マカロン文庫10周年記念企画限定SS

限定SS:ひらび久美『イケメン御曹司のとろける愛情』

 五月の日曜日、特別に解放されたジャズピアノ教室の大ホール。
 グランドピアノを弾く私のすぐそばで、幼い子どもたちが十人ほど、リズムに合わせてぴょんぴょん跳ねている。そのなかにはもうすぐ一歳八カ月になる愛息子の翼(つばさ)もいる。
 少し離れたレジャーシートの上では、一歳くらいのよちよち歩きの子がパチパチと手を叩き、まだお座りしかできない小さな子が楽しそうに手を上下に動かしていた。ベビーカーに乗ったままの赤ちゃんもいて、周囲の座席では子どもたちのママやパパが一緒に手を叩いたり、演奏に合わせて体で軽くリズムをとったりする。もちろん最愛の夫・翔吾さんもそこにいて、翼と私を見守ってくれている。
 そんな賑やかななかでピアノを弾くのは、ジャズバーでのライブとはまた違って、とても楽しい。
 童謡のほか、子どもたちに人気のアニメや映画の主題歌をジャズ風にアレンジして弾き、みんなで一緒に歌った後、最後に私の定番曲『フライ・ハイ』を演奏した。CMや航空会社の動画でBGMとして使われているため、知ってくれている人も多いようで、子どもたちが楽しそうにハミングし、ママやパパたちも曲に合わせてノッてくれている。
 最後の音を弾き終えると、周囲から拍手が沸き起こった。
 袖に控えていたジャズピアノ教室の女性司会者が進み出て、来場者に挨拶をする。
「楽しくてステキな演奏をしてくださったのは、ジャズピアニストの奏美さんでしたー。みなさま、親子で楽しむジャズコンサートはいかがでしたか? これからもパパ、ママ、お子さまみんなで楽しめるイベントを企画していきますので、ぜひ楽しみにしていてくださいね!」
 私が椅子から降りてお辞儀をすると、再び拍手が聞こえてきた。顔を上げたら拍手もまばらになり、子どもたちは特別に準備された楽器やおもちゃで遊び始めた。
 そんななか、最後までパチパチ……と手を叩いてくれているのは、我が子・翼だ。翼を抱き上げて、翔吾さんが近づいてくる。
「お疲れさま。今日もステキな演奏だったよ」
 そう言って微笑む彼は、白のカジュアルシャツとブラックデニムというラフな格好だけど、いつ見てもスタイルがよくて、どんな格好でもよく似合う。
「ありがとう」
「まーま、まーま」
 翼が両手を伸ばしてきたので、私は翔吾さんの腕の中から翼を抱き上げた。十キロを超えた我が子は、なかなか重たい。でも、それは元気にすくすく育ってくれている証拠だ。
「パパとお歌、歌って楽しかったでしょ?」
 私が頬をこすりつけたら、翼は楽しそうに笑い声を上げた。
「ママの演奏に夢中だったよ」
 翔吾さんが私の腰に手を回して言った。
「ほんと? 翼は飛行機のほうが好きな気がするけど」
 私の『飛行機』という言葉に反応して、翼は「とこー! とこー!」と歓声を上げた。まだうまく飛行機と言えない翼は、飛行機のことを『とこー』と言う。ちなみに電車も自動車もすべて『とこー』だ。
「よーし、じゃあ、これから空港の展望デッキに飛行機を見に行こうか?」
 翔吾さんの言葉に、翼は目を輝かせて「とこー!」と声を上げる。
「それじゃ、私は着替えてこないと」
 昼間のコンサートとはいえ、シックなネイビーのワンピースを着ているのだ。
「よし、翼、パパと少し待っていような」
 翔吾さんが私の腕の中から翼を抱き上げた。
「楽器で遊べるから、好きなの触らせてあげてね」
 私は翔吾さんに言って、「ちょっと待っててね」と翼の柔らかな髪を撫でた。
 司会を務めてくれた講師に挨拶をして更衣室に入り、動きやすいガーゼブラウスにテーパードデニムパンツに着替えた。
 更衣室から出たら、翼が脚に飛びついてくる。
「まーま!」
「ほんとに翼はママが好きだなぁ」
 翔吾さんが翼の右手を握り、私は左手を握った。
「まーま、ぱーぱ」
 翔吾さんに似たくっきり二重のつぶらな瞳で、翼は私と翔吾さんを交互に見る。そんな我が子のあどけない仕草がかわいくて、つい笑みを誘われた。
「パパも好きだって言ってるよ」
「パパも翼が大好きだよ」
 翔吾さんが腰を折って翼の顔を覗き込み、翼が嬉しそうに笑う。
 なんて幸せな時間だろう。
 胸を熱くしている間に駐車場に着き、翔吾さんが翼をチャイルドシートに座らせた。私が反対側に回ろうとしたら、彼が私の手をギュッと掴んだ。
「奏美」
「ん?」
 振り返ったとたん、翔吾さんの唇がさっと私の唇に触れた。私が頬を赤くしたら、彼は私の耳元に唇を寄せる。
「ピアノを弾いているときの奏美、とてもきれいだった」
 彼は今でもそんなふうに言ってくれるけど、本来の私は地味な顔立ちなのだ。
 そんな私の考えを読んだかのように、翔吾さんが笑みを大きくした。
「今もそうだよ。なんにでも一生懸命な奏美は、まぶしいくらいに輝いて見える」
「それは……翔吾さんがいろいろ助けてくれるから……」
 妻で、母で、ジャズピアニスト。両立できるか自信がなかったけれど、翼がお腹にいるとわかったとき、翔吾さんが『奏美と赤ちゃんを全力で守るから、奏美は全力で俺に寄りかかってほしい。俺を頼ってほしい』と言ってくれた。彼はその言葉通り、というより言葉以上に、私を支えてくれている。
 そのおかげで今がある。
「ありがとう」
 私が感謝の気持ちを込めて見上げたら、翔吾さんはいたずらっぽく微笑んだ。
「感謝は言葉だけ?」
「もう、こんなところで」
 私が照れ隠しに顔をしかめたとき――。
「まーま、ぱーぱ」
 翼の呼ぶ声がした。
「あ、ごめんね、翼」
 あわてる私を、翔吾さんが後ろからふわりと抱きしめた。
「愛してる、奏美」
 包み込んでくれる温もりに胸が熱くなる。
「私も、愛してる」
 私は振り返って翔吾さんの唇にチュッとキスをした。翔吾さんが驚いた顔で目を見開く。恥ずかしがり屋の私が外で自分から彼にキスをするなんて思わなかったのだろう。
 私はとびきりの笑顔を彼に向けた。
「翔吾さんと翼がいてくれて、世界で一番幸せ」
「俺もだよ」
 翔吾さんの大きな笑顔に心がほわんとした。
 爽やかな五月の風が吹き抜け、緑の木々が揺れる。ふと空を見上げたら、白く美しい飛行機が飛んでいた。

<終>
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