その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

退社までひと月

次の日、麻里子の辞表は、淡々とした所作で貴之に受理された。

それからの一週間、何事もなかったように日々は流れた。
貴之から個人的な連絡は一切ない。
秘書としての業務はいつも通りにこなされた。
「あと三週間。そうしたら、もうこの人には会えなくなる」

そう思うたびに、麻里子の胸に、かすかな痛みが走った。

貴之はいつも通りだった。
精力的に働き、淡々と指示を出し、ときに「麻里子さん」と呼びかけて微笑む。
その微笑みに、かつて自分だけに向けられた温もりが混ざっている気がして、麻里子は苦しくなった。

最初からわかっていたはずなのに。
この人は、女の扱いに長けていて、たくさんの女性に好かれる人。
そんな彼に、ほんのひとときでも「特別」にされてしまった。
それがどれほど甘くて、どれほど残酷だったか。
麻里子は、自分の胸の痛みに戸惑いながら、黙々と仕事をこなした。

引継ぎが始まった。
後任は、若い男性だった。
黙々と仕事を覚えようとするその姿に、麻里子は集中しようと努めた。

貴之が、「後任は男性で」と希望したことなど、麻里子はまだ知らなかった。



麻里子の送別会は、事務所総出でにぎやかに開かれた。

当然のように、麻里子の席は貴之の隣だった。
「主役なんだから」と何度も注がれるお酒に、麻里子もすっかり頬を染めていた。

終わりが近づいたころ、ほろ酔い加減の若手社員がぽつりとつぶやいた。

「……麻里子さんって、てっきり寿退社されるのかと……思ってました〜」

その場が一瞬だけ静まり返る。
すかさず別の社員が、「おい、それ普通にアウトだぞ」とツッコミを入れる。

「あっ、すみません! でも……ほんとに、お二人お似合いだったから……」

麻里子は苦笑しながら、穏やかに応じた。

「私が隣にいたら、それは所長に失礼でしょう?」

そのひとことに、笑いが起きる。
けれど女性社員の一人がふと、しみじみと言った。

「でも……私も思ってました。所長、麻里子さんを見る目がすっごく優しいなって」

え?――と思わず麻里子がその社員を見る。

そのとき、隣の貴之が、グラスを傾けながらさらりと口にした。

「そりゃそうさ。麻里子は俺の嫁さんだから」

場が、一瞬ぽかんとしたのち、どっと笑いが広がった。

「えぇ〜!」「何それ〜!」「所長、それ反則〜!」
あちこちからツッコミと笑いが飛び交い、宴の空気がいっそうやわらいだ。
麻里子は顔を赤らめ、肩をすくめて苦笑するしかなかった。

貴之はどこか楽しげに微笑んでから、立ち上がった。

「……そろそろ、お開きにしようか」

帰り際、自然な流れで貴之が言う。

「送っていくよ」

二人は並んで、タクシー乗り場へと歩いた。
夜風が頬に触れ、宴の笑い声が背後に遠ざかっていく。
夜風が吹き抜けるなか、麻里子の心の奥で、何かがそっと軋んだ。
けれど、言葉にはならなかった。

タクシーに乗っても、二人の間には沈黙だけが流れていた。
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