マカロン文庫10周年記念企画限定SS
限定SS:宝月なごみ『密かに出産したら、俺様社長がとろ甘パパになりました~ママも子どもも離さない~』
『インスタントコーヒー』
「きらくん、私、コーヒー淹れるね」
「ありがとう」
着ぐるみのようにモコモコとしたルームウエアに身を包んだ恋人が、初夜の気恥ずかしさが滲んだはにかみを残し、ベッドを抜け出す。
僕はごろんと寝返りを打ち、微かに聞こえる小鳥のさえずりを聞きながら、いい朝だなぁ、と幸せに浸る。榊煌人、十八歳。大学一年生の秋を迎えていた。
恋人の美々とは付き合って一カ月。少し童顔で、くるんと毛先が丸まったワンカールボブがよく似合っていて、ふわふわの砂糖菓子みたいに甘い香りがする愛らしい美々。
彼女とは通っている大学で出会い、親しい友人たちが自然と集まってできたグループに属する女子のひとりだった。
優しくおっとりした性格で、一緒にいるととても癒やされるタイプの彼女に、気づいたら僕の方がすっかり惚れ込んでいた。夏休みに告白し、現在交際三カ月目。
昨夜初めて肌を重ねたことで、ますます美々への愛が深まっているところだ。
「コーヒーできたよ。お砂糖とミルクいる?」
部屋に戻ってきた彼女がひょこっとドアから顔を出して尋ねてくる。
コーヒーを淹れてきたにしては早すぎる。やっぱり今日もアレを使ったのだろう。不満というわけではないが、美々との付き合いでほんの少しだけ心が翳るのはこんな時だ。
「……ああ。両方多めでお願い」
少しだけ意気消沈したのを悟られないよう、微笑んで言う。正直、美々の淹れたコーヒーはミルクと砂糖で誤魔化さないと飲めない。いや、淹れたというより入れたと言った方が正しいかもしれない。彼女の言う〝コーヒー〟は、粉末に熱湯を注ぐだけのものだから。
「きらくんがいると、いつものコーヒーも美味しく感じるね」
しかし、ダイニングで向き合った美々はお揃いのマグカップを両手で包み込みながら幸せそうにそんなことを言うので、インスタントコーヒーをコーヒーと呼ばないでくれ、なんて無慈悲なことは言えない。そもそも、日本最大手のコーヒーショップチェーン経営者を父に持ち、母親はバリスタという特殊な環境で育った僕の味覚の方が一般的でない可能性もある。
「そうだな。今日も甘くておいしいよ。美々の唇には負けるけど」
「あ、朝からやめてよ~。昨夜のこと思い出しちゃう」
「美々真っ赤。かわいい」
「きらくんのせいだよ!」
こうして美々のかわいい表情が独占できるのなら、コーヒーの味なんてどうだっていい。
自分にそう言い聞かせ、僕は美々との甘い蜜月を楽しんでいたのだが……。
「煌人、最愛の恋人に嘘をついたままというのはよくない。本当の気持ちを伝えるべきだ」
授業の後で立ち寄った純喫茶『スプリング・デイ』。そのカウンター席ににたまたま居合わせた、母の友人間山さんがそう言った。
美々との初夜からさらにひと月が経っていたが、僕は彼女がコーヒーを淹れてくれるシチュエーションになるたびにモヤモヤを抱え、誰かに話したかった。
この店は母の兄である誠伯父さんが夫婦で経営していて、両親には相談しづらいことを伯父さんに聞いてもらうことが多い。今日もそのつもりで訪れたのだが、隣にいた間山さんにも僕と伯父さんの会話が耳に入り、思わず口を挟んだたのだろう。
間山さんの職業は小説家で、権威ある文学賞の審査員なども務めるすごい人である。この喫茶店に来る時の彼はぼさぼさ頭に丸眼鏡、スウェット、半纏という姿なので、すごさがイマイチ伝わってこないけれど。
「でも間山さん、これまでずっと美味しいと言ってきたものに対して、今さら美味しくないとは……」
「生半可なつもりで彼女と付き合っているわけじゃないんだろ? だったら、結婚後生活を共にした時にいきなり言われるより、今の方が傷は浅い」
「け、結婚って……僕はまだ大学生ですけど」
「ふうん。大学生なら、真剣に付き合っている恋人に対して誠実じゃなくていいのか。そんな理屈は初めて聞いたな」
「間山。俺のかわいい甥っ子をあまり苛めるなよ」
カウンターの中にいた誠伯父さんがすかさずフォローしてくれたが、間山さんの言葉は僕の心にグサッと刺さっていた。
……彼の言うとおりだ。僕が大学生であろうが、結婚を意識して付き合っていようがいまいが、本気で好きな相手に……美々に対して、不誠実でいいはずがない。
「ありがとうございます。僕、彼女に謝って本当のことを言います」
「それがいいかもな、煌人」
誠伯父さんも賛成してくれて、ようやく胸のつかえが取れる。しかし、間山さんは突然カウンターに両肘をついて頭を抱え、ぐしゃぐしゃと髪を乱した。
「……俺は四十を過ぎても自分の恋愛さえままならないのに、なぜ容姿も家柄も、さらに恋人まで揃った若人の背中を押してるんだ? ああ、このやりきれない気持ちを原稿にしたためたくなってきた……。そろそろ帰って仕事をします。それでは」
「相変わらずだな、間山は」
間山さんの丸まった猫背を見送りながら、誠伯父さんが苦笑する。僕も飲み終えたコーヒーを伯父さんに返し、椅子から立ち上がった。
「僕も、帰ります」
「彼女のところか? わかり合えるように応援してる」
「ありがとうございます」
無性に美々に会いたかった。喫茶店を出てすぐにスマホから美々の番号にかけ、彼女が応答するのを待つ。
『もしもし、きらくん? どうしたの?』
「今、どこにいる? どうしても会いたくて……」
『家だけど、ええと……ちょ、ちょっと待ってくれる? 部屋、片付いてないの』
「そんなこと気にしないよ。すぐに向かう」
「え、待ってきらく――」
はやる気持ちを抑えられず、美々がまだなにか言っていたような気がしたものの、俺は通話を切った。そして美々がひとり暮らしをするアパートに向かうため、電車に飛び乗る。
今さら美々の部屋が散らかっていたところで幻滅なんかしない。
それよりも、これからずっと彼女と一緒にいるために、僕の本音を伝えたかった。
彼女の部屋の前に着き、インターホンを押す。
部屋を片付けている最中だったのか、室内からバタバタと物音がした後、ドアが開いて美々が顔を出す。
「は、早かった、ね……」
「それほど会いたかったんだ。中に入れてくれる?」
「……う、うん」
いつになく、美々の態度がぎこちない。
なぜだろうと思いながら玄関で靴を脱いでいると、鼻先でコーヒーの香りを感じた。インスタントには出せない、奥行きのあるほろ苦い香り。
「美々、コーヒー飲んでた?」
「……やっぱりきらくんにはわかっちゃうんだね。片付けようにもまだ熱くて、やりかけのままなんだ」
美々がそう言って軽く唇を尖らせる。
いったいどういうことかと思いながら、いつもテーブルに向かい合ってインスタントコーヒーを飲んでいたダイニングに通される。
するとそこには、両親や僕が家でコーヒーを淹れる時にも使っている、銀のドリップポットやコーヒーサーバー、ドリッパー、ペーパーフィルター、さらに豆を挽くミルなど、コーヒーを淹れる道具が一式揃っていた。片付けようとして失敗したのか、テーブルの上にいくつかのコーヒー豆も散らばっている。
僕は目を丸くし、隣で気まずそうに俯く美々を見下ろす。
「あれは……?」
「きらくんが、私といる時以外はコーヒーをブラックで飲んでるって情報を偶然友達から聞いてね。なんでだろうって思った時に、そういえばきらくんはお父さんもお母さんもコーヒーのプロだったって思い出したの。きらくん、ちゃんと淹れたコーヒーだったら砂糖もミルクもいらないんだよね。今まで気づかなくてごめんなさい」
「美々……」
「それで、一番簡単そうなペーパードリップのやり方をちゃんと練習して、上達したらきらくんに美味しいコーヒーを飲んでもらうつもりだったの。でも、バレちゃったからなんかカッコ悪い――」
美々が言い終えるより先に、僕はたまらず彼女を抱き寄せていた。
なんて健気でいじらしいんだろう。僕のために道具を揃え、隠れて練習しようとしていたなんて。
「き、きらくん?」
「カッコ悪くなんかない。今まで、美々を傷つけたくないからって、本当のことを黙ってた僕の方が、百倍カッコ悪い。……ごめん」
「でもそれは、きらくんの優しさだよね? ちゃんとわかってるよ、私」
「……美々。ありがとう」
嘘をついていた僕を寛大にも許してくれた美々に、感謝の気持ちをこめて口づけを落とす。大きなすれ違いにならずホッとしたところで、抱きしめたままの彼女に告げる。
「ペーパードリップ、一緒に練習しようか。母に直接教わったから、コツはわかってるんだ」
「ホント? 最初から、素直にきらくんに教わればよかったんだね」
ふふ、と微笑む彼女の笑顔に、胸が温まる。
彼女と一緒に淹れるコーヒーにはもうミルクも砂糖もいらないけれど、僕たちの関係はいっそう甘さを増して、深い味わいになった気がした。
<終>
「きらくん、私、コーヒー淹れるね」
「ありがとう」
着ぐるみのようにモコモコとしたルームウエアに身を包んだ恋人が、初夜の気恥ずかしさが滲んだはにかみを残し、ベッドを抜け出す。
僕はごろんと寝返りを打ち、微かに聞こえる小鳥のさえずりを聞きながら、いい朝だなぁ、と幸せに浸る。榊煌人、十八歳。大学一年生の秋を迎えていた。
恋人の美々とは付き合って一カ月。少し童顔で、くるんと毛先が丸まったワンカールボブがよく似合っていて、ふわふわの砂糖菓子みたいに甘い香りがする愛らしい美々。
彼女とは通っている大学で出会い、親しい友人たちが自然と集まってできたグループに属する女子のひとりだった。
優しくおっとりした性格で、一緒にいるととても癒やされるタイプの彼女に、気づいたら僕の方がすっかり惚れ込んでいた。夏休みに告白し、現在交際三カ月目。
昨夜初めて肌を重ねたことで、ますます美々への愛が深まっているところだ。
「コーヒーできたよ。お砂糖とミルクいる?」
部屋に戻ってきた彼女がひょこっとドアから顔を出して尋ねてくる。
コーヒーを淹れてきたにしては早すぎる。やっぱり今日もアレを使ったのだろう。不満というわけではないが、美々との付き合いでほんの少しだけ心が翳るのはこんな時だ。
「……ああ。両方多めでお願い」
少しだけ意気消沈したのを悟られないよう、微笑んで言う。正直、美々の淹れたコーヒーはミルクと砂糖で誤魔化さないと飲めない。いや、淹れたというより入れたと言った方が正しいかもしれない。彼女の言う〝コーヒー〟は、粉末に熱湯を注ぐだけのものだから。
「きらくんがいると、いつものコーヒーも美味しく感じるね」
しかし、ダイニングで向き合った美々はお揃いのマグカップを両手で包み込みながら幸せそうにそんなことを言うので、インスタントコーヒーをコーヒーと呼ばないでくれ、なんて無慈悲なことは言えない。そもそも、日本最大手のコーヒーショップチェーン経営者を父に持ち、母親はバリスタという特殊な環境で育った僕の味覚の方が一般的でない可能性もある。
「そうだな。今日も甘くておいしいよ。美々の唇には負けるけど」
「あ、朝からやめてよ~。昨夜のこと思い出しちゃう」
「美々真っ赤。かわいい」
「きらくんのせいだよ!」
こうして美々のかわいい表情が独占できるのなら、コーヒーの味なんてどうだっていい。
自分にそう言い聞かせ、僕は美々との甘い蜜月を楽しんでいたのだが……。
「煌人、最愛の恋人に嘘をついたままというのはよくない。本当の気持ちを伝えるべきだ」
授業の後で立ち寄った純喫茶『スプリング・デイ』。そのカウンター席ににたまたま居合わせた、母の友人間山さんがそう言った。
美々との初夜からさらにひと月が経っていたが、僕は彼女がコーヒーを淹れてくれるシチュエーションになるたびにモヤモヤを抱え、誰かに話したかった。
この店は母の兄である誠伯父さんが夫婦で経営していて、両親には相談しづらいことを伯父さんに聞いてもらうことが多い。今日もそのつもりで訪れたのだが、隣にいた間山さんにも僕と伯父さんの会話が耳に入り、思わず口を挟んだたのだろう。
間山さんの職業は小説家で、権威ある文学賞の審査員なども務めるすごい人である。この喫茶店に来る時の彼はぼさぼさ頭に丸眼鏡、スウェット、半纏という姿なので、すごさがイマイチ伝わってこないけれど。
「でも間山さん、これまでずっと美味しいと言ってきたものに対して、今さら美味しくないとは……」
「生半可なつもりで彼女と付き合っているわけじゃないんだろ? だったら、結婚後生活を共にした時にいきなり言われるより、今の方が傷は浅い」
「け、結婚って……僕はまだ大学生ですけど」
「ふうん。大学生なら、真剣に付き合っている恋人に対して誠実じゃなくていいのか。そんな理屈は初めて聞いたな」
「間山。俺のかわいい甥っ子をあまり苛めるなよ」
カウンターの中にいた誠伯父さんがすかさずフォローしてくれたが、間山さんの言葉は僕の心にグサッと刺さっていた。
……彼の言うとおりだ。僕が大学生であろうが、結婚を意識して付き合っていようがいまいが、本気で好きな相手に……美々に対して、不誠実でいいはずがない。
「ありがとうございます。僕、彼女に謝って本当のことを言います」
「それがいいかもな、煌人」
誠伯父さんも賛成してくれて、ようやく胸のつかえが取れる。しかし、間山さんは突然カウンターに両肘をついて頭を抱え、ぐしゃぐしゃと髪を乱した。
「……俺は四十を過ぎても自分の恋愛さえままならないのに、なぜ容姿も家柄も、さらに恋人まで揃った若人の背中を押してるんだ? ああ、このやりきれない気持ちを原稿にしたためたくなってきた……。そろそろ帰って仕事をします。それでは」
「相変わらずだな、間山は」
間山さんの丸まった猫背を見送りながら、誠伯父さんが苦笑する。僕も飲み終えたコーヒーを伯父さんに返し、椅子から立ち上がった。
「僕も、帰ります」
「彼女のところか? わかり合えるように応援してる」
「ありがとうございます」
無性に美々に会いたかった。喫茶店を出てすぐにスマホから美々の番号にかけ、彼女が応答するのを待つ。
『もしもし、きらくん? どうしたの?』
「今、どこにいる? どうしても会いたくて……」
『家だけど、ええと……ちょ、ちょっと待ってくれる? 部屋、片付いてないの』
「そんなこと気にしないよ。すぐに向かう」
「え、待ってきらく――」
はやる気持ちを抑えられず、美々がまだなにか言っていたような気がしたものの、俺は通話を切った。そして美々がひとり暮らしをするアパートに向かうため、電車に飛び乗る。
今さら美々の部屋が散らかっていたところで幻滅なんかしない。
それよりも、これからずっと彼女と一緒にいるために、僕の本音を伝えたかった。
彼女の部屋の前に着き、インターホンを押す。
部屋を片付けている最中だったのか、室内からバタバタと物音がした後、ドアが開いて美々が顔を出す。
「は、早かった、ね……」
「それほど会いたかったんだ。中に入れてくれる?」
「……う、うん」
いつになく、美々の態度がぎこちない。
なぜだろうと思いながら玄関で靴を脱いでいると、鼻先でコーヒーの香りを感じた。インスタントには出せない、奥行きのあるほろ苦い香り。
「美々、コーヒー飲んでた?」
「……やっぱりきらくんにはわかっちゃうんだね。片付けようにもまだ熱くて、やりかけのままなんだ」
美々がそう言って軽く唇を尖らせる。
いったいどういうことかと思いながら、いつもテーブルに向かい合ってインスタントコーヒーを飲んでいたダイニングに通される。
するとそこには、両親や僕が家でコーヒーを淹れる時にも使っている、銀のドリップポットやコーヒーサーバー、ドリッパー、ペーパーフィルター、さらに豆を挽くミルなど、コーヒーを淹れる道具が一式揃っていた。片付けようとして失敗したのか、テーブルの上にいくつかのコーヒー豆も散らばっている。
僕は目を丸くし、隣で気まずそうに俯く美々を見下ろす。
「あれは……?」
「きらくんが、私といる時以外はコーヒーをブラックで飲んでるって情報を偶然友達から聞いてね。なんでだろうって思った時に、そういえばきらくんはお父さんもお母さんもコーヒーのプロだったって思い出したの。きらくん、ちゃんと淹れたコーヒーだったら砂糖もミルクもいらないんだよね。今まで気づかなくてごめんなさい」
「美々……」
「それで、一番簡単そうなペーパードリップのやり方をちゃんと練習して、上達したらきらくんに美味しいコーヒーを飲んでもらうつもりだったの。でも、バレちゃったからなんかカッコ悪い――」
美々が言い終えるより先に、僕はたまらず彼女を抱き寄せていた。
なんて健気でいじらしいんだろう。僕のために道具を揃え、隠れて練習しようとしていたなんて。
「き、きらくん?」
「カッコ悪くなんかない。今まで、美々を傷つけたくないからって、本当のことを黙ってた僕の方が、百倍カッコ悪い。……ごめん」
「でもそれは、きらくんの優しさだよね? ちゃんとわかってるよ、私」
「……美々。ありがとう」
嘘をついていた僕を寛大にも許してくれた美々に、感謝の気持ちをこめて口づけを落とす。大きなすれ違いにならずホッとしたところで、抱きしめたままの彼女に告げる。
「ペーパードリップ、一緒に練習しようか。母に直接教わったから、コツはわかってるんだ」
「ホント? 最初から、素直にきらくんに教わればよかったんだね」
ふふ、と微笑む彼女の笑顔に、胸が温まる。
彼女と一緒に淹れるコーヒーにはもうミルクも砂糖もいらないけれど、僕たちの関係はいっそう甘さを増して、深い味わいになった気がした。
<終>