紫陽花の憂鬱
誰にでも、じゃなかった
お昼の時間帯、紫月は自分で作った弁当をデスクで食べることが多い。食べ終わった後は小説を読んだり、残業になりそうなときは仕事をしたりすることもある。誰かと話すわけではないため、必然的に他人の会話は聞こえてきてしまう。
「んーうちの会社だと日向さんが川島さん、あとは土井さんも彼女いないらしいよ?」
「一体どこでそんな情報手に入れてくんのよ。」
「まぁそこはいいじゃん?この3人の中なら誰がいいの?新しい恋をお探しの岩崎ちゃんは。」
「日向さん一択でしょそんなの。」
日向という名前が飛び出て、紫月は内心ドキリとした。そもそも話題に挙がった3人の中に名前が入っていただけでもドキドキしてしまったのに、その中でさらに選ばれてしまったのだから。
(…そう、日向くんは元々、そういう人。)
「あっ、日向さん。お疲れ様です。外でランチですかぁ?」
「あーはい。取引先の人とです。」
「あ、そうだ!岩崎ちゃんさぁ、日向さんに相談したら?」
「えっ?」
「この子、振られちゃったらしくて、話聞いてあげてもらえませんか?日向さんってよく相談乗ってくれてますし…。」
紫月の心臓がより一層ドクドクと鳴る。できればこれ以上聞きたくないのに、席がそこまで遠くないため聞こえてしまう。ここで席を立つのもかえって目立ってしまうため、消えていく体温を感じながらも動けないでいた。
「僕、別に恋愛が得意ってわけじゃないからなぁ。話を聞いたところで大したアドバイスはできないと思いますよ。そういう相談なら、川島をおすすめします。」
そう言って日向の足音が遠ざかっていく。紫月の席からは振り返らなくては日向の方は見えない。今振り返るのも不自然で、紫月はデスクに向かったまま、自分のスマートフォンを握りしめた。
(…相談、乗るわけじゃ…ないんだ…。誰の相談でも、乗ってくれるのかと…。)
『なんで泣いたのかの続き、聞かせて?』
マグカップ一杯分の相談室の日の、日向の言葉と声の温度がフラッシュバックした。
(…なんで今、思い出して…。)
紫月は深く俯いた。告白されてからもう2週間は経とうとしている。あの日以来、二人の関係は今まで通りに戻っていた。ただ、言葉になった日向の気持ちを紫月が知ってしまったという一点を除いて。
* * *
『紫月さん?』
「あっ…ごめんなさい、あの…次、どこに行くかって話で…。」
日向からかかってくることで始まる、夜の電話。会社で話すタイミングがなかった日を見計らったかのようにかかってきて、耳元にスマートフォンをあてる手はいつも少しだけ緊張していた。
あの日のデートの帰りの車の中で、沈黙を破ったのも日向だった。始まりはいつだって日向だ。紫月が嫌でないのならば、帰りに食事に行くこともどこかへ出かけることも無理のない範囲でしてほしいと言われ、紫月は頷いた。『次』がなくなってしまうことは、寂しい。とはいえ何も返せないまま、自分の心も日向の言葉が嬉しかったことまでしか言葉にはできず待たせている。その『待たせている』という状況を考えれば考えるほど言葉が詰まって、上手にまとまってくれない。そして盗み聞きをして、揺らいで、日向が向けてくれていた表情はもしかしたら、紫月と同じように他の人には見せていなかった、見せることができなかったものかもしれない、なんて思い始めている。
『疲れてる?眠い?決めるの、また今度でもいいよ?』
(…違うものに、聞こえてしまう…。この前岩崎さんたちに返していた声と。)
声が優しく、温かく耳元で響く。日向はいつだって紫月に問いかける。紫月の反応を待ってくれる。置いていったり、しない。
「…大丈夫、だよ。ありがとう…。」
『声がちょっと、眠そうに聞こえるんだけど…。』
「声、は、張ります。」
『えぇ、いいよそんな無理しないで。まだ電話してても平気?』
「…うん。えっと、その…日程は来週で、場所だよね?」
(…名残、惜しい。…だってこの声は、会社では聞けない、から。)
* * *
丁度気になっていた映画が公開されたこともあり、11月の頭には映画館に行った。あの告白から初めてのデートで最初の頃のような緊張を全身に纏った紫月とは違って、日向はずっと楽しそうだった。そして紫月の緊張を見抜いていた。
『ごめんね、緊張するよね。…でも、一緒にいる間は今のことだけ考えて、…ほしい。まずは映画、楽しもう。観たかったやつだし。』
そんな風に明るく、笑顔でいてくれるから紫月もそこからはゆっくりと緊張が解けていった。頭の片隅には日向の気持ちと言葉はあるけれど、一人でいるときよりも考えられる余裕はなかった。目の前の日向の優しい目と目が合うことが嬉しくて、そういう時間をやはり惜しいと思ってしまって。
「川島さんを誘うっていう体で、日向さんにも来てもらえないかなぁ。」
「川島さんと日向さんって営業のトップ2だもんね。日向さんが1個下の後輩だっけ?」
社内で女性社員が『日向』と名前を呼ぶたびに、胸の中を今までに感じたことのないような重たくて、つかみどころのない気持ちが渦巻く。それを隠したくて、紫月は咀嚼していた卵焼きをごくんと飲み込み、胸元のシャツをぐっと握った。
「川島さんはさーなんかイケメンが過ぎるっていうか、たとえば付き合ったとしても、浮気の心配し続けなきゃいけなそうじゃない?他の女に狙われてさー。」
「確かにねー。その点日向さんはそういう女、さらっとかわせそうな感じするし。」
(…やっぱり、日向くんはみんなに好かれる人…。…若くて、可愛い子からも。)
髪も艶々で化粧も上手でいつもニコニコしていて可愛い子がたくさんいる。日向の周りには紫月なんて隣にも並べないほど可愛くて綺麗な子がいる。それは紛れもない事実で、覆せない。頭ではわかっていて、否定も反論もしようがないのにただ、わけのわからない苦しさだけがまとわりついてくる。こんな気持ちは誰にも相談できない。日向が心配してくれても、話せない。
(…だって、私は努力をしていない。…可愛くなるためのこともしてないし、笑顔を作ることも、…できて、ない。)
会社で泣くわけにはいかなかった。紫月は食べることに集中し、頭を冷やすために屋上に向かった。冷たい秋の終わりかけの風に吹かれれば、多少は冷静になれるだろうと踏んで。
* * *
屋上の風は思っていた以上に冷たかった。わずかに流れた涙に風が当たって頬が冷える。でも、どこか丁度良い痛みにも思えた。頬が痛い方が、胸の澱みを誤魔化せる。
カンカンカンと鉄の階段をのぼってくる足音が近付いてくる。紫月は焦って両頬を流れた涙の跡を消すべく、頬を雑に撫でた。
「…何か、あったの?」
「日向、くん…。」
(…どうしよう、隠せない。…日向くんには、泣いたこと、隠せない。)
日向はそのままゆっくりと距離を詰め、紫月の横に立った。紫月は俯いて顔が上げられなくなり、日向の方は向けないでいる。
「…悩ませて、苦しくさせすぎてる?」
低く静かに紫月の鼓膜を震わせた空気に、紫月はパッと顔を上げた。そして首を横に振った。
(…違う。苦しいのは、日向くんのせいじゃない。悩んでいるんじゃない…私は自信が、ない、…だけなの。だから…。)
「…苦しいのは…事実、だけど…それは、…日向くんのせいじゃ、ない、ので。」
「…苦しくて、嫌になってない?」
「…自分のことは、嫌だけど…でも、嫌なままで…いたくはなくて。」
「うん。」
日向の声のトーンが少しだけ戻った気がした。たった一つの相槌が、これまで何度も紫月を勇気づけてくれた。
「日向くん、あの、…こんな顔で言うことではない…けど。」
「大丈夫だよ、俺じゃなきゃバレない。」
「…えっと、その、クリスマスに、…時間を貰えませんか?」
「え?」
思い切ったことをしている自覚はある。それでもきっと自分は、期限を決めなくてはいつまでもできないままでいようとしてしまうだろうから。
「…クリスマスまでにはきちんと、話せるようになります。…だから、日向くんに話を聞いて、ほしい、です。」
「…わかった。クリスマスデートだね。…楽しみだな。」
日向がいつもの温度で微笑む。涙を流した後だというのに日向が笑うとつられて笑えるのだから、もうきっと言うべきことは一つだった。
「んーうちの会社だと日向さんが川島さん、あとは土井さんも彼女いないらしいよ?」
「一体どこでそんな情報手に入れてくんのよ。」
「まぁそこはいいじゃん?この3人の中なら誰がいいの?新しい恋をお探しの岩崎ちゃんは。」
「日向さん一択でしょそんなの。」
日向という名前が飛び出て、紫月は内心ドキリとした。そもそも話題に挙がった3人の中に名前が入っていただけでもドキドキしてしまったのに、その中でさらに選ばれてしまったのだから。
(…そう、日向くんは元々、そういう人。)
「あっ、日向さん。お疲れ様です。外でランチですかぁ?」
「あーはい。取引先の人とです。」
「あ、そうだ!岩崎ちゃんさぁ、日向さんに相談したら?」
「えっ?」
「この子、振られちゃったらしくて、話聞いてあげてもらえませんか?日向さんってよく相談乗ってくれてますし…。」
紫月の心臓がより一層ドクドクと鳴る。できればこれ以上聞きたくないのに、席がそこまで遠くないため聞こえてしまう。ここで席を立つのもかえって目立ってしまうため、消えていく体温を感じながらも動けないでいた。
「僕、別に恋愛が得意ってわけじゃないからなぁ。話を聞いたところで大したアドバイスはできないと思いますよ。そういう相談なら、川島をおすすめします。」
そう言って日向の足音が遠ざかっていく。紫月の席からは振り返らなくては日向の方は見えない。今振り返るのも不自然で、紫月はデスクに向かったまま、自分のスマートフォンを握りしめた。
(…相談、乗るわけじゃ…ないんだ…。誰の相談でも、乗ってくれるのかと…。)
『なんで泣いたのかの続き、聞かせて?』
マグカップ一杯分の相談室の日の、日向の言葉と声の温度がフラッシュバックした。
(…なんで今、思い出して…。)
紫月は深く俯いた。告白されてからもう2週間は経とうとしている。あの日以来、二人の関係は今まで通りに戻っていた。ただ、言葉になった日向の気持ちを紫月が知ってしまったという一点を除いて。
* * *
『紫月さん?』
「あっ…ごめんなさい、あの…次、どこに行くかって話で…。」
日向からかかってくることで始まる、夜の電話。会社で話すタイミングがなかった日を見計らったかのようにかかってきて、耳元にスマートフォンをあてる手はいつも少しだけ緊張していた。
あの日のデートの帰りの車の中で、沈黙を破ったのも日向だった。始まりはいつだって日向だ。紫月が嫌でないのならば、帰りに食事に行くこともどこかへ出かけることも無理のない範囲でしてほしいと言われ、紫月は頷いた。『次』がなくなってしまうことは、寂しい。とはいえ何も返せないまま、自分の心も日向の言葉が嬉しかったことまでしか言葉にはできず待たせている。その『待たせている』という状況を考えれば考えるほど言葉が詰まって、上手にまとまってくれない。そして盗み聞きをして、揺らいで、日向が向けてくれていた表情はもしかしたら、紫月と同じように他の人には見せていなかった、見せることができなかったものかもしれない、なんて思い始めている。
『疲れてる?眠い?決めるの、また今度でもいいよ?』
(…違うものに、聞こえてしまう…。この前岩崎さんたちに返していた声と。)
声が優しく、温かく耳元で響く。日向はいつだって紫月に問いかける。紫月の反応を待ってくれる。置いていったり、しない。
「…大丈夫、だよ。ありがとう…。」
『声がちょっと、眠そうに聞こえるんだけど…。』
「声、は、張ります。」
『えぇ、いいよそんな無理しないで。まだ電話してても平気?』
「…うん。えっと、その…日程は来週で、場所だよね?」
(…名残、惜しい。…だってこの声は、会社では聞けない、から。)
* * *
丁度気になっていた映画が公開されたこともあり、11月の頭には映画館に行った。あの告白から初めてのデートで最初の頃のような緊張を全身に纏った紫月とは違って、日向はずっと楽しそうだった。そして紫月の緊張を見抜いていた。
『ごめんね、緊張するよね。…でも、一緒にいる間は今のことだけ考えて、…ほしい。まずは映画、楽しもう。観たかったやつだし。』
そんな風に明るく、笑顔でいてくれるから紫月もそこからはゆっくりと緊張が解けていった。頭の片隅には日向の気持ちと言葉はあるけれど、一人でいるときよりも考えられる余裕はなかった。目の前の日向の優しい目と目が合うことが嬉しくて、そういう時間をやはり惜しいと思ってしまって。
「川島さんを誘うっていう体で、日向さんにも来てもらえないかなぁ。」
「川島さんと日向さんって営業のトップ2だもんね。日向さんが1個下の後輩だっけ?」
社内で女性社員が『日向』と名前を呼ぶたびに、胸の中を今までに感じたことのないような重たくて、つかみどころのない気持ちが渦巻く。それを隠したくて、紫月は咀嚼していた卵焼きをごくんと飲み込み、胸元のシャツをぐっと握った。
「川島さんはさーなんかイケメンが過ぎるっていうか、たとえば付き合ったとしても、浮気の心配し続けなきゃいけなそうじゃない?他の女に狙われてさー。」
「確かにねー。その点日向さんはそういう女、さらっとかわせそうな感じするし。」
(…やっぱり、日向くんはみんなに好かれる人…。…若くて、可愛い子からも。)
髪も艶々で化粧も上手でいつもニコニコしていて可愛い子がたくさんいる。日向の周りには紫月なんて隣にも並べないほど可愛くて綺麗な子がいる。それは紛れもない事実で、覆せない。頭ではわかっていて、否定も反論もしようがないのにただ、わけのわからない苦しさだけがまとわりついてくる。こんな気持ちは誰にも相談できない。日向が心配してくれても、話せない。
(…だって、私は努力をしていない。…可愛くなるためのこともしてないし、笑顔を作ることも、…できて、ない。)
会社で泣くわけにはいかなかった。紫月は食べることに集中し、頭を冷やすために屋上に向かった。冷たい秋の終わりかけの風に吹かれれば、多少は冷静になれるだろうと踏んで。
* * *
屋上の風は思っていた以上に冷たかった。わずかに流れた涙に風が当たって頬が冷える。でも、どこか丁度良い痛みにも思えた。頬が痛い方が、胸の澱みを誤魔化せる。
カンカンカンと鉄の階段をのぼってくる足音が近付いてくる。紫月は焦って両頬を流れた涙の跡を消すべく、頬を雑に撫でた。
「…何か、あったの?」
「日向、くん…。」
(…どうしよう、隠せない。…日向くんには、泣いたこと、隠せない。)
日向はそのままゆっくりと距離を詰め、紫月の横に立った。紫月は俯いて顔が上げられなくなり、日向の方は向けないでいる。
「…悩ませて、苦しくさせすぎてる?」
低く静かに紫月の鼓膜を震わせた空気に、紫月はパッと顔を上げた。そして首を横に振った。
(…違う。苦しいのは、日向くんのせいじゃない。悩んでいるんじゃない…私は自信が、ない、…だけなの。だから…。)
「…苦しいのは…事実、だけど…それは、…日向くんのせいじゃ、ない、ので。」
「…苦しくて、嫌になってない?」
「…自分のことは、嫌だけど…でも、嫌なままで…いたくはなくて。」
「うん。」
日向の声のトーンが少しだけ戻った気がした。たった一つの相槌が、これまで何度も紫月を勇気づけてくれた。
「日向くん、あの、…こんな顔で言うことではない…けど。」
「大丈夫だよ、俺じゃなきゃバレない。」
「…えっと、その、クリスマスに、…時間を貰えませんか?」
「え?」
思い切ったことをしている自覚はある。それでもきっと自分は、期限を決めなくてはいつまでもできないままでいようとしてしまうだろうから。
「…クリスマスまでにはきちんと、話せるようになります。…だから、日向くんに話を聞いて、ほしい、です。」
「…わかった。クリスマスデートだね。…楽しみだな。」
日向がいつもの温度で微笑む。涙を流した後だというのに日向が笑うとつられて笑えるのだから、もうきっと言うべきことは一つだった。