その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子の「もう会うのをやめましょう」という言葉が、静かに、けれど確実に、貴之の胸を貫いた。

一瞬、時が止まったようだった。
その場の空気が、音を失う。

貴之はゆっくりと立ち上がり、テーブル越しに麻里子を見つめた。
その瞳に宿るのは驚きではない。怒り、哀しみ、そして──深い絶望だった。

「……ふざけるな」

低く、絞り出すような声だった。

「そんな一言で、全部なかったことにするのか?
あの時間も、この想いも、全部──なかったことに?」

麻里子は小さく首を振った。

「そんなつもりじゃ……」

「じゃあなんなんだ!」

貴之の声がわずかに荒ぶると、麻里子はびくりと肩を震わせた。
その反応に、貴之は一瞬息を飲み、そして、言葉を飲み込んだように静かになった。

ゆっくりと歩を進め、麻里子の前に立つ。

そして、まるで確認するように問いかけた。

「……俺は、お前にとって、何なんだ?」

沈黙。

麻里子は視線を伏せたまま、答えなかった。

貴之はその沈黙に、静かに、けれど確実に怒りを沈めていく。
そして、麻里子の顎にそっと手を添え、顔を上げさせた。

視線が合う。

「言葉なんていらない。
お前の目を見れば、まだ終わっていないって、わかる」

貴之の声は、さっきよりも低く、けれど強かった。

「俺たちは別れない。
そして──俺たちは結婚する。絶対にな」

宣言のような言葉を残し、貴之は手を放した。
そのまま振り返り、麻里子の部屋を静かに後にする。

玄関のドアが閉まる音がしても、麻里子はその場から動けなかった。

残された温度と、胸に響いた言葉だけが、しばらく彼女の中で、波のように繰り返されていた。



「……俺は、お前にとって、何なんだ?」

貴之の問いは、沈黙のなかに重く降りた。
そのまなざしは真っ直ぐで、揺らぎもなく、ただ麻里子の答えだけを待っていた。

けれど──麻里子は、答えることができなかった。

言葉が喉元までこみ上げてきて、どうしても口にできない。
彼を傷つけているのが分かっているからこそ、余計に言えなかった。

(誰よりも、愛しい人)

それが、間違いなく自分の本音だった。
けれど、口にした瞬間に──すべての決意が揺らいでしまう。
この人の腕に飛び込んでしまえば、きっともう後戻りできない。

(こんなにも私を愛してくれる人は、もう現れないかもしれない)

麻里子は、それさえもわかっていた。
けれど──それでもなお、自分の人生に賭けてみたいと思った。

成功するかもわからない。
大きな失敗をするかもしれない。
それでも、自分で選んだ道を、自分の足で歩いてみたかった。

(そんな私を隣に置いたら、きっと私は、ずっと罪悪感の中であなたを見てしまう)

──ごめんなさい。

言葉にはならなかったその想いが、胸の奥で破裂したように、麻里子はその場にうずくまった。
両手で顔を覆い、抑えきれない嗚咽が喉からあふれ出す。

小さく震える肩。
流れる涙の意味は、後悔か、決意か、それともそのどちらもか──

ただひとつ言えるのは、麻里子がいま、本当の意味で初めて「自分の人生を選んだ」ということ。

涙の向こうに見える未来は、まだ何も見えない。
それでも麻里子は、泣きながら、その一歩を踏み出そうとしていた。

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