その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
朝食を終えたふたりは、早朝の澄んだ空気を味わいながら、混み合う前にと榛名神社へ向かった。

朝霧が境内をゆるやかに包み、石段を登る足音さえ、どこか神聖な静けさに溶け込んでいく。
木々の間から漏れる光が幻想的で、まるで夢の中を歩いているかのようだった。

「……きれいね」
麻里子が立ち止まり、瓶子(みか)の滝に目を奪われた。水が流れる音が心に沁み入るようで、ふたりはしばらく言葉を交わさず、ただその景色を見つめた。

境内では、国指定重要文化財の神楽殿、額殿、本殿をゆっくり巡り、深く一礼するたびに、身体も心も整っていく気がした。

神社をあとにしたふたりは、伊香保グリーン牧場へ向かう。
広がる緑と牧草の香り、ひつじやヤギと触れ合う非日常の時間に、麻里子は何度も笑顔を見せた。

「ねえ、見て。貴之さんの服、ヤギのよだれついてる」
「くっ……まったく、こいつら……」
「かわいいじゃない、ヤギも、貴之さんも」
「……おい、誰がヤギだ」

自然の中で笑い合う時間は、昨日の夜とはまた違う、軽やかで素直な幸福だった。

お昼は石段街へ戻り、名物の水沢うどんをいただいた。
コシのある白いうどんを天ぷらと共に楽しみ、デザートには湯の花まんじゅうを分け合って食べた。

「玉こんにゃく……も気になるけど、もう入らない……」
麻里子がため息交じりにつぶやく。
「じゃあ、明日帰る前に食べよう。俺も気になってた」
ふたりで小さく笑い合い、手を繋いだまま石段を下った。

午後は、静かな時間を求めて美術館巡りへ。

まず訪れたのは、竹久夢二伊香保記念館。
柔らかい線で描かれた夢二の美人画に、ふたりは自然と歩調を緩め、展示を眺める。

「夢二って、恋多き男だったんだな。まあ、美人画で有名だしな」
貴之がぽつりと言った言葉に、麻里子は思わず顔を赤らめる。

(……貴之さんもモテるし、女好きって噂もあったし……夜だって、あんなに……)

昨日の夜の熱を思い出し、麻里子は顔を覆いたくなるような羞恥に駆られた。
見られたくなくて、早足で展示室をあとにする。
「……あれ?麻里子?」
後から追ってきた貴之に気づかないふりをしながら、彼女は次の場所へ向かった。

徳冨蘆花記念文学館では、一転して落ち着いた空間に身を置く。
展示品や生涯についてじっくりと学び、ふたりは言葉少なに静かな時間を共有した。
誰かの人生に触れるようなこの場所で、ふたりの距離もまた、しっとりと深まっていく。

そして本日最後の訪問先は、伊香保現代ミュージアム。

麻里子のお目当ては、新鋭アーティスト山永湖順の展示だった。
展示室に入るなり、麻里子は小さな声で息を呑む。

「……やっぱり素敵……この人の作品、すごく好きなの」
「どうして?」
「緩やかな曲線の美しさと、祈りのような静けさがあって……でも、どこか少女のような可愛さもあるの。大手町の展示で初めて見て、心を持っていかれちゃって」
麻里子が目を輝かせて語る様子に、貴之は微笑を浮かべながら、彼女の“好き”をもっと知りたくなっていく。

帰り際、美術館のショップで貴之がそっと言った。
「これ、旅の記念に。使うたびに今日のこと思い出せるだろ?」

彼が手渡してくれたのは、山永湖順の波を描いたクリアファイルとノートブック。
麻里子はそれを胸に抱きしめるようにして、静かに笑った。

「……ありがとう。今日、来てよかった」

夕暮れが近づく頃、ふたりは宿へと戻った。
記憶に刻まれる一日を携えて、伊香保の静かな夜へ。
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