その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
モールでの買い物を終えたあと、少し遅めのランチでも食べようかと、ふたりは館内のイタリアンレストランに入った。

夏休みの週末らしく、時間を外してもなお店内は賑わっている。
それでも窓際のテーブルに案内され、ふたりはそれぞれランチスペシャルを注文した。

「うーん、おいしい……」
一口食べた麻里子が、心から幸せそうに目を細めた。

「ほんと、なんでもおいしそうに食べるな」
ナイフを動かしながら、貴之が軽く笑う。

「そうよ、とっても贅沢な瞬間なんだから」
そう言ってフォークを口に運ぶ麻里子は、子どものようにも、大人の女にも見える。

「……そんなふうに思いながら食事したことなんて、あったかな」

ふと呟いた彼女の言葉に、貴之は少し考えてから答えた。

「そんな余裕なかったな。今の事務所に異動する前は特に、時間との戦いだった」
「そんなに忙しかったの?」
「適当にかっ込んでたよ。早食い選手権に出たら、たぶん優勝してたな」

冗談めかして言うと、麻里子は小さく吹き出した。

「今以上に忙しかったって……根っからの仕事人間なのね」
「でも」
貴之はふっと視線を落とす。
「うちでは、ゆっくり食べてた気がする」
「……え?」
「自然と、寛げたんだよ。麻里子の手料理、ちゃんと味わいたかったし」

麻里子は一瞬目を見開いたあと、照れたように微笑んだ。

「そっか……よかったわ。うふふ」
小さな笑い声が、グラスの水音と一緒にテーブルの上に広がっていく。

食後、貴之が会計を済ませ、レストランをあとにした。

「ごちそうさまでした!」
麻里子がうれしそうに言い、ふたりは再び車へと戻る。

駐車場に着くと、貴之は先に麻里子を助手席へと乗せた。
そのあと、後部のトランクを開ける。

購入した袋を丁寧に見ながら、
貴之は、麻里子の部屋に持ち帰るもの、自分の部屋に置いておくものをさりげなく分けていく。
ルージュレッドのワンピース、ベージュのサンダル。
どれも、彼の空間の中に“麻里子”という存在を少しずつ溶け込ませるものだ。

運転席に戻り、エンジンをかける。

「さあ、次は食料品だな」
「うん……今日、なんだかすごく楽しいね」

麻里子のその一言が、静かに貴之の胸に響く。

彼はハンドルを握りながら、小さく笑った。
このまま、こんなふうに—ずっとふたりで日常を重ねていけたらいい。

夏の午後の光が、フロントガラスの向こうで揺れていた。
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