その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子の部屋を出たあと、貴之はしばらく立ち尽くしていた。
胸の奥が、じんじんと痛む。だが、その痛みさえも──愛しいと思えた。

(麻里子……お前は、俺を愛している)
確信はあった。言葉にはならなくても、あの目を見ればわかる。

ただ、それ以上に強く伝わってきたのは、彼女が「自分の人生」を懸命に生きようとしていることだった。

(やりたいことって、何だ……?)
なぜ、それを俺に話してくれない?
なぜそれが、俺と生きることの妨げになる?

──遠慮か。
それとも、俺が隣にいることが“重い”のか。
エレベーターのボタンを押す。
答えのない問いが、頭の中をぐるぐると回る。

扉が開くと、中に真樹がいた。

「貴之、お前……大丈夫か?」

貴之は笑った。自分でも驚くほど、乾いた笑いだった。

「全然、大丈夫じゃない」

真樹は一瞬だけ黙って、貴之を見つめた。

「麻里子さんと、何かあったな」

「プロポーズした。断られた。……それだけじゃない。“もう会うのやめたい”って言われた」

言葉にして初めて、現実味が増す。
胸が、ズキンと痛んだ。

「今から、うち来いよ」

真樹の声はあくまで自然だった。いつも通りで、ありがたかった。

最上階に着くと、美和子が玄関に立っていた。

「あら、おかえりなさい。貴之さんも」

「突然、悪い」

「気にしないで。上がって」

ソファに腰を下ろすと、美和子が紅茶を運んできた。
香りが、心の奥にゆっくり染み込んでいく。

貴之は一息つき、静かに話し始めた。

「振られた。
プロポーズ、きっぱり断られた。
“もう会うのもやめましょう”って言われた。
……でも、俺は麻里子を諦めない」

真樹も美和子も、黙って聞いていた。
余計な言葉も、反応もいらなかった。
この二人の静けさは、いつも正しい。

しばらく沈黙が流れていた。
美和子が紅茶をひと口飲み、ふと静かに口を開いた。

「ねえ……麻里子ちゃんって、恋愛経験、あんまりない方じゃない?」

貴之は少し眉を寄せた。

「たぶん……そうだな。過去のことは、あまり話さないけど」

美和子はうなずいた。

「仕事では、もう2年以上一緒にいたんでしょう?でも、恋人として付き合い始めたのは──10日くらい?」

「……そうだな。確かに、たったそれだけだ」

「それって、ちょっと早すぎたんじゃないかしら」

美和子の声は、責めるでもなく、ただ静かに事実を見つめていた。

貴之は唇を引き結んだまま、しばらく考えていたが、小さく頷いた。

「……そうかもしれない。
でも、もう麻里子のいない人生なんて、考えられないんだ」

その言葉に、美和子は少しだけ目を伏せた。

「だから、結婚なの?」

「……ああ。俺は、麻里子を守りたい。
仕事のことも、生活も、心のことも──全部。
彼女が怯えたり、揺れたりしないように。
俺が傍にいれば、そう思ってる」

「でも、それって……麻里子ちゃんが本当に望んでる“守られ方”なのかしら?」

美和子の問いに、貴之ははっとしたように言葉を失った。

「……それは、わからない」

「ううん、きっと彼女自身も、まだわかってないのよ」

そう言って、美和子はやさしく微笑んだ。

「ただ、ひとつだけ言えるのはね。麻里ちゃん、自分のことを“誰かに守られる資格がない”って、思ってる節があるわ。……私も昔、そうだったから」

貴之は静かに目を閉じた。
その言葉を、胸の奥で噛みしめるように。

夜は深まり、三人の間に、あたたかい沈黙が流れた。
何かが、少しだけ動き出したような気がしていた。
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