紫陽花の憂鬱

今は違うからね

* * *

「…紫月さん、先にどうぞ。」
「えっ、えっと…じゃあ、お先に失礼します…。」

 日向のベッドの毛布を軽く上げて、紫月はおそるおそるベッドの中に片足を入れた。ギリギリまで壁に寄って座ると日向も紫月と同じように、足だけは布団の中に入れて座った。

「…紫月さん、そんなに壁に寄らないで。俺の方、ゆとりあるし。」
「でも…あの、蓮くんが落ちちゃったら…。」
「落ちるときは紫月さんも道連れにするから大丈夫。」
「道連れ…?」
「うん。でもまず、肩まで布団かけてね、紫月さん。」

 紫月は片肘を折って、そのまま横になった。慣れた手つきで布団をかけてくれる日向を、紫月はまじまじと見つめてしまった。

「え、あ、なんか変なことした?」
「う、ううん。あの…なんか、慣れてるなぁって思って。」
「え?何に慣れてる?あ、女の子連れ込んでそうとかそういう…?」
「ち、違う!…布団のかけ方が、…手慣れてる感じが、して。」
「あ、あー…そっちか。良かった…変な誤解されてなくて。まぁ、慣れてるっちゃ慣れてるかな。弟2人と妹が1人いてさ、昔は寝かしつけとかもやってたから。…昔やってたことって意外と抜けなくて。」

 そう言って、日向は眉を下げて笑った。

「今もたまに実家帰るとそういう、…んー…俺、あの家だと父親兼長男だったから、まだやっちゃうんだよね。布団ちゃんとかけろとか、食器片付けろとかそういう小言、言っちゃって子供扱いしないでって怒られてる。」
「年、離れてるの?」
「うん。」

 日向はそう答えながら、自分も布団の中に入った。日向は肘をついて頭を上げ、紫月の方を見つめて口を開いた。

「弟は双子で、その2歳下が妹だから、俺以外は年が近いんだよね。俺と妹、10歳違うから。」
「10歳!それは結構大きい差だね、小さい頃だと。」
「うん。で、うちは妹が2歳の時に父が仕事上の事故で死んだから、まぁ俺が高校生くらいになったときにはなんとなく、父親にはなれなくても、埋めるべきポジションはそこかなって思って色々やってきて、…だから抜けないんだ、つい厳しくもなるし、過剰に心配もしたりするのがね。…紫月さんのことを子供扱いしてるとかじゃないからね、念のため言っておくけど。」
「う、うん。…でも、蓮くんの人生に比べたら、私はずっと子供かも…って、今、思いました。」

 紫月は正直にそう言った。たとえば、自分は家族の誰かが亡くなったときに、この穴を埋めるべきは自分だなんて思えるかと考えれば、きっと思えないし、埋めることだってできないだろう。それなのに、日向は長い間、いなくなってしまった『父親』の後ろ姿を追いかけて、そこを埋めようとしていた。今の日向と昔の日向がこの話だけでも充分に一つの線で結ばれる気がして、紫月はまっすぐに日向を見つめた。

「…蓮くんが気にかけてくれるのも、そういう優しさが当たり前みたいにあるのも、きっとずっとそうやってきたからなんだね。…すごく、納得しちゃったな。」
「…重い話、だったね、ごめん。」
「ううん、全然。家族の話、聞けて嬉しい。蓮くんのルーツを見せてもらってる感じがする。」
「…そっか。じゃあまた明日にでも話すよ。…ちょっと眠そうだから、紫月さん。」

 紫月の目元に日向の片手が伸びてきた。日向の親指が紫月の頬をすっと掠めていく。思わずぎゅっと目を瞑ると、額に乗った日向の唇が離れる音がした。

「…!?」

 声にならない驚きでぱっと目を開けると、日向はくすっと笑った。

「…だめだね、ほんと。どんどん我慢できなくなる。…言いたいことを飲み込むことも、我慢することも…ずっと昔からできてたはずなのにね。」

 昔の日向を思うと、胸が軋む。きっと頑張りすぎていたのだろうし、責任感が人一倍強く育つしかなかったのかもしれないとも思う。昔の日向には手を伸ばせないけれど、今の日向には手を伸ばせる。
 紫月は日向の肩に自分の額を寄せた。日向のスウェットの胸元を軽く掴んで、少しだけ距離を詰める。

「…いいよ、我慢は、…私の前では要らないよ。我慢は、多分いっぱいしてきたんだと、思うから。」

 紫月の背に、日向の片腕が回る。日向の呼吸の音とその熱が伝わる距離に、心臓は正直にドクドクと音を鳴らした。

「…じゃあ、お言葉に甘えます。…紫月さんの頑張りに、今日は甘えてばっかりなんだけどね。」
「私も、蓮くんの優しさにずっと甘えてきたから。…甘えられても、ちゃんと嬉しいよ。」
「…そっか。じゃあ、このまま寝よう?」
「うん。おやすみ、なさい。」
「…おやすみ。」

 そう言って日向は紫月の頭頂部に顔を近付け、軽くキスを落とした。紫月は体を包む温かさに目を閉じて、深く息を吸った。

* * *

 常夜灯の明かりのおかげで、腕の力を少し緩めて下を覗き込めば紫月の寝顔が見れた。離れてもすうすうと深く眠っている姿に、言いようのない気持ちが込み上げた。

(…流れで話しちゃったけど、付き合ってすぐする話じゃなかったかも…。)

 父が残した家族を代わりに守らなくてはいけない。いつからそんなことを思ったのかはわからないし、そんなことを常に掲げて生きてきたわけでもないが、頭のどこかには常に家族のことがあり、それは当たり前でもあった。
 だからこそ、就職は地元を離れてしたらどうだと弟たちに言われた時に驚いたのと同時に戸惑ったのだ。

『蓮兄はさ、そろそろ自由になるべきだと俺は思うんだよねー』
『同じく。俺たちもうガキじゃないし、やれるよある程度のことはさ。』
『蓮兄が私たちに使った時間…っていうか青春とかは返せないけど、でもここから先の時間はね。』

 弟たちがそんなことを考えていたことを知ったのは、就活が本格化しそうな時期で、当然地元で就職する気でいた。家から出る気もなかった。それなのに、弟たちからこう言われてしまえば、『自由』を手にしてみるしかなかった。
 そして、得てみた自由で手に入れたものは『人当たりの良い、気の利く営業』という不自由だった。努力してそうなったとは思うが、そうなったことで、本来の自分との差が大きく感じられるようになり、休みの日は家からほぼ出ない、そんな社会人になっていた。

「…でも、今は違うからね。」

 本や文房具が好きで、それらの話をするときは目が輝くことを知った。目の前で泣かれると抱きしめて傍に居たい衝動に駆られて、繋いだ手と触れた唇の温度を知ってしまえばもう、自分は空虚ではなくなった。
 ゆっくりと再び、起こさないように軽く抱き寄せる。そして紫月の香りを吸い込んで、そのまま目を閉じた。
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