その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子が支度を整えてエントランスへ向かうと、正面玄関にはすでに車が停まっていた。
洗いざらしの白シャツにネイビーのチノパン。見慣れたスーツ姿とは違う、カジュアルな装いの貴之が、ハンドル越しに静かにこちらを見ている。

(……すごく、雰囲気が違う)

思わず足を止めかけた麻里子だったが、すぐに駆け寄った。

「お待たせしてすみません!」

「いや、予定どおりだ」

さらりと応じた貴之は、助手席のドアを開けて麻里子をそっと促す。乗り込んだのを確認すると、自分も運転席へ回って乗り込んだ。

エンジンをかける前、貴之がふと手を止める。

じっと、麻里子を見つめてきた。

「……え? な、なんですか?」

麻里子は思わず身を引きながら尋ねた。




貴之は運転席から降りて、エントランスに姿を現した麻里子を見た瞬間、ふと息を呑んだ。

夏の風が、似合う女だ。

麻里子は、アイボリーのワンピースをまとっていた。柔らかな素材が身体にほどよく沿い、風に揺れるたびに、彼女の輪郭がふんわりと浮かび上がる。
その姿はどこか儚げで、それでいて芯のある女性らしさをまとっていた。

足元のウエッジソールのサンダルは、彼女の姿勢をすっと引き上げ、歩くたびに揺れる裾と共に、自然なリズムを生んでいる。
ピンクベージュの小さなクロスボディバッグが、麻里子の控えめな気質を物語っていた。

そして、耳元。
光の加減でちらりと揺れたゴールドのピアスに、貴之の視線が止まる。

(……そんなものひとつで、どうしてこんなに惹かれるんだ)

無駄を削ぎ落としたその装いが、むしろ彼女の美しさを際立たせている。
着飾るより、隠されたもののほうが余計に気になる、そんな男の本能を、静かに刺激してくる。

貴之は、助手席のドアを開けながら、抑えた声で言った。

「……いい。今日の服、すごく似合ってる」

麻里子は一瞬きょとんとした後、頬を染めて小さくうつむいた。
その仕草までが、なんとも愛らしい。

(……ほんと、ずるい女だ)

貴之は無意識のうちに、ゆっくりと微笑んでいた。

カフェの住所をナビに登録してから、ゆっくりと車が動き出す。

貴之の運転は穏やかで、ブレーキひとつとっても丁寧だった。
助手席に座った麻里子は、シートに預けた背中に、心地よい安定感を感じていた。

「……どうしてそのカフェに?」

ハンドルに目を向けたまま、貴之がふいに尋ねてくる。

麻里子はぱっと顔を上げ、うれしそうに答えた。

「麹料理のカフェって、最近けっこう増えてるんですけど……そこのオーナーさんのインスタを見たんです。写真がすごくおいしそうで、ついパンをいくつか注文してみたら、本当に美味しくて」

「ふむ」

「食材へのこだわりが、私のツボにぴったりで。それで、これはきっと他のお料理も間違いないはず!って思ったら、行ってみたくなったんです。しかも海も近くて、景色もよさそうですし」

貴之は軽く頷きながら、思い出したように言った。

「そういえば……あれか。君がいつだったか、小西と一緒に、徹夜明けの俺にくれたパン。あの店のだな?」

「はい、そうです! 覚えててくれたんですね。あれ、朝一で届いたばかりのパンで……」

「うまかったよ、あれ。やたら体に沁みたのを覚えてる」

「うれしい……あれだけパンがおいしかったから、絶対お料理もいいはずって思って。今日はやっと行ける日で」

「そうか」

貴之は、ほんの少しだけ笑みを深める。

「良かった。一緒に行けて」

「……所長、こちらこそ、車を出してくださってありがとうございます」

そう言いかけたとき、貴之の声が少しだけ強まる。

「麻里子、“所長”はやめろ」

「……え?」

「それに敬語も禁止。今日は、俺もお前も“デート”なんだから」

「で、デート……なんですか?」

思わず声が裏返る。

「そうだよ。だから敬語も、もういらない」

麻里子は一瞬、言葉に詰まったあと、少しだけ頬を赤らめながら、ゆっくりと言い直した。

「……わかった、わ?」

そのたどたどしさが、貴之の胸をくすぐる。

(慣れない言い方、ぎこちない態度……全部、可愛い)

そう思いながら、彼は何も言わず、そっとウインカーを出した。
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