甘い生活を夢見る私は、甘くない彼に甘やかされる
 会社に到着すると、いつものように、送られてきた仕事をどうにか片付け、定時で上がる。
 毎日のその繰り返しが、ようやく、人並みにできるようになってきた。

 ――……でも……。

 私は、部屋に帰るなり、バッグからスマホを取り出し、昼間送られてきたメールを見つめる。


 ――津雲田月見様。


 ――大変お待たせいたしました。
 ――相続手続きが、すべて終了いたしました。


 ――つきましては、サインしていただく書類がいくつかございますので、ご都合のよろしい日にお目にかかりたいと思いますが、いかがでしょうか。


 視線を下げたまま、目を閉じる。

 ――……いよいよ、だ。

 これで――私は、”ツクモダ”の娘、ではなく――ただの、”津雲田月見”になるんだ。

 ――もう、戻るコトは、できないし――戻るつもりも無い。

 私は、土曜日に櫛方さんと会うコトを約束し、増沢にもそう伝える。

 ――承知いたしました。
 ――増沢も、同席させていただいてよろしいでしょうか。

 それに、すぐにOKを出し、もう、何も広がっていないベッドに腰を下ろす。

 ――……そしたら……会社辞めて……どこに行こうかな。

 ――パパとママが、よく行ってたヨーロッパの方?
 ――それとも、アジア?

 でも、海外で暮らすとなると、言葉とか生活習慣とか、いろいろ大変そう。
 ――けれど……一からやり直すなら、そのくらいの方が良いのかな。 

 私は、ぼんやりと煤けた天井を見上げた。

「――……そしたら……もう……会うコトも無くなるんだよね……」

 会社を辞めるコトに、あまり、ためらいは無かったけれど――美善さんと会えなくなると思うと、胸が激しく痛んだ。



 そして、土曜日。
 私は、再び部屋に来てくれた櫛方さんに、自分が淹れたお茶を差し出す。

「――ど、どうぞ」

「……これはこれは」

 腰を下ろした彼は驚いて、私を見上げる。
「お嬢様直々に、ですか」
「……もう、お嬢様でもなくなります」
「――そうですね」
 私が、以前(まえ)のように向かい合って腰を下ろすと、さっそく、と、茶封筒が差し出された。

「――この中のものにサインをしていただけば、レオン薬品創業者、大淵様が匿われていらっしゃった月見さんの財産は、お手元に戻る事となります」

「……ハイ」

 受け取った封筒は、軽いはずなのに、何だか、重みを感じてしまう。
 書類を取り出した私は、後ろで控えていた増沢を振り返った。
「……増沢、目を通してくれる」
「承知いたしました、お嬢様」
 増沢は、うなづくと、書類に目を落とし、しばらく。
「――問題は、特に見当たらないかと」
「そう。……じゃあ、サインするね」
 自分で見たところで、わかるはずもない。
 増沢がうなづいたコトが、すべてだ。
 そう思い、私は、ボールペンで住所やら名前やらを書いていく。
 そして、無事終了すると、櫛方さんは、頭を下げた。

「――これで、私の仕事は終了です。これまで、大変お世話になりました」

「……うん。……こちらこそ、ありがとうございました」

 最初は、ちゃんと報酬を用意するつもりだった。
 今の私の少ないお給料でも、分割で支払うくらいはできると思ったから。
 けれど、彼は、それを辞退した。

 ――ご両親に頂いたご恩を、お返ししたいだけですので。

 何があったのかは聞かなかったけれど――ただ、両親への義理だけで、これまでやってきてくれたのだ。

 お互いに深々と頭を下げ合う。

「――では、月見さん、お元気で」

「……ハイ。……櫛方さんも」

 彼は、顔を上げ、にこやかにうなづくと、ふくよかな身体を揺らしながら、階段を下りて行った。
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