その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子、混乱する
翌朝。
麻里子は、貴之が目を覚ます前にそっとベッドを抜け出し、自宅マンションへ戻った。
静かなバスルームに湯を張り、ゆっくりと身を沈める。
ふうっと吐いた息が、白く湯気に混ざっていく。
――プロポーズ。
まさか、あの貴之さんから……。
思い出しただけで胸の奥がじんわりと温かくなった。
驚いた。でも、それ以上に――嬉しかった。
けれど、現実はどうだろう。
正直、展開が早すぎて……心も体も追いつかない。
同棲だなんて――
つい数日前まで、職場の上司と部下という関係だった私たちが。
仕事以外で一緒に時間を過ごしはじめて、まだ一週間。
彼のことを全部知ってるわけじゃないし、
彼だって、私の全部を知っているわけじゃない。
お湯の温度が、ほんの少し熱く感じられてきた。
麻里子は重たい気持ちのまま、浴室をあとにした。
キッチンで冷たい水を一杯。
窓を開けると、朝のひんやりとした空気がすっと肌に触れて、少し気持ちがほぐれる。
リビングのソファに身を預け、麻里子は目を閉じて、深く息を吸い込んだ。
……そうだ、私には夢がある。
心の奥で、確かに小さくつぶやく。
けれどその夢と、結婚という現実が、いまはどうしても結びつかない。
「……結婚なんて、できない」
ぽつりと零れた言葉のあとに、長いため息が部屋に溶けていった。
麻里子は、40歳の誕生日を迎えた日に――ひとつの決断をしていた。
今年いっぱいで、今の仕事を辞める。
そして、このまま一人で生きていこう、と。
人生は一度きり。
だったら、誰かの顔色をうかがいながら過ごす時間よりも、
自分のためだけに、自分のペースで生きてみたいと思った。
料理が好きだった。
気取ったレストランより、庶民的な、誰でもふらっと立ち寄れる小料理屋。
そんな場所で働いてみたい――温かい湯気とだしの香りに包まれながら、誰かの日常にそっと寄り添うような。
そして、旅をしてみたい。
知らない街を歩き、土地の名物を味わい、季節の風を感じる。
まだ体が元気に動くうちに。
働き盛りの今、老後のことを考えれば、無謀なのかもしれない。
でも、私は――後悔だけはしたくなかった。
その頃の貴之さんは、ただの上司だった。
近寄りがたくて、仕事一筋で、どこか別世界の人。
でも今は――違う。
私は彼を、心から愛している。
そして、彼も私を、深く愛してくれている。
こんなふうに求められたことなんて、今までなかった。
一緒に過ごす時間は、夢のように満ちていて、あたたかい。
……幸せ。心から、そう思う。
だけど。
このままで、本当にいいの?
私の描いていた未来は、どこへいってしまうの?
彼の傍にいることで、私は自分を、見失ってしまわない?
「……このままが、いいの?」
誰に問うでもなく、麻里子は心の中でそっとつぶやいた。
その声は、湯気のように静かに空へと溶けていった。
麻里子は、貴之が目を覚ます前にそっとベッドを抜け出し、自宅マンションへ戻った。
静かなバスルームに湯を張り、ゆっくりと身を沈める。
ふうっと吐いた息が、白く湯気に混ざっていく。
――プロポーズ。
まさか、あの貴之さんから……。
思い出しただけで胸の奥がじんわりと温かくなった。
驚いた。でも、それ以上に――嬉しかった。
けれど、現実はどうだろう。
正直、展開が早すぎて……心も体も追いつかない。
同棲だなんて――
つい数日前まで、職場の上司と部下という関係だった私たちが。
仕事以外で一緒に時間を過ごしはじめて、まだ一週間。
彼のことを全部知ってるわけじゃないし、
彼だって、私の全部を知っているわけじゃない。
お湯の温度が、ほんの少し熱く感じられてきた。
麻里子は重たい気持ちのまま、浴室をあとにした。
キッチンで冷たい水を一杯。
窓を開けると、朝のひんやりとした空気がすっと肌に触れて、少し気持ちがほぐれる。
リビングのソファに身を預け、麻里子は目を閉じて、深く息を吸い込んだ。
……そうだ、私には夢がある。
心の奥で、確かに小さくつぶやく。
けれどその夢と、結婚という現実が、いまはどうしても結びつかない。
「……結婚なんて、できない」
ぽつりと零れた言葉のあとに、長いため息が部屋に溶けていった。
麻里子は、40歳の誕生日を迎えた日に――ひとつの決断をしていた。
今年いっぱいで、今の仕事を辞める。
そして、このまま一人で生きていこう、と。
人生は一度きり。
だったら、誰かの顔色をうかがいながら過ごす時間よりも、
自分のためだけに、自分のペースで生きてみたいと思った。
料理が好きだった。
気取ったレストランより、庶民的な、誰でもふらっと立ち寄れる小料理屋。
そんな場所で働いてみたい――温かい湯気とだしの香りに包まれながら、誰かの日常にそっと寄り添うような。
そして、旅をしてみたい。
知らない街を歩き、土地の名物を味わい、季節の風を感じる。
まだ体が元気に動くうちに。
働き盛りの今、老後のことを考えれば、無謀なのかもしれない。
でも、私は――後悔だけはしたくなかった。
その頃の貴之さんは、ただの上司だった。
近寄りがたくて、仕事一筋で、どこか別世界の人。
でも今は――違う。
私は彼を、心から愛している。
そして、彼も私を、深く愛してくれている。
こんなふうに求められたことなんて、今までなかった。
一緒に過ごす時間は、夢のように満ちていて、あたたかい。
……幸せ。心から、そう思う。
だけど。
このままで、本当にいいの?
私の描いていた未来は、どこへいってしまうの?
彼の傍にいることで、私は自分を、見失ってしまわない?
「……このままが、いいの?」
誰に問うでもなく、麻里子は心の中でそっとつぶやいた。
その声は、湯気のように静かに空へと溶けていった。