その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子は黙ったまま、視線を逸らした。
「麻里子、答えろ」
静かに、しかし一切の拒絶を許さない声で、貴之が詰め寄る。
その目から逃げることを許されず、麻里子の瞳からぽろぽろと涙が溢れた。

「もう一度聞く」
貴之は低く告げる。「答えるまで、お前を放さない。さっきの言葉、どういう意味だ」

「……私、恋愛経験がなくて、わからないの」
震える声で、ようやく麻里子が言葉を紡ぐ。
「甘い言葉も、抱きしめられるのも、プレゼントをもらうのも……全部嬉しいのに、戸惑ってしまうの。すごく大切にされてるって、わかってるのに」

視線は泳ぎ、涙は止まらない。
「私……自分の私物を、他人の部屋に置いたことなんて一度もないの。あなたがあんなふうに用意してくれてるのを見て、びっくりして……怖くなってしまったの」

貴之は黙って、麻里子の頬を伝う涙を指で優しく拭う。
けれど、掴んだ手首は放さない。
その手に込められた執着と欲情は、確かに熱を持っていた。

(全部言え。おまえが何に怯えてるのか、俺は全部知りたい)
そう思いながら、貴之は声を潜めて促す。
「続けろ。麻里子、おまえの言葉を聞かせてくれ」

深く息を整えて、麻里子がつぶやく。

「……貴之さんは、とても魅力的な人よ。あなたのまわりには、美しくて洗練された女性たちがいっぱいいた。私はずっと見てきた……あなたに恋する女性を」

貴之は黙って聞いている。
麻里子の言葉は、やがて震えを帯びていく。

「社内でも、社外でも……あなたは“女好き”って噂されていた。地位も、経済力も、ルックスもあって、理想の男性として見られてる人。そんなあなたに、私みたいな地味な女が、大切にされるわけないって……」

「きっと、珍しがってるだけなんだって。こんな地味な女と、ちょっと遊びたいだけなんだって……」

そう言ったきり、麻里子は言葉を失った。

貴之は、麻里子の顔をじっと見つめたまま、低く問いかけた。

「そう思ってるなら……なぜ泣く?」

声は静かだったが、有無を言わせぬ迫力があった。

「なぜ、ここに来た? 処女を捨てたくなったからか?」

「違うわ!」

即座に麻里子が叫ぶ。顔を赤らめ、瞳を潤ませながら必死に否定する。

「もし、ただ“初めて”を経験したいだけだったなら……あの晩、私はあなたに抱かれてた!」

貴之の視線は鋭くなる。間髪入れずに追い詰める。

「じゃあ、なぜカードキーを使った? 返すためか?」

「違う……」

「なら、なぜ来た?」

間合いを詰め、逃がさぬように麻里子の肩を押さえる。
その腕に込められた熱は、明らかに理性だけのものではなかった。

「麻里子……お前が、本当に望んでいるものは何なんだ?」

その問いに、麻里子の呼吸が浅くなる。

「……そんなの……わからない……」

「答えろ」
低く、命令のように貴之が言う。

「お前は、もうわかっているはずだ。自分が、何を求めてここに来たのか—言え」

麻里子は顔を背けようとした。
だが貴之は、その頬を掴み、視線を逃させなかった。

「言うまで、お前は俺から逃げられない」

その目には、怒りでも悲しみでもない、ただひたすらに、
“自分のものにしたい”という男の執着だけが燃えていた。

麻里子は唇を噛み、目を伏せたまま、何も応えられずにいた。
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