持ちははっきりしていない。
それでも、この温もりに身を委ねたいと思ってしまうのは、どうしてなのだろう。

「……はい」

小さく頷いて、麻里子はその手をそっと握り返した。

そして二人は、並んでリビングへと向かった。
静かな夜のはじまりを、一緒に過ごすために—。

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