その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
しばしの静寂。
麻里子は貴之の胸に額を預けたまま、ふうっと静かに息を吐いた。
熱が引ききらぬ身体の奥で、幸福の余韻がゆっくりと波紋を描いている。

「……たくさん、甘えてしまった」
かすかな声でそうつぶやくと、貴之が低く笑った。

「それが、どれだけ嬉しかったか。……言葉では足りないくらいだ」

指先で髪を梳きながら、貴之はゆっくりとその香りを吸い込んだ。
沈黙は、もはや気まずさではなく、ふたりにとって贅沢な間だった。

「今日、このあとはどう過ごそうか」
貴之が、穏やかな口調で尋ねる。

「今日、このあとはどう過ごそうか」

穏やかな口調で、貴之が問いかける。

「休暇なんて、あっという間に終わってしまう。どこか出かけようか?」

「そうね……暑いから、できれば屋内がいいな」

「美術館はどうだ?」

「ちょうど行きたい展示があったの。汐留にある美術館で、ベル・エポック期の芸術を特集しているの。ずっと気になっていたのよ」

「汐留か……いいな。ランチは周辺で寿司にしよう」

「わあ、嬉しい。楽しみ」

「そのあとは銀座でショッピングだな」

「銀座、大好き。歩くだけで気分が上がるし、喫茶店も書店もあるから、いくらでも楽しめちゃう」

「じゃあ、決まりだな」

麻里子は小さく頷き、「少しだけ支度してくるわね。待っていてくれる?」と微笑んだ。

「もちろん。急がなくていい」

麻里子はドレッサーの前に座り、レモンイエローのワンピースをハンガーから外す前に、軽くメイクを整える。鏡越しに、自分の唇へと口紅を丁寧に重ねていく。
ふと、さっきの貴之の愛撫が脳裏をかすめた。
まだ自分でも掴みきれない“女”としての魅力。けれど、彼のまなざしに触れるたび、それは確かに花開いていく気がした。もっと綺麗になりたい。もっと、彼の隣にふさわしく。

その頃、リビングに残った貴之は一本の電話をかけていた。

「午後四時に予約をお願いします」

電話口の相手が確認する。

「ご紹介者はどなた様でしょうか?」

「滝沢真樹です」

「……かしこまりました。鈴木様、お待ちしております」

貴之が予約を入れたのは、紹介者がなければ決して入店できない、幻のランジェリーメゾン。
会員にも厳格なルールが設けられ、たとえ王侯貴族であろうと規律を破れば即、出入り禁止となる場所。
彼はふと、麻里子のランジェリー姿を想像した。
きっと、あの店でなら…彼女自身がまだ知らない“美しさ”に出逢える。

「お待たせ」

麻里子が戻ってきた。
貴之がプレゼントした、陽光のようなレモンイエローのワンピースに、同じく彼が選んだサンダルをあわせている。

貴之はその姿を一瞥し、静かに目を細めた。

「……綺麗だ。よく似合ってる」

「ありがとうございます」

頬を染めながら、麻里子が小さく笑う。
二人は自然に手をつなぎ、ゆっくりと外へ出ていった。
やわらかな陽射しの中、次の物語が、静かに幕を開けようとしていた。
< 71 / 127 >

この作品をシェア

pagetop