その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
貴之のマンションのエントランスに差しかかると、買い物袋を片手にした美和子の姿があった。

「あら、麻里ちゃん、鈴木さん。こんにちは。お久しぶりね」

穏やかな微笑みに、麻里子がにこやかに応える。

「美和子さん、こんにちは。お元気でしたか?」

「ええ、おかげさまで。…でも、まだまだ暑いわね」

ふっと視線を移した美和子が、ふたりの様子に気づいて目を細める。

「もしかして、休暇中? デートの帰り?」

「はい、そうなんです」

麻里子が少し照れたように笑うと、美和子はふと考え込むような表情を見せたあと、声を弾ませた。

「ねえ、今夜、予定あるかしら?」

「今夜…特には」

麻里子がそう答えると、美和子はふっと口元を緩めた。

「よかったら、うちで飲まない? 真樹さんから、そろそろ帰れそうって連絡があったの」

一瞬、麻里子と視線を交わした貴之が、静かに頷いた。

「ご迷惑でなければ、ぜひお伺いします」

「じゃあ、またあとでね」

美和子が柔らかく手を振り、麻里子と貴之はエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まる直前、彼女の笑顔がふたりの視界に残った。

夜の風が心地よく吹き始めた頃、真樹と美和子の部屋にはワインの香りと笑い声が溶け合っていた。

ダイニングテーブルには、美和子特製のアンティパストやバゲット、チーズ、そして真樹が選んだワインがずらりと並び、すでにワインボトルは2本目に突入していた。

「ねえ、鈴木さんって、離婚してからずっと独身だったの?」
美和子がふと尋ねると、貴之は少し肩をすくめてからグラスを傾ける。

「はい。気づいたら、仕事ばかりしていました」

「わかる気がするわ〜。真面目そうだもの」

そう言いながら、美和子がちらりと真樹を見た。

「真樹さんとは、まったく逆タイプだったかもね」

「ちょっと、それどういう意味?」
真樹がわざと不満げな顔をして、すかさず美和子のグラスにワインを注ぐ。

「だって…ねえ、麻里ちゃん。信じられる? この人、私と2回しか会ってないのに勝手に婚姻届けを準備してたのよ」

「えっ!」
麻里子が思わず吹き出し、隣の貴之も目を丸くする。

「……それは、かなり強引ですね」

「だろう?」
真樹が、悪びれもせず胸を張る。

「一目惚れだったんだ。逃したら一生後悔すると思ってな」

「後悔される前に、私が逃げたけどね」

美和子がさらりと言い、全員がどっと笑いに包まれる。

「でも、25年越しにこうして一緒にお酒を飲んでるって、やっぱり運命ですよね」
麻里子がそう言うと、美和子は照れくさそうに頷いた。

「うん。…そうかもしれないわね」

「でも真樹さん、もし今だったら絶対炎上案件よ? 初対面の女性にいきなり“結婚するぞ”なんて言ったら」

「だな。下手したらストーカー扱い」
貴之が真顔でツッコみ、またしてもテーブルに笑いが弾ける。

「まったく、時代が変わったわねえ」

グラスを合わせ、笑いながら酔いの熱が緩やかに全員の頬を染めていく。
夜はまだ更けない。懐かしくてあたたかな、ほんのり酔った“家族未満”のような時間が、そこに流れていた。
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