甘い生活を夢見る私は、甘くない彼に甘やかされる
LIFE.26
 翌月曜日、私は、いつもならあり得ない早朝のバスに乗ると、一番最初に総務部の部屋に足を踏み入れた。
 ドクンドクン、と、心臓の音が、耳のすぐそばで聞こえる。
 ――バッグの中には、辞表。
 それを、震える手で取り出すと、私は、美善さんのデスクに、そっと置いた。
 ようやく、いろんなコトが落ち着いたので、辞めるなら今しか無い。
 そう思い、昨夜、ひたすらスマホと睨み合って、約三時間。
 何とか、体裁を整えて封筒に入れたのだ。

 ――……今月末で、退職させていただきます。

 自分の手で書いただけ、良しとしてもらいたい。

 私は、深々と頭を下げる。


 ――本当に……お世話になりました。


 きっと、もう、会う事は無いんだろうけれど――教えてもらったものは、大事に抱えて生きていきます。


 ――辞めるまでの時間、できる限り頑張るから……。
 ――……それまでは、見捨てないでね――……。


 私は、頭を上げ、踵を返す。
 すると、出勤してきた美善さんが、部屋の入り口で突っ立ったまま、私を見ていた。

「――お、おは、よう……ございます……」

「――……何、置いた」

「え?」

 挨拶もせず、彼は、ドスドスと大股でこちらにやってくると、自分のデスクを見やり――一瞬だけ、息をのむ。
 そして、置いてあった封筒を手に取り、私を睨むように見下ろした。
 その視線に、怯んでしまうけれど、両手を握り締めて耐える。

「……何だ、コレは」

「え、な、何って……じ、辞表……です……」

「は?」

 間髪入れずにそう返され、私は、カチンときてしまった。

「――は、って、何ですか。……辞めさせてください、ってヤツですけど?」

「それくらい、見りゃわかる!何でだって言ってんだ!」

「何でって……辞めたいからに決まってるでしょ!」

 思わず以前のような口調に戻ってしまうけれど、今は、それどころではない。
 美善さんは、眉を寄せると、地を這うような声で私を見下ろして言った。

「――正当な理由があるのか」

「……な、何ですか、正当、って」

 ――アンタと顔を合わせるのがつらいから、って、言ったら、困るクセに!!

「……津雲田」
「……そ……相続手続き、終わったんで……」
「あ?」
「……し、仕事も……これまでのデータ整理のヤツ、終わったし……ちょうど、キリが良いから……」
「――……あのなぁ……仕事は、コレをやれば終了、じゃねぇんだよ。ずっと続くモンなんだからな」
「そ、そんなの、わかってます!」
 私は、美善さんを睨みつける。

「でも!……もう、ココで仕事は、できないんで!」

「だからっ……」

 ――ああ、もう、何でわかんないのよ!

 食い下がる彼に向かって、私は叫ぶ。


「振られた人と毎日顔合わせるのがつらいって言わなきゃ、わかんないんですか、アンタは!!」


 それだけ言い捨て――逃げるようにドアの方へ足を向けるが、思い切り腕を引かれた。

「は、離してよ!」

「何だ、そりゃあ!!」

「何がよ!」



「誰が、振られた、だ⁉――振られたのは、オレの方だろうが‼」



「――……は??」


 私は、呆然としながら顔を上げた。
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