マカロン文庫10周年記念企画限定SS

限定SS:一ノ瀬千景『一途な俺様救急医は本能剝き出しの溺愛を隠さない【極上ドクターシリーズ】』

『夜更けの攻防』

(人間って、そう簡単には変われないのよね)
 橙色の淡い明かりだけになった寝室。すっかりなじんだベッドマットに身体を預けながら、真緒はこっそりとため息をつく。
 フライトドクターの壱也と思いが通じ合い夫婦となって……もう結構な月日が経つけれど、時折、犬猿の仲だった頃の互いが顔をのぞかせてしまう。
 今日もそうだった。些細な言い合いがヒートアップして、いつの間にやら大喧嘩。ふたり揃って素直じゃないから、「ごめん」のひと言がなかなか出てこない。そうして、仲直りできないまま夜を迎えてしまった。
 同じベッドに入りはしたものの、端と端にそれぞれ陣取って背を向けている。
 クイーンサイズのベッドは、ふたりで寝ても十分な広さがあった。狭いベッドで自然に肩が触れでもすれば、言葉を交わすきっかけになるだろうに……。
(いや、悪いのはベッドじゃなくて意地っ張りな私なんだけど)
 わかっていても、人間はそう簡単には変われない。
 もう今夜は寝てしまえ。そう考えて、掛け布団を顔まで引っ張りあげる。清潔なシーツからふわりと立ちのぼる、かすかな壱也の香り。胸がグッと切なくなった。
 甘い声でささやかれる「おやすみ」も、少し厚みのある柔らかな唇の感触も。毎夜、当たり前に与えられていたものが今夜は手に入らない。それが、どうしようもなく寂しい。
 他愛ない話でクスクスと笑いながらするたわむれのキスも、ハードな仕事でぐったりしている真緒をいたわる優しいキスも。そして、その先を予感させる情熱的なキスも。
 一日の終わりに交わす彼とのキスが、自分はすごく好きなのだ。
(やっぱり今夜のうちに謝ろうか)
 そんなふうに思った瞬間、わずかにベッドマットが沈み、背中に人肌の熱を感じた。
「もう寝た?」
 どことなくバツが悪そうに響く、壱也の声。
「まだ、起きてます」
 答える自分の声も彼と同じく、少し硬い。
「真緒。こっち向いて」
 こんな声は反則だ。たとえ喧嘩中だって、振り返らずにはいられない。真緒はゆっくりと身体ごと彼に向き直った。
 淡い光のなかで甘く視線が絡めば、互いの心も透けて見えた。
「ごめん」
「ごめんなさい」
 仲直りの言葉がぴたりと重なり、ふたり同時にプッと噴き出す。
 逞しい壱也の腕が伸びてきて真緒の背中をグッと強く抱き寄せる。
「……真緒のキスがないと眠れない」
 くぐもった低い声に身体の深いところが熱くなった。赤くなっていそうな頬を隠したくて、彼の胸に顔をうずめて返事をする。
「私も。壱也先生の『おやすみ』を聞かないと寝つけません」
 クスッと彼が笑う。その吐息が真緒の額にかかる。長い指が顎を持ちあげ、上を向かされた。
「今夜のそれは、もっとあとでもいいか?」
 真緒が答えるより先に、唇が重なる。そっと舌先が忍び込んできて、深く熱く、真緒の心と身体を溶かしていく。……真緒が一番好きな〝その先を予感させるキス〟だ。

<終>
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