マカロン文庫10周年記念企画限定SS
限定SS:雨村『凄腕ドクターの子を妊娠したら、溢れるほどの愛で甘やかされています』
街路樹の穏やかな木漏れ日が降り注ぐ遊歩道。
「気持ちのいいお天気ですね」
ベビーカーを押しながら、私は隣を同じ歩幅で歩く柊矢さんに話しかける。
「ああ、春の陽気だな」
目を細めて答えた柊矢さんは、とてもやわらかい眼差しでベビーカーの中を覗き込んだ。
窓の外で雪がちらつく小寒の頃に生まれた娘、春菜(はるな)は最近首が座り、ベビーカーでのお散歩が楽しめるようになってきた。
「春菜、眠たそうだな」
あくびをする愛娘に、柊矢さんはいとおしげに微笑む。
「このままお昼寝しちゃいそうですね」
私は言いながら、柊矢さんの横顔をチラリと窺った。
本当は、夜勤明けの柊矢さんにもゆっくり休んでほしい。
そう家を出る前に伝えたのだけれど、「春菜の顔を見たら疲れが吹っ飛んだよ」と言って、こうしてお散歩に付き合ってくれる。
若月総合病院の副院長として、外科医として日々多忙であるにも関わらず、育児にはとても協力的。
それに……。
「紗衣も、春菜の夜泣きで寝不足なんじゃないか?」
心配そうに眉根を寄せる柊矢さんに問われ、私は頬を緩めた。
「大丈夫ですよ。昨夜はよく眠ってくれましたから」
柊矢さんは妊娠中から出産後の今まで、私の体をすごく気遣ってくれる。
「夕飯は俺が作るよ。病院の帰りに食材を買ってきたから」
「え! しゅ、柊矢さんが夕飯を、ですか?」
柊矢さんの言葉に声が裏返るほど驚いて、ピタリと足が止まる。
すると、寝息を立てていた春菜が心地よい振動が停止してグズりそうになったので、私は慌ててベビーカーを押した。
「ああ。自慢の手料理だ」
片眉をつり上げてスマートに笑う、自信ありげな様子の柊矢さんは申し訳ないけれど……。
これまで彼が自炊したのは、私がつわりでどうしても体調が悪かったときのお粥くらい。
料理なんてできるのかな。なにを作ってくれるつもりなのだろう。
作るというか、ひょっとして温めるだけ、とか?
などと、失礼なことばかり考えていると。
「腕によりをかけて振る舞うから、紗衣は楽しみにしてて」
訝しげな私の態度に気づいたのか、柊矢さんは明るい表情で声を弾ませた。
「はい! それじゃあ私も手伝いますね!」
気持ちはとってもうれしいけれど、外科医として万が一手を怪我をしたら大変なので、食材を切る作業は私が担当しよう。
微かに花の香りがする春風に頬をくすぐられ、春菜は気持ちよさそうに眠ってしまった。
慣れない育児と寝不足のなかで、家事と柊矢さんの生活のサポート、それに春菜の成長を楽しんで過ごせるのは、柊矢さんがそばにいてくれるからだと心から感謝した。
十五分ほどのお散歩を終えてマンションに帰宅する。
私はドキドキしながら、まだ眠ったままの春菜をベビーカーから抱き上げた。
そしてリビングの隣にある寝室のベビーベッドへ、緊張した足取りで向かう。
静かに寝かせると、いつもなら背中に付いたスイッチを発動させてグズって起きてしまうのに、春菜は珍しく眠ったままだ。
固唾を飲んで見守っていた柊矢さんも、ホッとした笑顔になった。
「メニューをお聞きしてもいいですか?」
キッチンに移動し、私は小声で腕まくりをする柊矢さんに尋ねる。
夕飯の時間にはまだ早いけれど、春菜が眠っている間に作ることにしたのだ。
「ラタトゥイユだよ」
今度は冷蔵庫を開け、ナスや玉ねぎなどの食材を取り出しながら柊矢さんが答えた。
「それって、もしかして……」
ラタトゥイユは夏野菜をトマトで煮込んだフランスの代表的な家庭料理。
元々好きだったけれど、レストラン・イリゼで食べてからさらにその美味しさを知った。
「ああ。オーナーシェフの入瀬さんから特別にレシピを教わったんだ」
ウインクみたいに片目を細めるハンサムな笑顔に、私はときめいて胸を躍らせる。
「すごいです! また食べたいと思っていたので、うれしいです……」
早速野菜を水洗いしながら、柊矢さんは感動で声を潤ませる私に目配せをした。
「春菜が大きくなったら、三人でレストラン・イリゼに行こうな」
「はい!」
入瀬さんに教わったレシピは、トマト缶や生のトマトではなく、旨みたっぷりのトマトペーストを使うのだそう。
ナスや玉ねぎ、ズッキーニとパプリカを細かく切るのは私の担当。
それらをオリーブ油とニンニクで炒め、コツであるトマトペーストと鶏がらスープ、ハーブで煮込む。
水分を飛ばしてトロトロにしている間に、柊矢さんがパスタを茹でた。
特製ラタトゥイユをパスタにかけていただくというアレンジレシピだ。
「いただきます」
寝室でまだ春菜が眠っていることを確認してから、私たちはダイニングテーブルに向き合って座り、声を潜めて手を合わせた。
パスタをフォークに絡めて口に入れた瞬間、さわやかなトマトの風味が口いっぱいに広がる。
「わあ、美味しい……!」
夏野菜の甘みとまろやかな酸味が相まって、とても芳醇な味わいだ。
「うん、美味い。ほとんど紗衣が作ってくれたからかな」
口に運んだ柊矢さんも、何度も小刻みにうなずく。
「いえいえ、味付けは柊矢さんですし。それにこのパスタを茹でたのも。加減が絶妙です!」
「紗衣は褒め上手だな」
柊矢さんはこらえるようにクッと笑ったけれど、お世辞ではなく本当にそう思ったんだ。
それになにより、柊矢さんの心遣いがすごくうれしい。
「今日はありがとうございました」
食べ終えて、私は改めて柊矢さんにお礼を伝えた。
今日は特別な日。プロポーズしてくれた記念日だ。
「紗衣が喜んでくれて良かったよ」
はにかんだ柊矢さんが、去年の彼の姿と重なる。
一年前のレストラン・イリゼでのメニューもラタトゥイユだった。
デザートの後、柊矢さんが私に指輪を差し出してくれたときの言葉を思い出すと、自然と頬が綻ぶ。
ずっと忘れたくない、大切な瞬間。
「どうしたんだ? ニヤニヤして」
食後のコーヒーを飲む柊矢さんは、少し首を横に傾けて微笑んだ。
「えっと、その……。去年のプロポーズを、思い出してしまって……」
見透かされていそうで居心地が悪くて、私は正直に白状する。
「俺には紗衣しかいない。紗衣じゃなきゃダメなんだ、絶対に幸せにする……って?」
「は、はいぃ」
目をそらせないほど真っ直ぐにこちらを見つめて言われると、こそばゆくて頬が熱くなる。
コーヒーカップをテーブルの上に置いた柊矢さんは、微かにムッとした。
「笑うなよ。必死だったんだ」
「ご、ごめんなさい! 笑ったのは、うれしかったからで……」
必死に弁解する様子を見て、柊矢さんは頬を弛緩させながら私の隣に移動する。
「今もその気持ちは変わらない。俺はこれまでもずっと、ママになっても。紗衣に夢中だから」
至近距離で聞こえた真剣な声色に、胸が締めつけられた。
「いちいち赤面するんだな」
「だ、だって……」
ダイニングテーブルに片手を付いた柊矢さんに真横から顔を覗き込まれ、私は恥ずかしくて熱い顔を手で扇ぐ。
「なぁ、なんでそんなにかわいいんだ?」
からかう口ぶりに、余計に頬が紅潮してきた。
「好きだよ、紗衣」
チュッと頬にキスをする。
「……抱きたくてたまらない」
耳もとで甘くささやかれ、背中がゾクッとした。
「だけど、自制する。きみがなによりも大切だから」
眉をわずかばかり下げ、柊矢さんは私の頬をそっとなでる。
胸の奥がきゅんとした。全身の血流がわかるくらい、ドキドキして鼓動が強く打つ。
「あ、あの……」
喉に力を入れて声を振り絞ると、柊矢さんが目を見開いた。
「私、もう……、大丈夫ですよ?」
恥ずかしくて直視できないけれど、柊矢さんの表情が変化したのがわかった。
「体を気遣ってくださっているのなら、その、平気なので……」
驚きを隠せずに静止したままの柊矢さんをチラリと窺う。
産後一ヶ月検診を受け、夫婦生活に問題ないと医師から言われていたけれど、私たちが体を重ねることはなかった。
それは柊矢さんが私の体の負担を考慮してくれていると気づいていたけれど、もう大丈夫だと伝えたくて……。
でも、なかなか自分から話題にできずにいた。
「春菜、起きないかな」
照れ隠しで早口に言い、春菜が眠っている寝室の方に目をやる。
「どうだろうな。もう二時間くらい寝てるし。さすがに目を覚ましそうだよな」
柊矢さんは言いながら、私の手を優しく取った。
「でも、紗衣からそう言ってくれるなんて、うれしい」
手の甲に口付けてから腕を引かれ、リビングのソファに移動する。
寝かせられた私は睫毛を伏せ、覆いかぶさってくる柊矢さんの重みとぬくもりに浸った。
密着しているから、胸の高鳴りが相手に伝わってしまいそう。
視線が絡み合い、初めてのときよりも緊張してきた。
やわらかく唇を食むキスが降ってくる。
繰り返される刺激と感触に陶酔していると、口内で舌を滑らかに動かす情熱的な口づけに変わり、鼻から甘い息が抜けた。
「んっ、ふ……ん」
呼吸が苦しい。酸欠になりそう。
口への愛撫だけでお腹の奥が疼いて、気持ちが高揚する。
「久しぶりだから、加減できないかも」
笑いを含んだ低い声がうなじをなぞり、体が震えた。
首筋を這う唇の感触に、背中が仰け反る。
「かわいい反応。興奮する」
私だって、もうどうにかなりそうだった。
ブラウスのボタンを外す、丁寧だけれどどこか焦りが滲む柊矢さんの手の動きにも、欲情するほど。
「早く紗衣の中に入りたい」
吐息混じりの声でささやき、骨っぽい手で胸に触れられて、ずっと焦らされていた刺激に肌が粟立った。
潤んでくる視界には、色気をまとう柊矢さんが映る。
もう一方の手で私の頬をなで、乞うような魅惑的な面立ちで目を細めた。
「紗衣、愛してるよ」
真剣な双眸と鼓膜がとろけるほどの甘い響きに、思わず狼狽しそうになった瞬間。
「ええーん!」
寝室から届いた、春菜の泣き声。
私たちは同時にハッとして、ソファから起き上がる。
「お預けか、残念」
優しい声でつぶやいた柊矢さんは乱れた着衣を速やかに直す。
そしてまだ余韻が消えず、体の奥が熱くてぽうっとしている私の額にキスをした。
「紗衣はゆっくり来て、大丈夫だから」
口端を上げる柊矢さんが急いで寝室に向かう。
その後ろ姿を眺めながら私もはだけたブラウスを直し、慌てて柊矢さんを追った。
ベビーベッドから春菜を抱き上げた柊矢さんは、大切そうに両手に抱いた。
「春菜、たくさん眠ったな。よしよし、いいこいいこ」
チュッと頬に口づけされた春菜の泣き声は、次第に甘えたかわいい響きに変化する。
「柊矢さん、私が代わりますよ」
春菜を抱こうと私が手を伸ばすと、柊矢さんは首を左右に振った。
そして、泣き止んだ春菜にそっと耳打ち。
「夜もぐっすり眠れるかな? またあとで、ママを独占させて」
「な、なに言ってるんですか……!」
せっかく体の火照りが落ち着いたのに、また心臓がドキドキしてきた。
いたずらな笑顔の柊矢さんの腕の中で、よく似た目鼻立ちの春菜も幸せそうに微笑んだように見えた。
<終>
「気持ちのいいお天気ですね」
ベビーカーを押しながら、私は隣を同じ歩幅で歩く柊矢さんに話しかける。
「ああ、春の陽気だな」
目を細めて答えた柊矢さんは、とてもやわらかい眼差しでベビーカーの中を覗き込んだ。
窓の外で雪がちらつく小寒の頃に生まれた娘、春菜(はるな)は最近首が座り、ベビーカーでのお散歩が楽しめるようになってきた。
「春菜、眠たそうだな」
あくびをする愛娘に、柊矢さんはいとおしげに微笑む。
「このままお昼寝しちゃいそうですね」
私は言いながら、柊矢さんの横顔をチラリと窺った。
本当は、夜勤明けの柊矢さんにもゆっくり休んでほしい。
そう家を出る前に伝えたのだけれど、「春菜の顔を見たら疲れが吹っ飛んだよ」と言って、こうしてお散歩に付き合ってくれる。
若月総合病院の副院長として、外科医として日々多忙であるにも関わらず、育児にはとても協力的。
それに……。
「紗衣も、春菜の夜泣きで寝不足なんじゃないか?」
心配そうに眉根を寄せる柊矢さんに問われ、私は頬を緩めた。
「大丈夫ですよ。昨夜はよく眠ってくれましたから」
柊矢さんは妊娠中から出産後の今まで、私の体をすごく気遣ってくれる。
「夕飯は俺が作るよ。病院の帰りに食材を買ってきたから」
「え! しゅ、柊矢さんが夕飯を、ですか?」
柊矢さんの言葉に声が裏返るほど驚いて、ピタリと足が止まる。
すると、寝息を立てていた春菜が心地よい振動が停止してグズりそうになったので、私は慌ててベビーカーを押した。
「ああ。自慢の手料理だ」
片眉をつり上げてスマートに笑う、自信ありげな様子の柊矢さんは申し訳ないけれど……。
これまで彼が自炊したのは、私がつわりでどうしても体調が悪かったときのお粥くらい。
料理なんてできるのかな。なにを作ってくれるつもりなのだろう。
作るというか、ひょっとして温めるだけ、とか?
などと、失礼なことばかり考えていると。
「腕によりをかけて振る舞うから、紗衣は楽しみにしてて」
訝しげな私の態度に気づいたのか、柊矢さんは明るい表情で声を弾ませた。
「はい! それじゃあ私も手伝いますね!」
気持ちはとってもうれしいけれど、外科医として万が一手を怪我をしたら大変なので、食材を切る作業は私が担当しよう。
微かに花の香りがする春風に頬をくすぐられ、春菜は気持ちよさそうに眠ってしまった。
慣れない育児と寝不足のなかで、家事と柊矢さんの生活のサポート、それに春菜の成長を楽しんで過ごせるのは、柊矢さんがそばにいてくれるからだと心から感謝した。
十五分ほどのお散歩を終えてマンションに帰宅する。
私はドキドキしながら、まだ眠ったままの春菜をベビーカーから抱き上げた。
そしてリビングの隣にある寝室のベビーベッドへ、緊張した足取りで向かう。
静かに寝かせると、いつもなら背中に付いたスイッチを発動させてグズって起きてしまうのに、春菜は珍しく眠ったままだ。
固唾を飲んで見守っていた柊矢さんも、ホッとした笑顔になった。
「メニューをお聞きしてもいいですか?」
キッチンに移動し、私は小声で腕まくりをする柊矢さんに尋ねる。
夕飯の時間にはまだ早いけれど、春菜が眠っている間に作ることにしたのだ。
「ラタトゥイユだよ」
今度は冷蔵庫を開け、ナスや玉ねぎなどの食材を取り出しながら柊矢さんが答えた。
「それって、もしかして……」
ラタトゥイユは夏野菜をトマトで煮込んだフランスの代表的な家庭料理。
元々好きだったけれど、レストラン・イリゼで食べてからさらにその美味しさを知った。
「ああ。オーナーシェフの入瀬さんから特別にレシピを教わったんだ」
ウインクみたいに片目を細めるハンサムな笑顔に、私はときめいて胸を躍らせる。
「すごいです! また食べたいと思っていたので、うれしいです……」
早速野菜を水洗いしながら、柊矢さんは感動で声を潤ませる私に目配せをした。
「春菜が大きくなったら、三人でレストラン・イリゼに行こうな」
「はい!」
入瀬さんに教わったレシピは、トマト缶や生のトマトではなく、旨みたっぷりのトマトペーストを使うのだそう。
ナスや玉ねぎ、ズッキーニとパプリカを細かく切るのは私の担当。
それらをオリーブ油とニンニクで炒め、コツであるトマトペーストと鶏がらスープ、ハーブで煮込む。
水分を飛ばしてトロトロにしている間に、柊矢さんがパスタを茹でた。
特製ラタトゥイユをパスタにかけていただくというアレンジレシピだ。
「いただきます」
寝室でまだ春菜が眠っていることを確認してから、私たちはダイニングテーブルに向き合って座り、声を潜めて手を合わせた。
パスタをフォークに絡めて口に入れた瞬間、さわやかなトマトの風味が口いっぱいに広がる。
「わあ、美味しい……!」
夏野菜の甘みとまろやかな酸味が相まって、とても芳醇な味わいだ。
「うん、美味い。ほとんど紗衣が作ってくれたからかな」
口に運んだ柊矢さんも、何度も小刻みにうなずく。
「いえいえ、味付けは柊矢さんですし。それにこのパスタを茹でたのも。加減が絶妙です!」
「紗衣は褒め上手だな」
柊矢さんはこらえるようにクッと笑ったけれど、お世辞ではなく本当にそう思ったんだ。
それになにより、柊矢さんの心遣いがすごくうれしい。
「今日はありがとうございました」
食べ終えて、私は改めて柊矢さんにお礼を伝えた。
今日は特別な日。プロポーズしてくれた記念日だ。
「紗衣が喜んでくれて良かったよ」
はにかんだ柊矢さんが、去年の彼の姿と重なる。
一年前のレストラン・イリゼでのメニューもラタトゥイユだった。
デザートの後、柊矢さんが私に指輪を差し出してくれたときの言葉を思い出すと、自然と頬が綻ぶ。
ずっと忘れたくない、大切な瞬間。
「どうしたんだ? ニヤニヤして」
食後のコーヒーを飲む柊矢さんは、少し首を横に傾けて微笑んだ。
「えっと、その……。去年のプロポーズを、思い出してしまって……」
見透かされていそうで居心地が悪くて、私は正直に白状する。
「俺には紗衣しかいない。紗衣じゃなきゃダメなんだ、絶対に幸せにする……って?」
「は、はいぃ」
目をそらせないほど真っ直ぐにこちらを見つめて言われると、こそばゆくて頬が熱くなる。
コーヒーカップをテーブルの上に置いた柊矢さんは、微かにムッとした。
「笑うなよ。必死だったんだ」
「ご、ごめんなさい! 笑ったのは、うれしかったからで……」
必死に弁解する様子を見て、柊矢さんは頬を弛緩させながら私の隣に移動する。
「今もその気持ちは変わらない。俺はこれまでもずっと、ママになっても。紗衣に夢中だから」
至近距離で聞こえた真剣な声色に、胸が締めつけられた。
「いちいち赤面するんだな」
「だ、だって……」
ダイニングテーブルに片手を付いた柊矢さんに真横から顔を覗き込まれ、私は恥ずかしくて熱い顔を手で扇ぐ。
「なぁ、なんでそんなにかわいいんだ?」
からかう口ぶりに、余計に頬が紅潮してきた。
「好きだよ、紗衣」
チュッと頬にキスをする。
「……抱きたくてたまらない」
耳もとで甘くささやかれ、背中がゾクッとした。
「だけど、自制する。きみがなによりも大切だから」
眉をわずかばかり下げ、柊矢さんは私の頬をそっとなでる。
胸の奥がきゅんとした。全身の血流がわかるくらい、ドキドキして鼓動が強く打つ。
「あ、あの……」
喉に力を入れて声を振り絞ると、柊矢さんが目を見開いた。
「私、もう……、大丈夫ですよ?」
恥ずかしくて直視できないけれど、柊矢さんの表情が変化したのがわかった。
「体を気遣ってくださっているのなら、その、平気なので……」
驚きを隠せずに静止したままの柊矢さんをチラリと窺う。
産後一ヶ月検診を受け、夫婦生活に問題ないと医師から言われていたけれど、私たちが体を重ねることはなかった。
それは柊矢さんが私の体の負担を考慮してくれていると気づいていたけれど、もう大丈夫だと伝えたくて……。
でも、なかなか自分から話題にできずにいた。
「春菜、起きないかな」
照れ隠しで早口に言い、春菜が眠っている寝室の方に目をやる。
「どうだろうな。もう二時間くらい寝てるし。さすがに目を覚ましそうだよな」
柊矢さんは言いながら、私の手を優しく取った。
「でも、紗衣からそう言ってくれるなんて、うれしい」
手の甲に口付けてから腕を引かれ、リビングのソファに移動する。
寝かせられた私は睫毛を伏せ、覆いかぶさってくる柊矢さんの重みとぬくもりに浸った。
密着しているから、胸の高鳴りが相手に伝わってしまいそう。
視線が絡み合い、初めてのときよりも緊張してきた。
やわらかく唇を食むキスが降ってくる。
繰り返される刺激と感触に陶酔していると、口内で舌を滑らかに動かす情熱的な口づけに変わり、鼻から甘い息が抜けた。
「んっ、ふ……ん」
呼吸が苦しい。酸欠になりそう。
口への愛撫だけでお腹の奥が疼いて、気持ちが高揚する。
「久しぶりだから、加減できないかも」
笑いを含んだ低い声がうなじをなぞり、体が震えた。
首筋を這う唇の感触に、背中が仰け反る。
「かわいい反応。興奮する」
私だって、もうどうにかなりそうだった。
ブラウスのボタンを外す、丁寧だけれどどこか焦りが滲む柊矢さんの手の動きにも、欲情するほど。
「早く紗衣の中に入りたい」
吐息混じりの声でささやき、骨っぽい手で胸に触れられて、ずっと焦らされていた刺激に肌が粟立った。
潤んでくる視界には、色気をまとう柊矢さんが映る。
もう一方の手で私の頬をなで、乞うような魅惑的な面立ちで目を細めた。
「紗衣、愛してるよ」
真剣な双眸と鼓膜がとろけるほどの甘い響きに、思わず狼狽しそうになった瞬間。
「ええーん!」
寝室から届いた、春菜の泣き声。
私たちは同時にハッとして、ソファから起き上がる。
「お預けか、残念」
優しい声でつぶやいた柊矢さんは乱れた着衣を速やかに直す。
そしてまだ余韻が消えず、体の奥が熱くてぽうっとしている私の額にキスをした。
「紗衣はゆっくり来て、大丈夫だから」
口端を上げる柊矢さんが急いで寝室に向かう。
その後ろ姿を眺めながら私もはだけたブラウスを直し、慌てて柊矢さんを追った。
ベビーベッドから春菜を抱き上げた柊矢さんは、大切そうに両手に抱いた。
「春菜、たくさん眠ったな。よしよし、いいこいいこ」
チュッと頬に口づけされた春菜の泣き声は、次第に甘えたかわいい響きに変化する。
「柊矢さん、私が代わりますよ」
春菜を抱こうと私が手を伸ばすと、柊矢さんは首を左右に振った。
そして、泣き止んだ春菜にそっと耳打ち。
「夜もぐっすり眠れるかな? またあとで、ママを独占させて」
「な、なに言ってるんですか……!」
せっかく体の火照りが落ち着いたのに、また心臓がドキドキしてきた。
いたずらな笑顔の柊矢さんの腕の中で、よく似た目鼻立ちの春菜も幸せそうに微笑んだように見えた。
<終>