マカロン文庫10周年記念企画限定SS
限定SS:黒乃梓『クールな御曹司の蜜愛ジェラシー』
「片岡さん、結婚してますます綺麗になったわね」
机を挟んで真向かいに座る同僚の坂本(さかもと)さんになにげなく声をかけられ、口をつけようとしていたグラスを持つ手を止めた。母親より少し若いくらいの彼女に対し、私の隣に座っていた後輩の女性が便乗する。
「私もそう思います! 片岡さん、ぐっとお洒落になって可愛くなりましたよね!」
大学の事務職員として新卒で就職し、服装の規定はないが私は極力シンプルで地味な格好をしていた。髪型もアクセサリーも同じ。興味がなかったわけではなく、そこに気合いを入れるのが少しだけ怖かった。私にはお洒落も可愛い格好も似合わないとずっと思っていたから。
けれど幹弥に出会って――正確には彼女たちの言うとおり、幹弥と結婚して私は変わった。
今の私は 淡いパープルのボウタイブラウスにクリーム色のスカートを組み合わせ、オフィスカジュアルを意識しつつ自分好みのフェミニン系のファッションを着用している。髪は、以前はひとつに軽くまとめるだけだったけれど、今日は両サイドを編み込みうしろで細身のバレッタで留め、メイクは派手すぎず柔らかい雰囲気になるよう施していた。
そして―― 左手の薬指にはキラキラと輝く結婚指輪がはめられている。結婚してまだ二ヶ月もたっておらず、慣れていなくて少し照れくさい。けれど目に入るたびに幸せな気持ちでいっぱいになる。
新年度に入り、新人の歓迎会も兼ねた職場の飲み会は、盛り上がりを見せている。年齢層は幅広く、私が就職した頃から知っている人も多い。
職場に結婚を報告したものの旧姓のまま仕事を続けることを決めたので、戸籍上は桐生優姫になったが、同僚からは変わらず「片岡さん」と呼ばれていた。
「それにしても相手は桐生建設コーポレーションの次期社長なんですよね。去年、何度かお見かけしましたけれど、めちゃくちゃカッコよかったから羨ましいです!」
「本当。女子学生さんたちも色めきだってすごかったわよね」
私たちが再会したのは、幹弥が大学に外部講師としてやってきたからだ。当時私は彼を避けていたが、女子学生だけではなく彼の相手をする若い事務職員の女性は、本気で距離を縮めようと躍起になっていた。
その彼女は今、少し遠くの席で今年度から就職した男性職員と楽しそうに話している。
半年前は結婚どころか、幹弥と想いを通わせ合うなど夢にも思っていなかった。だからときどきすべて夢なんじゃないかと疑ってしまう。
時刻は午後九時過ぎ。そろそろお開きの流れになり、店の外に出る。学生と鉢合わせしないよう、大学から少し離れた居酒屋で今日の会は開かれた。金曜日の夜ということもあり、いつもより多くの人が道中を行き交っている。
各々どうやって帰るか確認し合う。二次会の話もあがっているが、私はパスしタクシーで帰るつもりだ。同じ方面なら誰かと相乗りしようか。
「片岡さんって、どうやって旦那さんにアプローチしたんですか?」
そのとき唐突に話題を振られ、目を丸くする。新人の男性職員と話題を弾ませていた正田(しょうだ)さんは、幹弥が外部講師として事務に出入りしていた際、積極的に話しかけていた。
「だっていくら同級生と言っても、生建設コーポレーションの後継者ですよ? しかもあの顔! 片岡さん真面目で仕事熱心ですけれど、旦那さんの周りには綺麗で相応しい女性はたくさんいたでしょうから……玉の輿に乗るために、どんな方法を使ったのかなって」
私とプライベートな話などほぼしたことがないのに正田さんは断定で聞いてきた。おかげで彼女と楽しそうに話していた加藤(かとう)くんは怪訝そうな表情で私を見てくる。
彼から見ると私は、相手が次期社長だから結婚したように感じたのかもしれない。
否定しようとしたら先に彼女の口が動いた。
「まさか子どもができて結婚を持ちかけたとか?」
そんなふうに思われていたとは予想もせず、私は慌てて首を横に振る。
「ち、ちが――」
「違いますよ」
そこに凛とした声が通り、私はもちろん正田さんや加藤くん、他の同僚の視線もそちらを向いた。
口元には笑みを湛え、濃いネイビーのシャドーストライプスーツを身にまとい、眼鏡をかけている幹弥がゆっくりとこちらに近づいてくる。
「こんばんは。いつも妻がお世話になっています。迎えに来ました」
仕事仕様の穏やかな声と目を引く整った顔は、初対面の人間でもあっという間に虜にする。しかし目は笑っていないと思うのは私だけだろうか。
「桐生先生、お久しぶりです。ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます」
坂本さんが律儀に挨拶し、続けて彼女は私に声をかける。
「旦那さん、お忙しいのに優しくて羨ましいわ。片岡さん、愛されているのね」
「ええ。彼女が誰よりも大切なので」
答えたのは幹弥で、彼はさりげなく私の肩を抱く。あまりにも鮮やかなので、赤面するが下手に抵抗できない。
幹弥の視線は正田さんに向けられた。
「残念ですが期待するアドバイスは、妻にはできませんよ。私が必死に口説き落としてやっと結婚を承諾してもらったんです。彼女は私の肩書きや見た目で靡く人間ではないので随分と苦労しました」
幹弥の発言に正田さんは屈辱で顔を赤くする。痛烈な皮肉なのは明らかだ。
加藤くんは正田さんの様子をうがっているが、正田さんと私のやりとりを聞いていなかった他の人は幹弥の言葉通り受け取り、私の普段の仕事ぶりなどを説明し褒めはじめる。
「奥さん、仕事が早くて先生方や学生さんからの信頼も厚いんですよ」
「そうですか」
幹弥がにこやかに答えるので、私は違う意味で顔が熱くなる。
「すみません、夫が迎えに来たのでここで失礼します」
頭を下げ、その場を幹弥と共に足早に後にする。
近くのコインパーキングに車を停めているそうでおとなしく幹弥についていく。彼の手は私の肩に回されたままだった。
「まったく。ああいうくだらないやっかみをしょっちゅう受けているわけ?」
しばらく歩きふたりになったところで、あきれたように幹弥が聞いてきた。こちらが素の彼で、私には馴染み深い。
「しょっちゅうってわけじゃないけど……」
たどたどしく言い訳する。そこで彼の手が離れた。気がつけば駐車場に辿りつき、私たちは車に乗り込む。
助手席に座り、私は改めて幹弥に告げる。
「あれくらい平気だよ。ある程度はしょうがないと思っているし」
「そうやって“しょうがない”ってなんでも受け入れるの、優姫の悪い癖だよ」
間髪を入れない返事に言葉に詰まる。わかっている、幹弥は心配しているのだ。私の性分を嫌というほど理解しているから。
「俺のせいで優姫が傷つくのだけは耐えられない」
エンジンをかけ幹弥はハンドルに手を置き、前を向いたまま呟く。そう言った幹弥の方が傷ついているみたいだ。普段の余裕たっぷりな姿からは考えられない。
「傷ついていないよ」
だから私は力強く否定した。彼の視線がこちらを向き、私はしっかりと目を合わせる。
「周りになにを言われても、幹弥が私の気持ちを知ってくれているから大丈夫」
以前の私は、周囲のなにげない言葉や態度に傷ついて、それを表に出せずにひとりで抱え込んでいた。けれど今の私はひとりじゃない。
幹弥は目を丸くした後、ゆっくりと私の頬に手を伸ばした。
「まったく。優姫が俺の外見や家柄で落ちる人間だったら、とっくに俺のものにできていたのに」
苦笑混じりの幹弥に、私は唇を尖らせた。
「そんな人間なら、幹弥は私を好きになっていないと思うよ」
私の指摘に彼は、今度は目を細めて笑う。
「たしかに」
幹弥がこちらに身を乗り出してきたので私も彼の方に体を寄せ、どちらからともなく口づける。至近距離で目が合い、幹弥はこつんと額を重ねてきた。
「とはいえどうだろう。どんな優姫でも結局俺は惹かれていたと思う」
しみじみと漏らされた内容に一瞬で頬が熱くなる。こういう不意討ちは卑怯だ。
離れようとしたら次は強引に口づけられた。余裕たっぷりのキスを今度は私から終わらせる。
「っ、帰るんでしょ!」
「そうだね。ここではできることに限界がある」
しれっと返され、なにか言おうか迷ったものの背もたれに体を預けた。すると車が動き始める。窓の外を眺めながらあることを思い出し、顔を彼の方に向ける。
「そういえば今日、約束があるって言ってなかった?」
仕事絡みの会食があると聞いていた気がする。忘れていた、というより幹弥は桐生建設コーポレーションの次期後継者としてここ最近ずっと忙しそうにしていたから今日も帰りは遅いと踏んでいた。
「断ってきた」
「大丈夫なの?」
早く終わったのかと思ったら、そういうわけではないらしい。
「大丈夫。なんでもかんでも顔を出せばいいってもんじゃない」
「それはそうかもしれないけれど……」
「なにより今日は妻を迎えに行くって大事な用事があったからね」
まさか私のためだとは思わず、うれしさよりも申し訳なさが先に立った。
「タクシー使うのに……」
視線を逸らし、つい可愛くないことを口にする。本当はありがとうって言うべきなのに。
一瞬沈黙が走り、信号待ちで車が止まる。そのタイミングで幹弥の大きい手が私の頭に乗せられた。
「俺が優姫を迎えにいきたいんだ」
伝わる手のひらの感触と温もりに胸が高鳴る。
「……うん、ありがとう」
おかげで素直に気持ちを伝えられた。幹弥は満足そうに微笑み、再び前を向く。
「結婚する前から、幹弥は私を送るのを譲らなかったよね」
続けて私から話題を振る。さすがに体だけの関係のときから、とは言えなかったが、話は通じたらしい。
「当然だろ」
幹弥は短く答えた。あの頃から幹弥は私が思う以上に私を大事に想っていてくれたのかな?
ちらりとうかがうと、彼の形のいい唇が動く。
「優姫が心配だったのもある。けれどあの頃はそれ以上に、優姫がふらりと他の男のところに行くんじゃないかって気が気じゃなかったんだ」
予想もしていない告白に、私は目を瞬かせた。なんで?と聞くほど野暮じゃない。あのときは幹弥に対して自分の気持ちを絶対に悟られてはいけないと予防線を張って、あえて踏み込ませないようにしていた。だって幹弥には嫌われていると思っていたから。
「……他の人なんて考えたことなかった。あんな関係になったのも……今も昔も幹弥だけだよ」
蚊の鳴くような声で告げる。今さらかもしれないけれど、ずっと素直になれなかった分、きちんと伝えたい。
「そうであってほしいね」
自然と重たい空気を纏う私に対し、幹弥は軽い調子で返してきた。こちらを一瞥し、苦笑する。
「そんな顔するな。俺が悪かったんだ、優姫のことを傷つけてばかりで……。でも今、いろいろありながらも優姫と同じ場所に帰れるのはこのうえなく幸せだと思っている」
「私もだよ」
すぐに同意すると、幹弥は笑ってくれた。その表情に目を奪われる。幹弥と結婚して私は幸せだ。
結婚する前は彼のマンションから私のアパートに送ってもらっていたのが、今ではここが私の帰る場所なんだ。
マンションに帰ってきて、改めて噛みしめる。お風呂の準備をするためリビングからバスルームに歩を進めようとしたら、不意に手を掴まれた。
「どうし――」
尋ねようとしたのと同時に手を引かれ、幹弥の腕の中に閉じ込められる。
「おかえり、優姫」
優しく囁かれ、私は彼をぎゅっと抱きしめ返す。
「うん、ただいま」
温かい気持ちで満たされ、甘えるように彼の胸に顔をうずめ擦り寄る。頭を撫でられ、彼ともっと密着したくなり腕に力を込めた。
やがて頭を撫でていた手がそっと頬に滑らされ、彼の方を向かされる。視線が交わり目を閉じると、ごく自然に唇が重ねられた。さりげなく唇の隙間に舌を差し込まれ、受け入れようとしたら、幹弥から距離を取った。
「いつもより飲んでる?」
驚いて目を見開く私に、彼は真剣な面持ちで聞いてくる。なにを?と返さなくても、彼の言わんとしていることはわかる。
幹弥の言っているのはアルコールの量だ。
「そんなには……」
たどたどしく答えたものの、これでは否定ではなく肯定になっている。とはいえ悪いことはしていないはずだ。
なんとかフォローしようとしたが、その前にキスで言葉を封じ込められる。
先ほどは違い、最初から深く求められる。口内に侵入してきた彼の厚い舌先が唇の裏側を舐め、歯列に沿わされていく。
「んっ……ふ、ぁ……」
ぞくりと背中が震え腰が引けそうになるが、それを見越して彼の腕が力強く回されていて逃げられない。
「ふっ……う、ん……」
拒否はしないが応えるのも難しい。舌を絡めとられ幹弥の好きなように翻弄される。でも確実に私を蕩かせるキスだ。
おもむろに唇が離れると、私の口の端に溜まった唾液を幹弥が軽く舐める。続けて彼はこつんと額を重ねてきた。
「嘘つき。俺も酔いそうなんだけど?」
怒っているというよりからかっている口調。怖いくらい整っている顔は、どんな表情でもつい見惚れてしまう。
続けて、首筋にさりげなく唇を寄せられ、肩を震わせた。
「んっ」
思わず声があがってしまう。幹弥の手は私の腰回りをゆっくり撫で、ブラウスの裾を器用にスカートから出していく。
「ちょっ」
彼の意図を読み、ようやく抵抗の意を示す。しかし幹弥はあっさりと裾から手を差し入れ、私の肌に触れてきた。
「やっ、だ……め」
「今日は一段と可愛らしいから、脱がしがいがある」
楽しそうに幹弥は告げ、薄い皮膚に音を立て口づけた。場所が場所なだけに平静でいられず身をよじろうとしたら、そのまま抱え上げられた。
「わっ」
完全な不意打ちで足をばたつかせるが、すぐそばのソファに下ろされる。起き上がろうとするも幹弥に覆いかぶさられ逃げられない。ブラウスの下に着ていたキャミソールごとたくし上げられ、普段は服に隠れている肌が空気に晒される。
「や、だ。先にお風呂入る!」
「アルコールが入っているときは余計に回るから、やめておいた方がいいよ」
耳たぶに唇を寄せられ正論で返されたが、納得できるわけがない。乾いた手のひらが肌を撫で、鳥肌が立つ。彼の手を阻もうと手首をつかむがびくともせず、さらには耳の輪郭に沿って舌を這わされ、声にならない声が漏れた。
「あっ……」
「今日はこのまま全部舐めさせて」
わざと耳に息を吹きかけるようにして低く囁かれる。視界が滲んで体の奥が熱い。けれど私はなけなしの理性で首を横に振る。
「だ、め。絶対……だめ」
力強く言ったつもりが、声は想像以上に弱々しい。主張と言うより懇願だ。
「せめて……シャワーを浴びてから」
お風呂がだめならシャワーは許してほしい。一日仕事をして飲み会に参加して、そこまで暑い季節ではないが汗をかいているし汚れている。
私のお願いに対し、幹弥は私の目尻に溜まった涙を拭うようにキスを落としてきた。聞き入れてもらえたとホッとしていると幹弥が頭を上げる。
「そう可愛い顔で言われると聞いてあげたくなるけれど、今日は譲らない。恥ずかしがる優姫も込みで楽しみたいから」
不敵に笑う幹弥とは反対に私は硬直する。続けて状況を理解し、勝手に口が動いた。
「なっ……。意地悪! き、嫌い!」
まるで子どもだ。結婚する前の癖なのか、嫌いと言ってしまったことはすぐに後悔する。謝ろうとしたが幹弥はにこりと微笑んだ。
「いいね。そんな優姫が、最後は俺を欲しがって“好き”って何度も口にするんだから」
すぐに言い返そうとしたがキスで口を塞がれる。今日は絶対に好きって言わない。そう誓いながらも、結局は幹弥の思い通りになるのだからやっぱり敵わない。
目を擦ろうと腕を上げたら水面が揺れた。次の瞬間、背後から回された腕に力が込められ、できた波がバスタブの縁にあたりパシャリと音を立てる。
「眠い?」
「平気」
心配そうな声に短く答える。幹弥に翻弄されつつたっぷり愛され、アルコールも抜けたのでようやくお風呂に入る許可をもらった。
当然のように幹弥も一緒に入る流れになり、今はふたりでバスタブに浸かり、彼にうしろから抱きしめられている状態だ。
気怠さから素直に体を預けると、幹弥はうれしそうに私の肌に唇を寄せてきた。
「んっ」
「痕つけていい?」
おかしそうに尋ねられ、いつもなら即座に拒否するけれど私はちらりと彼の方に顔を向けた。
「……どうしたの?」
私の問いかけに幹弥は目を瞠った。
「なんか、幹弥……変だよ」
具体的にどこが、とまではわからないけれど確信はある。妙に意地悪とでもいうのか、焦っているとでもというのか。
私の指摘に、幹弥はしばし迷う素振りを見せ、ややあって盛大にため息をついた。抱きしめる力を強められ、さらに彼との距離が縮まる。
「敵わないな、優姫には」
苦笑混じりに幹弥は呟いた。彼は私の頭をそっと撫でる。
「優姫がどんどん綺麗になって、一部の男子学生が優姫目当てで事務室に顔を出しているって聞いて」
「だ、誰に?」
予想外の幹弥の告白に、私は慌てた。
「弘瀬先生に」
先生、また余計なことを……。
内心で悪態をつく。私たちの大学時代の恩師である弘瀬先生は 、今も大学に勤めており幹弥に外部講師を依頼した人物だ。先生の引き合わせで私たちは再会したのもあって、ふたりで結婚の挨拶に行ったときは自分ごとのように喜んでくれた。
けれど今回ばかりは、思わず恨んでしまいそうになる。
「先生が大げさなんだよ。この時期、学生さんが相談に来るのはよくあることで……」
極力明るく返す。たしかに中には熱心に通ってくる男子学生もいるが、それとこれと話は別だ。
「学生だけではなく優姫と同年代の若い男性職員も多いんだろ?」
しかし幹弥は渋い顔を崩さない。こういうとき顔が整っている人間はどんな表情をしても絵になるので少し悔しい。
「優姫はお人好しでどこまでも馬鹿正直に人のために尽くすから、勘違いする男を大量に作っていそうで……」
「ちょっと! その言い方はないでしょ」
どう考えても褒められてはいない。相変わらずの言い回しに私は唇を尖らせる。すると素早く唇を重ねられた。彼の切なそうな表情に、打って変わって私は真面目に答える。
「幹弥、心配しすぎだよ。私だってこの仕事もう五年目だよ? 距離の取り方を心得て、ちゃんと割り切ってます」
就職したての頃は、相談に来る学生一人ひとりに感情移入してなかなか大変だったのも事実だ。でも、私も成長している。
とはいえ幹弥からすると私はまだ甘いのかな?
「……私、信用ない?」
「そうじゃない。ただ、俺が嫌なんだ」
不安げに聞くと、間髪を入れない返事がある。
「見る目がなかった奴らが、今さらなにを言っているんだか。頭ではわかっていても、優姫をそういう目で見る男が近くにいるのが腹立つ」
吐き捨てる幹弥は自身の前髪を掻き上げた。その仕草ひとつとっても彼の方がよっぽど魅力的で色っぽい。
「……私、お洒落するのがどこかで怖かったし、私には似合わないとずっと思っていた」
ぽつりと自分の本音を口にすると幹弥が聞く姿勢をとった。だから、おずおずと続けていく。
「でも幹弥が私を可愛いって、似合うって背中を押してくれたから踏み出せたの」
なかなか素直に受け取れなくて、そんなわけないって否定して耳を塞いでいた。でも幹弥がそんな私と向き合って、手を引いてくれた。
「だから私が、その……もしも綺麗になったのだとしたら、それは幹弥のおかげだよ」
幹弥がいなかったら、きっと今の私はいない。
「それに……今日いつもより少しだけ格好やメイクに気合いを入れたのは、絶対に飲み会で結婚相手の話題を振られると思ったから」
幹弥を知っている人にも知らない人にも、あれこれ尋ねられるのは目に見えていた。幹弥の立場を聞いたら、正田さんのような反応も無理はないと思っている。そうだとしても――。
「結婚式もあるし、少しでも幹弥の相手として相応しくなりたくて……」
思うままに口にしてはたと気づく。完全にしゃべりすぎた。
幹弥の顔をまともに見られずにいると、顎に手をかけられ強引に口づけられる。重ねる唇は熱く、体に熱がこもっていく。
そっと解放され、頬に張り付いた髪を優しく耳にかけられた。
「まったく。随分と可愛いことを言ってくれる」
額にキスされ、完全に幹弥のペースになっているこの状況に悔しさから私は口を開く。
「だ、だいたい私より幹弥の方がモテるし、結婚しても言い寄ってくる女性、たくさんいるでしょ」
勘違いさせるのは幹弥の方だ。昔から私以外には愛想がよくて、温和で話し上手で……。彼に惹かれる女性は後を絶たない。
「心配しなくても、俺は上手くあしらう方法をわかっているし絶対に踏み込ませたりしない。基本的に優姫以外の人間はどうでもいいって思っているから」
なんでもないかのように幹弥は言ってのける。それはそれでどうなんだろう。
幹弥をうかがうと不意に目が合い、彼は口角を上げた。
「優姫は俺と違って純粋そのものだからね。あまり妬かせないでほしい、奥さん」
濡れた黒髪が肌に張り付き、なにもかもを見透かすような切れ長の瞳が私を捉える。カッコイイよりも綺麗という表現が彼には似合う。
小さく頷くと軽く唇を重ねられ、そろそろあがるように促される。たしかにもう十分に温まった。むしろ熱いくらいだ。
「のぼせた……」
「介抱しようか?」
ふかふかのバスタオルに身を包んでぽつりと漏らしたら、おかしそうに返された。ムッとして幹弥に視線を送る。ややあって私は首を縦に振った。
「うん」
私の反応にシャツを羽織っている幹弥が手を止めた。彼がなにかい言う前に早口で告げる。
「幹弥のせいだから……責任取って」
上目遣いに見ると、幹弥は優しく私を腕の中に閉じ込めた。
「わかった。たっぷり甘やかしてあげるよ」
ずっと幹弥には嫌われていると思っていた。彼が優しくするのは私以外の人間なんだって。
でも今も昔も私自身を見て、誰よりも私を大事にしてくれるのは幹弥だけだ。
彼とおそろいの指輪をしているだけでこんなにも幸せな気持ちになる。幹弥と出会って、結婚して、彼のそばにいられる嬉しさを噛みしめながら、今度は私からキスをねだった。
<終>
机を挟んで真向かいに座る同僚の坂本(さかもと)さんになにげなく声をかけられ、口をつけようとしていたグラスを持つ手を止めた。母親より少し若いくらいの彼女に対し、私の隣に座っていた後輩の女性が便乗する。
「私もそう思います! 片岡さん、ぐっとお洒落になって可愛くなりましたよね!」
大学の事務職員として新卒で就職し、服装の規定はないが私は極力シンプルで地味な格好をしていた。髪型もアクセサリーも同じ。興味がなかったわけではなく、そこに気合いを入れるのが少しだけ怖かった。私にはお洒落も可愛い格好も似合わないとずっと思っていたから。
けれど幹弥に出会って――正確には彼女たちの言うとおり、幹弥と結婚して私は変わった。
今の私は 淡いパープルのボウタイブラウスにクリーム色のスカートを組み合わせ、オフィスカジュアルを意識しつつ自分好みのフェミニン系のファッションを着用している。髪は、以前はひとつに軽くまとめるだけだったけれど、今日は両サイドを編み込みうしろで細身のバレッタで留め、メイクは派手すぎず柔らかい雰囲気になるよう施していた。
そして―― 左手の薬指にはキラキラと輝く結婚指輪がはめられている。結婚してまだ二ヶ月もたっておらず、慣れていなくて少し照れくさい。けれど目に入るたびに幸せな気持ちでいっぱいになる。
新年度に入り、新人の歓迎会も兼ねた職場の飲み会は、盛り上がりを見せている。年齢層は幅広く、私が就職した頃から知っている人も多い。
職場に結婚を報告したものの旧姓のまま仕事を続けることを決めたので、戸籍上は桐生優姫になったが、同僚からは変わらず「片岡さん」と呼ばれていた。
「それにしても相手は桐生建設コーポレーションの次期社長なんですよね。去年、何度かお見かけしましたけれど、めちゃくちゃカッコよかったから羨ましいです!」
「本当。女子学生さんたちも色めきだってすごかったわよね」
私たちが再会したのは、幹弥が大学に外部講師としてやってきたからだ。当時私は彼を避けていたが、女子学生だけではなく彼の相手をする若い事務職員の女性は、本気で距離を縮めようと躍起になっていた。
その彼女は今、少し遠くの席で今年度から就職した男性職員と楽しそうに話している。
半年前は結婚どころか、幹弥と想いを通わせ合うなど夢にも思っていなかった。だからときどきすべて夢なんじゃないかと疑ってしまう。
時刻は午後九時過ぎ。そろそろお開きの流れになり、店の外に出る。学生と鉢合わせしないよう、大学から少し離れた居酒屋で今日の会は開かれた。金曜日の夜ということもあり、いつもより多くの人が道中を行き交っている。
各々どうやって帰るか確認し合う。二次会の話もあがっているが、私はパスしタクシーで帰るつもりだ。同じ方面なら誰かと相乗りしようか。
「片岡さんって、どうやって旦那さんにアプローチしたんですか?」
そのとき唐突に話題を振られ、目を丸くする。新人の男性職員と話題を弾ませていた正田(しょうだ)さんは、幹弥が外部講師として事務に出入りしていた際、積極的に話しかけていた。
「だっていくら同級生と言っても、生建設コーポレーションの後継者ですよ? しかもあの顔! 片岡さん真面目で仕事熱心ですけれど、旦那さんの周りには綺麗で相応しい女性はたくさんいたでしょうから……玉の輿に乗るために、どんな方法を使ったのかなって」
私とプライベートな話などほぼしたことがないのに正田さんは断定で聞いてきた。おかげで彼女と楽しそうに話していた加藤(かとう)くんは怪訝そうな表情で私を見てくる。
彼から見ると私は、相手が次期社長だから結婚したように感じたのかもしれない。
否定しようとしたら先に彼女の口が動いた。
「まさか子どもができて結婚を持ちかけたとか?」
そんなふうに思われていたとは予想もせず、私は慌てて首を横に振る。
「ち、ちが――」
「違いますよ」
そこに凛とした声が通り、私はもちろん正田さんや加藤くん、他の同僚の視線もそちらを向いた。
口元には笑みを湛え、濃いネイビーのシャドーストライプスーツを身にまとい、眼鏡をかけている幹弥がゆっくりとこちらに近づいてくる。
「こんばんは。いつも妻がお世話になっています。迎えに来ました」
仕事仕様の穏やかな声と目を引く整った顔は、初対面の人間でもあっという間に虜にする。しかし目は笑っていないと思うのは私だけだろうか。
「桐生先生、お久しぶりです。ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます」
坂本さんが律儀に挨拶し、続けて彼女は私に声をかける。
「旦那さん、お忙しいのに優しくて羨ましいわ。片岡さん、愛されているのね」
「ええ。彼女が誰よりも大切なので」
答えたのは幹弥で、彼はさりげなく私の肩を抱く。あまりにも鮮やかなので、赤面するが下手に抵抗できない。
幹弥の視線は正田さんに向けられた。
「残念ですが期待するアドバイスは、妻にはできませんよ。私が必死に口説き落としてやっと結婚を承諾してもらったんです。彼女は私の肩書きや見た目で靡く人間ではないので随分と苦労しました」
幹弥の発言に正田さんは屈辱で顔を赤くする。痛烈な皮肉なのは明らかだ。
加藤くんは正田さんの様子をうがっているが、正田さんと私のやりとりを聞いていなかった他の人は幹弥の言葉通り受け取り、私の普段の仕事ぶりなどを説明し褒めはじめる。
「奥さん、仕事が早くて先生方や学生さんからの信頼も厚いんですよ」
「そうですか」
幹弥がにこやかに答えるので、私は違う意味で顔が熱くなる。
「すみません、夫が迎えに来たのでここで失礼します」
頭を下げ、その場を幹弥と共に足早に後にする。
近くのコインパーキングに車を停めているそうでおとなしく幹弥についていく。彼の手は私の肩に回されたままだった。
「まったく。ああいうくだらないやっかみをしょっちゅう受けているわけ?」
しばらく歩きふたりになったところで、あきれたように幹弥が聞いてきた。こちらが素の彼で、私には馴染み深い。
「しょっちゅうってわけじゃないけど……」
たどたどしく言い訳する。そこで彼の手が離れた。気がつけば駐車場に辿りつき、私たちは車に乗り込む。
助手席に座り、私は改めて幹弥に告げる。
「あれくらい平気だよ。ある程度はしょうがないと思っているし」
「そうやって“しょうがない”ってなんでも受け入れるの、優姫の悪い癖だよ」
間髪を入れない返事に言葉に詰まる。わかっている、幹弥は心配しているのだ。私の性分を嫌というほど理解しているから。
「俺のせいで優姫が傷つくのだけは耐えられない」
エンジンをかけ幹弥はハンドルに手を置き、前を向いたまま呟く。そう言った幹弥の方が傷ついているみたいだ。普段の余裕たっぷりな姿からは考えられない。
「傷ついていないよ」
だから私は力強く否定した。彼の視線がこちらを向き、私はしっかりと目を合わせる。
「周りになにを言われても、幹弥が私の気持ちを知ってくれているから大丈夫」
以前の私は、周囲のなにげない言葉や態度に傷ついて、それを表に出せずにひとりで抱え込んでいた。けれど今の私はひとりじゃない。
幹弥は目を丸くした後、ゆっくりと私の頬に手を伸ばした。
「まったく。優姫が俺の外見や家柄で落ちる人間だったら、とっくに俺のものにできていたのに」
苦笑混じりの幹弥に、私は唇を尖らせた。
「そんな人間なら、幹弥は私を好きになっていないと思うよ」
私の指摘に彼は、今度は目を細めて笑う。
「たしかに」
幹弥がこちらに身を乗り出してきたので私も彼の方に体を寄せ、どちらからともなく口づける。至近距離で目が合い、幹弥はこつんと額を重ねてきた。
「とはいえどうだろう。どんな優姫でも結局俺は惹かれていたと思う」
しみじみと漏らされた内容に一瞬で頬が熱くなる。こういう不意討ちは卑怯だ。
離れようとしたら次は強引に口づけられた。余裕たっぷりのキスを今度は私から終わらせる。
「っ、帰るんでしょ!」
「そうだね。ここではできることに限界がある」
しれっと返され、なにか言おうか迷ったものの背もたれに体を預けた。すると車が動き始める。窓の外を眺めながらあることを思い出し、顔を彼の方に向ける。
「そういえば今日、約束があるって言ってなかった?」
仕事絡みの会食があると聞いていた気がする。忘れていた、というより幹弥は桐生建設コーポレーションの次期後継者としてここ最近ずっと忙しそうにしていたから今日も帰りは遅いと踏んでいた。
「断ってきた」
「大丈夫なの?」
早く終わったのかと思ったら、そういうわけではないらしい。
「大丈夫。なんでもかんでも顔を出せばいいってもんじゃない」
「それはそうかもしれないけれど……」
「なにより今日は妻を迎えに行くって大事な用事があったからね」
まさか私のためだとは思わず、うれしさよりも申し訳なさが先に立った。
「タクシー使うのに……」
視線を逸らし、つい可愛くないことを口にする。本当はありがとうって言うべきなのに。
一瞬沈黙が走り、信号待ちで車が止まる。そのタイミングで幹弥の大きい手が私の頭に乗せられた。
「俺が優姫を迎えにいきたいんだ」
伝わる手のひらの感触と温もりに胸が高鳴る。
「……うん、ありがとう」
おかげで素直に気持ちを伝えられた。幹弥は満足そうに微笑み、再び前を向く。
「結婚する前から、幹弥は私を送るのを譲らなかったよね」
続けて私から話題を振る。さすがに体だけの関係のときから、とは言えなかったが、話は通じたらしい。
「当然だろ」
幹弥は短く答えた。あの頃から幹弥は私が思う以上に私を大事に想っていてくれたのかな?
ちらりとうかがうと、彼の形のいい唇が動く。
「優姫が心配だったのもある。けれどあの頃はそれ以上に、優姫がふらりと他の男のところに行くんじゃないかって気が気じゃなかったんだ」
予想もしていない告白に、私は目を瞬かせた。なんで?と聞くほど野暮じゃない。あのときは幹弥に対して自分の気持ちを絶対に悟られてはいけないと予防線を張って、あえて踏み込ませないようにしていた。だって幹弥には嫌われていると思っていたから。
「……他の人なんて考えたことなかった。あんな関係になったのも……今も昔も幹弥だけだよ」
蚊の鳴くような声で告げる。今さらかもしれないけれど、ずっと素直になれなかった分、きちんと伝えたい。
「そうであってほしいね」
自然と重たい空気を纏う私に対し、幹弥は軽い調子で返してきた。こちらを一瞥し、苦笑する。
「そんな顔するな。俺が悪かったんだ、優姫のことを傷つけてばかりで……。でも今、いろいろありながらも優姫と同じ場所に帰れるのはこのうえなく幸せだと思っている」
「私もだよ」
すぐに同意すると、幹弥は笑ってくれた。その表情に目を奪われる。幹弥と結婚して私は幸せだ。
結婚する前は彼のマンションから私のアパートに送ってもらっていたのが、今ではここが私の帰る場所なんだ。
マンションに帰ってきて、改めて噛みしめる。お風呂の準備をするためリビングからバスルームに歩を進めようとしたら、不意に手を掴まれた。
「どうし――」
尋ねようとしたのと同時に手を引かれ、幹弥の腕の中に閉じ込められる。
「おかえり、優姫」
優しく囁かれ、私は彼をぎゅっと抱きしめ返す。
「うん、ただいま」
温かい気持ちで満たされ、甘えるように彼の胸に顔をうずめ擦り寄る。頭を撫でられ、彼ともっと密着したくなり腕に力を込めた。
やがて頭を撫でていた手がそっと頬に滑らされ、彼の方を向かされる。視線が交わり目を閉じると、ごく自然に唇が重ねられた。さりげなく唇の隙間に舌を差し込まれ、受け入れようとしたら、幹弥から距離を取った。
「いつもより飲んでる?」
驚いて目を見開く私に、彼は真剣な面持ちで聞いてくる。なにを?と返さなくても、彼の言わんとしていることはわかる。
幹弥の言っているのはアルコールの量だ。
「そんなには……」
たどたどしく答えたものの、これでは否定ではなく肯定になっている。とはいえ悪いことはしていないはずだ。
なんとかフォローしようとしたが、その前にキスで言葉を封じ込められる。
先ほどは違い、最初から深く求められる。口内に侵入してきた彼の厚い舌先が唇の裏側を舐め、歯列に沿わされていく。
「んっ……ふ、ぁ……」
ぞくりと背中が震え腰が引けそうになるが、それを見越して彼の腕が力強く回されていて逃げられない。
「ふっ……う、ん……」
拒否はしないが応えるのも難しい。舌を絡めとられ幹弥の好きなように翻弄される。でも確実に私を蕩かせるキスだ。
おもむろに唇が離れると、私の口の端に溜まった唾液を幹弥が軽く舐める。続けて彼はこつんと額を重ねてきた。
「嘘つき。俺も酔いそうなんだけど?」
怒っているというよりからかっている口調。怖いくらい整っている顔は、どんな表情でもつい見惚れてしまう。
続けて、首筋にさりげなく唇を寄せられ、肩を震わせた。
「んっ」
思わず声があがってしまう。幹弥の手は私の腰回りをゆっくり撫で、ブラウスの裾を器用にスカートから出していく。
「ちょっ」
彼の意図を読み、ようやく抵抗の意を示す。しかし幹弥はあっさりと裾から手を差し入れ、私の肌に触れてきた。
「やっ、だ……め」
「今日は一段と可愛らしいから、脱がしがいがある」
楽しそうに幹弥は告げ、薄い皮膚に音を立て口づけた。場所が場所なだけに平静でいられず身をよじろうとしたら、そのまま抱え上げられた。
「わっ」
完全な不意打ちで足をばたつかせるが、すぐそばのソファに下ろされる。起き上がろうとするも幹弥に覆いかぶさられ逃げられない。ブラウスの下に着ていたキャミソールごとたくし上げられ、普段は服に隠れている肌が空気に晒される。
「や、だ。先にお風呂入る!」
「アルコールが入っているときは余計に回るから、やめておいた方がいいよ」
耳たぶに唇を寄せられ正論で返されたが、納得できるわけがない。乾いた手のひらが肌を撫で、鳥肌が立つ。彼の手を阻もうと手首をつかむがびくともせず、さらには耳の輪郭に沿って舌を這わされ、声にならない声が漏れた。
「あっ……」
「今日はこのまま全部舐めさせて」
わざと耳に息を吹きかけるようにして低く囁かれる。視界が滲んで体の奥が熱い。けれど私はなけなしの理性で首を横に振る。
「だ、め。絶対……だめ」
力強く言ったつもりが、声は想像以上に弱々しい。主張と言うより懇願だ。
「せめて……シャワーを浴びてから」
お風呂がだめならシャワーは許してほしい。一日仕事をして飲み会に参加して、そこまで暑い季節ではないが汗をかいているし汚れている。
私のお願いに対し、幹弥は私の目尻に溜まった涙を拭うようにキスを落としてきた。聞き入れてもらえたとホッとしていると幹弥が頭を上げる。
「そう可愛い顔で言われると聞いてあげたくなるけれど、今日は譲らない。恥ずかしがる優姫も込みで楽しみたいから」
不敵に笑う幹弥とは反対に私は硬直する。続けて状況を理解し、勝手に口が動いた。
「なっ……。意地悪! き、嫌い!」
まるで子どもだ。結婚する前の癖なのか、嫌いと言ってしまったことはすぐに後悔する。謝ろうとしたが幹弥はにこりと微笑んだ。
「いいね。そんな優姫が、最後は俺を欲しがって“好き”って何度も口にするんだから」
すぐに言い返そうとしたがキスで口を塞がれる。今日は絶対に好きって言わない。そう誓いながらも、結局は幹弥の思い通りになるのだからやっぱり敵わない。
目を擦ろうと腕を上げたら水面が揺れた。次の瞬間、背後から回された腕に力が込められ、できた波がバスタブの縁にあたりパシャリと音を立てる。
「眠い?」
「平気」
心配そうな声に短く答える。幹弥に翻弄されつつたっぷり愛され、アルコールも抜けたのでようやくお風呂に入る許可をもらった。
当然のように幹弥も一緒に入る流れになり、今はふたりでバスタブに浸かり、彼にうしろから抱きしめられている状態だ。
気怠さから素直に体を預けると、幹弥はうれしそうに私の肌に唇を寄せてきた。
「んっ」
「痕つけていい?」
おかしそうに尋ねられ、いつもなら即座に拒否するけれど私はちらりと彼の方に顔を向けた。
「……どうしたの?」
私の問いかけに幹弥は目を瞠った。
「なんか、幹弥……変だよ」
具体的にどこが、とまではわからないけれど確信はある。妙に意地悪とでもいうのか、焦っているとでもというのか。
私の指摘に、幹弥はしばし迷う素振りを見せ、ややあって盛大にため息をついた。抱きしめる力を強められ、さらに彼との距離が縮まる。
「敵わないな、優姫には」
苦笑混じりに幹弥は呟いた。彼は私の頭をそっと撫でる。
「優姫がどんどん綺麗になって、一部の男子学生が優姫目当てで事務室に顔を出しているって聞いて」
「だ、誰に?」
予想外の幹弥の告白に、私は慌てた。
「弘瀬先生に」
先生、また余計なことを……。
内心で悪態をつく。私たちの大学時代の恩師である弘瀬先生は 、今も大学に勤めており幹弥に外部講師を依頼した人物だ。先生の引き合わせで私たちは再会したのもあって、ふたりで結婚の挨拶に行ったときは自分ごとのように喜んでくれた。
けれど今回ばかりは、思わず恨んでしまいそうになる。
「先生が大げさなんだよ。この時期、学生さんが相談に来るのはよくあることで……」
極力明るく返す。たしかに中には熱心に通ってくる男子学生もいるが、それとこれと話は別だ。
「学生だけではなく優姫と同年代の若い男性職員も多いんだろ?」
しかし幹弥は渋い顔を崩さない。こういうとき顔が整っている人間はどんな表情をしても絵になるので少し悔しい。
「優姫はお人好しでどこまでも馬鹿正直に人のために尽くすから、勘違いする男を大量に作っていそうで……」
「ちょっと! その言い方はないでしょ」
どう考えても褒められてはいない。相変わらずの言い回しに私は唇を尖らせる。すると素早く唇を重ねられた。彼の切なそうな表情に、打って変わって私は真面目に答える。
「幹弥、心配しすぎだよ。私だってこの仕事もう五年目だよ? 距離の取り方を心得て、ちゃんと割り切ってます」
就職したての頃は、相談に来る学生一人ひとりに感情移入してなかなか大変だったのも事実だ。でも、私も成長している。
とはいえ幹弥からすると私はまだ甘いのかな?
「……私、信用ない?」
「そうじゃない。ただ、俺が嫌なんだ」
不安げに聞くと、間髪を入れない返事がある。
「見る目がなかった奴らが、今さらなにを言っているんだか。頭ではわかっていても、優姫をそういう目で見る男が近くにいるのが腹立つ」
吐き捨てる幹弥は自身の前髪を掻き上げた。その仕草ひとつとっても彼の方がよっぽど魅力的で色っぽい。
「……私、お洒落するのがどこかで怖かったし、私には似合わないとずっと思っていた」
ぽつりと自分の本音を口にすると幹弥が聞く姿勢をとった。だから、おずおずと続けていく。
「でも幹弥が私を可愛いって、似合うって背中を押してくれたから踏み出せたの」
なかなか素直に受け取れなくて、そんなわけないって否定して耳を塞いでいた。でも幹弥がそんな私と向き合って、手を引いてくれた。
「だから私が、その……もしも綺麗になったのだとしたら、それは幹弥のおかげだよ」
幹弥がいなかったら、きっと今の私はいない。
「それに……今日いつもより少しだけ格好やメイクに気合いを入れたのは、絶対に飲み会で結婚相手の話題を振られると思ったから」
幹弥を知っている人にも知らない人にも、あれこれ尋ねられるのは目に見えていた。幹弥の立場を聞いたら、正田さんのような反応も無理はないと思っている。そうだとしても――。
「結婚式もあるし、少しでも幹弥の相手として相応しくなりたくて……」
思うままに口にしてはたと気づく。完全にしゃべりすぎた。
幹弥の顔をまともに見られずにいると、顎に手をかけられ強引に口づけられる。重ねる唇は熱く、体に熱がこもっていく。
そっと解放され、頬に張り付いた髪を優しく耳にかけられた。
「まったく。随分と可愛いことを言ってくれる」
額にキスされ、完全に幹弥のペースになっているこの状況に悔しさから私は口を開く。
「だ、だいたい私より幹弥の方がモテるし、結婚しても言い寄ってくる女性、たくさんいるでしょ」
勘違いさせるのは幹弥の方だ。昔から私以外には愛想がよくて、温和で話し上手で……。彼に惹かれる女性は後を絶たない。
「心配しなくても、俺は上手くあしらう方法をわかっているし絶対に踏み込ませたりしない。基本的に優姫以外の人間はどうでもいいって思っているから」
なんでもないかのように幹弥は言ってのける。それはそれでどうなんだろう。
幹弥をうかがうと不意に目が合い、彼は口角を上げた。
「優姫は俺と違って純粋そのものだからね。あまり妬かせないでほしい、奥さん」
濡れた黒髪が肌に張り付き、なにもかもを見透かすような切れ長の瞳が私を捉える。カッコイイよりも綺麗という表現が彼には似合う。
小さく頷くと軽く唇を重ねられ、そろそろあがるように促される。たしかにもう十分に温まった。むしろ熱いくらいだ。
「のぼせた……」
「介抱しようか?」
ふかふかのバスタオルに身を包んでぽつりと漏らしたら、おかしそうに返された。ムッとして幹弥に視線を送る。ややあって私は首を縦に振った。
「うん」
私の反応にシャツを羽織っている幹弥が手を止めた。彼がなにかい言う前に早口で告げる。
「幹弥のせいだから……責任取って」
上目遣いに見ると、幹弥は優しく私を腕の中に閉じ込めた。
「わかった。たっぷり甘やかしてあげるよ」
ずっと幹弥には嫌われていると思っていた。彼が優しくするのは私以外の人間なんだって。
でも今も昔も私自身を見て、誰よりも私を大事にしてくれるのは幹弥だけだ。
彼とおそろいの指輪をしているだけでこんなにも幸せな気持ちになる。幹弥と出会って、結婚して、彼のそばにいられる嬉しさを噛みしめながら、今度は私からキスをねだった。
<終>