その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
上司に抱き寝されました
「ん……なに? この腕……?」
麻里子はぬくもりに包まれていることに気づき、はっと目を覚ました。見慣れた風の腕――貴之の腕だった。
「えええええーーーーっ!」
状況を瞬時に理解した麻里子は、ベッドから飛び降りるように跳ね起きた。
「おはよう、麻里子」
「おはようじゃないですよ、所長!」
麻里子は顔を赤くしながらバタバタと身支度を始めた。
「す、すみません、寝ちゃって……帰ります!」
「ああ、待って。コーヒーが飲みたい」
「はい、わかりました――って、あれ?」
素直に頷いた自分に、麻里子は思わず立ち止まる。
(……今日、土曜日じゃない? 休日よね?)
「所長、今日はお休みです。私も。コーヒーはご自分でどうぞ」
きっぱりと言い切ると、貴之は悪びれもせず口元を緩める。
「さっき、君、“はい、わかりました”って言ったけど?」
「言いましたけど……」
麻里子は口を尖らせたその瞬間、ふと違和感に気づいた。
「あれ? わたし、ジャケット、どこに?」
「途中で目が覚めたとき、寝苦しそうだったから脱がせてやった」
「……脱がせた⁉」
心の中で絶叫しつつも、麻里子は必死に平静を保つ。
「そのとき起こしてくださればよかったのに」
「気持ちよさそうに寝てたからな。昨日までバタバタしてたし、君も俺も疲れてただろ?」
「……そうですか。たびたびご迷惑かけて、すみませんでした」
「詫びはいらん。いいから、コーヒーを」
真面目な麻里子は、つい律儀に応えてしまう。
「……そういうことでしたら、ぜひ淹れさせていただきます」
ジャケットを手に取り、キッチンへ向かう麻里子。その後ろ姿を見ながら、貴之はふっと口元を緩め、にんまりと笑った。
(……やっぱり、俺の嫁さんだな)
麻里子はこれまで何度か、仕事の一環として貴之の住む高層マンションを訪れたことがあった。
書類の受け渡しに出向いたり、出張の送迎をしたり。
貴之の行動力は“半端ない”の一言で、仕事が時間外に及ぶことも珍しくなかったが、彼女の住まいがすぐ隣の低層マンションということもあり、麻里子はその都度快くサポートしてきた。
もちろん、時間外手当がきちんとつくことも、大きなポイントだった。
そんな“勝手知ったる”キッチンで、麻里子は手際よくコーヒーを淹れていた。すると、奥の部屋からスウェット姿の貴之が現れ、ふわりと香るコーヒーの匂いに目を細める。
「いい香りだな。ありがとう、麻里子」
「所長。呼び捨てはおやめください」
いつものやり取りだ。だが、今日もやはり彼は食い下がる。
「なんで? 麻里子は俺の嫁さんだろう?」
「……いいえ。私は所長の“妻”ではありません。いい加減、おやめください」
真顔で返す麻里子だったが、貴之はどこ吹く風といった表情。
実は、二人は名字が同じ“鈴木”だ。
2年前、貴之が現在の会計事務所の所長に就任するため異動してきた際、長年所長秘書を務めていた麻里子の名字が鈴木だと知ると、貴之はにっこりと言った。
「ちょうどいい。君のことは“麻里子さん”と呼ばせてもらうよ」
それ以来、貴之は所内では一貫して「麻里子さん」と呼んでいる。
ところが、外部との電話応対や来客時になると、決まってこう聞かれる。
「え? 麻里子さんって……所長の奥さんなんですか?」
すると、貴之はまるで当たり前のように、こう答えるのだ。
「はい。うちの嫁さんなんですよ」
満面の笑みで。
もちろん麻里子は即座に否定する。
「違いますっ! まったくの誤解です!」
だが、そうして必死に訂正する姿すら“お約束”のようになりつつある。
昨夜も、事務所の繁忙期が無事に終わった打ち上げ兼納涼会で、同じような場面があった。お酒が進む中、酔ったふりをした貴之が、初めて“さん”を外して呼んだ。
麻里子はぬくもりに包まれていることに気づき、はっと目を覚ました。見慣れた風の腕――貴之の腕だった。
「えええええーーーーっ!」
状況を瞬時に理解した麻里子は、ベッドから飛び降りるように跳ね起きた。
「おはよう、麻里子」
「おはようじゃないですよ、所長!」
麻里子は顔を赤くしながらバタバタと身支度を始めた。
「す、すみません、寝ちゃって……帰ります!」
「ああ、待って。コーヒーが飲みたい」
「はい、わかりました――って、あれ?」
素直に頷いた自分に、麻里子は思わず立ち止まる。
(……今日、土曜日じゃない? 休日よね?)
「所長、今日はお休みです。私も。コーヒーはご自分でどうぞ」
きっぱりと言い切ると、貴之は悪びれもせず口元を緩める。
「さっき、君、“はい、わかりました”って言ったけど?」
「言いましたけど……」
麻里子は口を尖らせたその瞬間、ふと違和感に気づいた。
「あれ? わたし、ジャケット、どこに?」
「途中で目が覚めたとき、寝苦しそうだったから脱がせてやった」
「……脱がせた⁉」
心の中で絶叫しつつも、麻里子は必死に平静を保つ。
「そのとき起こしてくださればよかったのに」
「気持ちよさそうに寝てたからな。昨日までバタバタしてたし、君も俺も疲れてただろ?」
「……そうですか。たびたびご迷惑かけて、すみませんでした」
「詫びはいらん。いいから、コーヒーを」
真面目な麻里子は、つい律儀に応えてしまう。
「……そういうことでしたら、ぜひ淹れさせていただきます」
ジャケットを手に取り、キッチンへ向かう麻里子。その後ろ姿を見ながら、貴之はふっと口元を緩め、にんまりと笑った。
(……やっぱり、俺の嫁さんだな)
麻里子はこれまで何度か、仕事の一環として貴之の住む高層マンションを訪れたことがあった。
書類の受け渡しに出向いたり、出張の送迎をしたり。
貴之の行動力は“半端ない”の一言で、仕事が時間外に及ぶことも珍しくなかったが、彼女の住まいがすぐ隣の低層マンションということもあり、麻里子はその都度快くサポートしてきた。
もちろん、時間外手当がきちんとつくことも、大きなポイントだった。
そんな“勝手知ったる”キッチンで、麻里子は手際よくコーヒーを淹れていた。すると、奥の部屋からスウェット姿の貴之が現れ、ふわりと香るコーヒーの匂いに目を細める。
「いい香りだな。ありがとう、麻里子」
「所長。呼び捨てはおやめください」
いつものやり取りだ。だが、今日もやはり彼は食い下がる。
「なんで? 麻里子は俺の嫁さんだろう?」
「……いいえ。私は所長の“妻”ではありません。いい加減、おやめください」
真顔で返す麻里子だったが、貴之はどこ吹く風といった表情。
実は、二人は名字が同じ“鈴木”だ。
2年前、貴之が現在の会計事務所の所長に就任するため異動してきた際、長年所長秘書を務めていた麻里子の名字が鈴木だと知ると、貴之はにっこりと言った。
「ちょうどいい。君のことは“麻里子さん”と呼ばせてもらうよ」
それ以来、貴之は所内では一貫して「麻里子さん」と呼んでいる。
ところが、外部との電話応対や来客時になると、決まってこう聞かれる。
「え? 麻里子さんって……所長の奥さんなんですか?」
すると、貴之はまるで当たり前のように、こう答えるのだ。
「はい。うちの嫁さんなんですよ」
満面の笑みで。
もちろん麻里子は即座に否定する。
「違いますっ! まったくの誤解です!」
だが、そうして必死に訂正する姿すら“お約束”のようになりつつある。
昨夜も、事務所の繁忙期が無事に終わった打ち上げ兼納涼会で、同じような場面があった。お酒が進む中、酔ったふりをした貴之が、初めて“さん”を外して呼んだ。