その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子は静かにドアを閉め、ひとりきりになった部屋の中に立ち尽くした。

手のひらには、たったいま渡されたばかりのカードキー。
貴之さんの部屋の鍵。
それは、まるで「この先のすべて」が詰まっているかのような重みを持っていた。

「……いつでも入れるように、って……」

彼の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
静かで、やさしくて、でもあまりにも真剣だったから、
余計に戸惑う。

本気なんだと思う。
あの人は、ちゃんと覚悟している顔をしていた。

けれど—

(……黙って受け取って、いいの?)

好きだって言われた。
愛しているとも言われた。
だけど、気持ちは嬉しいのに、心の中は混乱でいっぱいだった。

—私は、恋愛経験なんてない。
誰かと付き合ったことも、好きになられたことも、
本気で好きになったことすら、自信を持って「ある」とは言えない。

だから……どうしたらいいのか、わからない。
こんなとき、どうすれば正解なのか。
自分の気持ちにどう向き合えばいいのか。

「……わたし、貴之さんのこと、男性として好きなのかな……?」

ぽつりと、つぶやいた自分の声が、やけに響いた。

彼が何かをしてくれて、嫌だと思ったことなんて、一度もなかった。
怖いと感じたことも、苦しいと思ったことも、ない。

けれど、それが「恋」なのか、「愛されたい願望」なのか……わからない。

あの晩の会話だって、飲み会のテンションだったじゃない。
私だけが舞い上がってるだけだったら、どうしよう。

胸の奥に、ずっと沈んでいた“自信のなさ”が、もぞもぞと頭をもたげる。

(……私は、ちゃんと女として見られてるの? 私だけ、なの?)

貴之さんは……モテる。
女好きだって、噂も聞いたことがある。
それに、女性の扱いがすごく上手で……自然で、さりげなくて、
優しいけど、距離の詰め方が速くて—

(もしかして、慣れてるだけなんじゃ……)

私なんて、家庭料理が得意なだけの、地味な女だ。
最初は懐かしさで喜んでくれてるけど、そのうち飽きられるかもしれない。

(……そう。あの時みたいに)

思い出してしまう。
学生時代、初めて人を好きになって、勇気を出して告白して……
でも、返ってきたのは「悪いけど、そういう子はタイプじゃないんだ」
という、あまりにもあっけない拒絶だった。

「……料理が好きで、目立たない子って、つまんないもんね」

あのときの痛みが、ふいに胸を締めつけた。

もし、もしも、今……
本当に貴之さんを好きになって、
その彼に飽きられたら—

(……私、耐えられるの?)

知らないうちに、カードキーを握る手に力が入っていた。

行くべきか。
行かないべきか。

心の天秤は、ずっと揺れ続けていた。
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