マカロン文庫10周年記念企画限定SS
限定SS:晴日青『クールな陸上自衛官は最愛ママと息子を離さない【守ってくれる職業男子シリーズ】』
『パパのお誕生日』
「ぼくねえ、パパのケーキとりにいくんだよ!」
わかったから、といくら私が止めても、息子の楓真は道行く通行人への報告をやめてくれない。
「パパのケーキ! とりに! いくんだよ!」
「みんなびっくりしちゃうから、お利口にしようね」
「ぼくが! とりにいく!」
「うん、取りに行こうね」
なぜ楓真がこんなに『予約したパパのケーキを取りに行く』ことに興奮しているかというと、私たちが家族になって迎える初めての〝パパの誕生日〟だからだ。
以前から伊吹には誕生日を家族三人で祝おうと伝えている。そのための誕生日パーティーを開くことだって。
もちろん楓真にもよくよく話していた。
もともと楓真は賑やかで楽しいものが大好きだ。自分の誕生日パーティーですら、はしゃぎすぎて眠れなくなるくらいなのに、今回は自分が祝う側なのである。
楓真がママの――私の誕生日をお祝いしたことはなかった。それはつまり私が自分で自分の誕生日パーティーを企画するだけになるからだ。
そういうわけで、楓真は自分がお祝いできる特別なチャンスを心から喜んでいた。
しかも相手は大好きなパパである。
それはもう朝から、どころか三日前からそわそわしていた。いや、そわそわしていた期間を考えたら十日くらいはそうだったかもしれない。
毎日、朝を迎えるたびに『今日はパパの誕生日?』と聞かれて苦笑いしていたのが懐かしく感じられる。
私たちはこれから、伊吹の誕生日パーティーのため、事前に予約してあるケーキを取りに行く。
だから楓真は人を見かけるたびに、どれだけ楽しいことが待っているか、特別な一日なのかを報告して回るのだ。
放っておくと道路を挟んで向かい側の歩道の人にまで、『今日はパパのケーキを取りに行く』と叫びかねない楓真をなだめつつ、ケーキ店まで向かう。
家からの道はおよそ十五分。ちょっとしたお散歩だ。
到着すると、楓真は当然のように店員にも挨拶をした。
「ときわふうまです! パパのケーキ、とりにきました! こんにちは!」
元気なのはいいけれど、元気すぎて笑われてしまっている。
「こんにちは。――ご予約の常盤さんですね。少々お待ちください」
「すみません、騒がしくて……」
ちょっとだけ恥ずかしい気持ちになるも、息子がここまでパパを好きになってくれたのだと思うとうれしい。
私たち三人が家族になるまで、本当にいろいろあった。こうしてあるべき形になれたのは奇跡といってもいい。
なにかが違っていたらこの未来を手に入れられていなかったのを思うと、少しの恥ずかしさくらい呑み込めるというものだ。
「はい、お待たせしました」
店員がケーキを箱に詰めて私たちに見せてくれる。
四号のホールケーキは三人で食べるのにちょうどいい大きさをしていた。
生クリームがたっぷりのショートケーキに、イチゴだけでなくキウイやブドウといった果物がのっていて目にも楽しい。
このケーキを選んだのは楓真だ。一番キラキラしてかっこいいものというのがこれだったようで、本人が好むチョコレートケーキには目もくれなかった。
自分が食べるのではなく、パパにプレゼントしたいケーキを選んでいるのだと気づいた時、幼いと思っていたこの子がいつの間にこんなに成長したのだろうと、目頭が熱くなったのは内緒だ。
「ふわああ」
自分の頬を両手で押さえた楓真が感動した様子で声をあげる。
そしてくるりと私を振り向くと、ケーキよりももっとキラキラした目で私を見つめてきた。
「ぼくがもつ!」
「ぶんぶん振っちゃだめだよ。大丈夫?」
「だいじょうぶ!」
これだけやる気になっているのに、取り上げるのは忍びない。
店員にケーキの代金を支払った後、ケーキの入った箱を紙袋に入れてもらってから楓真にそっと渡した。
「パパのケーキなんだよー」
ふふん、と胸を張った楓真が店員に自慢する。
そのケーキを作ったのは、今自慢した店員さんたちだよ――と思いながら店員のほうを見ると、微笑ましそうに温かい目を向けられた。
くすぐったい気持ちになるも、軽く頭を下げてお礼を言う。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。パパのお誕生日、いっぱいお祝いしてくださいね」
「ぼくね、ふーってしてあげる! ケーキ! ふーって!」
「楓真、わかったから手をぶんぶんしちゃだめ」
言ったばかりなのに、もう楓真は紙袋を持った手を振ろうとしている。
慌ててなだめ、ぺこぺこと頭を下げながら店を出た。
行きは行きで興奮状態の楓真を落ち着かせるのに必死だったけれど、帰りは帰りで大変だ。楓真は調子はずれの鼻歌を歌いながら、すぐ手を振って歩こうとする。
そのたびにはらはらするも、本人はどうしても自分で持ちたいようで私に渡そうとしない。せめて片方の手はしっかり繋いでおこうと、ぎゅっと握り締めた。
「楓真、落っことしたら大変だから、ママが持ってあげようか?」
「いーいーのー!」
おかげで私はずっと、楓真の手に意識を奪われることになった。
そのせいで――曲がり角をいきなり飛び出してきた自転車に気づかなかった。
「わあっ!」
ギリギリぶつかりはしなかったものの、驚いた楓真がその場に尻もちをついてしまう。
「楓真! 大丈夫!?」
手を繋いでいたおかげか大事はなかったものの、不注意な自転車はあっという間に走り去ってしまった。
転んだ楓真を立ち上がらせた時、興奮で赤くなっていた頬がさっと色をなくしたのがわかった。
「ケーキ、おとしちゃった」
はっとして見ると、すぐ近くにケーキが入った紙袋が落ちている。
思いきり横倒しになっていることから、中身を見なくてもどういう状態になっているかは容易に想像できた。
「パパのケーキ……」
楓真も事態を察してしまったのだろう。さっきまであんなにうれしそうに輝いていた目に、一気に涙が込み上げる。
「ぼく、ぼく……パパのケーキ、おとしちゃった……」
「大丈夫だよ、楓真。大丈夫」
「う……うう、ふえ……」
自分が転んだことよりも、ケーキを落としたことのほうが衝撃的だったようで、顔をくしゃくしゃにした楓真が私にしがみついてきた。
その場にしゃがんで抱き上げると、首筋に顔を埋めて声を詰まらせている。
「おたん、じょうび……パパの……」
「泣かないで。大丈夫。ちょっとくちゃくちゃになっちゃっても、パパは喜んでくれるよ」
「うう、ううう……」
何日も前から今日を楽しみにしていた分、楓真の悲しみが痛いほど伝わってきた。
大事な誕生日ケーキを自分で運びたがったのは、大好きなパパのため。
飛び出してきた自転車が悪いというのに、楓真は自分のせいで台無しにしてしまったと思っている。
母親として、私になにがしてあげられるだろう。
少なくともただ『大丈夫』と言ってなだめているだけでは楓真も納得しない。
かといって新しいケーキを用意しても、きっと楓真の気持ちは癒やされないはずだ。なぜなら楓真は自分で選んだケーキをパパにあげたかったのだから。
こんなことなら最初から予約ではなく、手作りケーキにでもしておけばよかっただろうか――と思ったところで、頭の中に電流が走った。
「楓真、ママにいい考えがあるんだけど聞いてくれる?」
「う、ぇ……?」
涙に濡れた顔を上げた楓真が私を見つめる。
「パパも一緒に、世界でひとつだけの特別なケーキを用意しよう」
私たちが帰宅すると、家で待っていた伊吹が出迎えてくれた。誕生日ケーキを取りに行ったと知っているから、今か今かと待ってくれていたのだろう。
だから、すんすんと鼻を鳴らして目をこすっている楓真を見て、彼は心底心配そうな眼差しを私に向けてきた。
「萌花、いったいなにが……?」
「いろいろとトラブルがあったの。でも心配しないでね」
なにか言いたげな伊吹が、キッチンへ向かう私たちの後をついてくる。
リビングのテーブルに買ってきた商品を置くと、彼は訝しげに眉根を寄せた。
「ケーキを買いに行ったんじゃなかったのか?」
「うん。だけど自転車が飛び出してきて……」
店で受け取った紙袋から箱を取り出し、中のケーキを見る。
一緒にのぞき込んだ伊吹がすっと目を細めた。
「ふたりにケガがなかったならそれでいい」
「ありがとう」
想像していた以上の惨劇は楓真に見せられない。やっと涙が乾いてきたのに、また泣いてしまうのはわかりきっていた。
伊吹が床に膝をついて、うつむいた楓真を抱き上げる。
楓真はなにも言わず、パパにぎゅっとしがみついて広い胸に顔を押し付けた。
「予定は変わっちゃうけど、こうなったら世界にひとつだけのケーキを作ろうと思ったの。伊吹も一緒に作ろう?」
「俺も? ……誕生日の主役なのに、ケーキ作りに関わっていいのか?」
「常盤家ではいいってことにしよう」
テーブルに並べた材料は、ただのスポンジケーキや生クリーム、そしてフレッシュフルーツだ。一応、缶詰の桃やみかんも買ってある。
ひと通りの用意を済ませ、パパにしがみついたままの楓真に声をかけた。
「楓真、準備ができたよ。パパと一緒に、お皿の上にスポンジをちぎれるかな?」
「うん……できる……」
すっかりしおれているものの、楓真は伊吹に下ろしてもらってお皿と向き合った。
そして私がやったのを真似してスポンジケーキをちぎっていく。
「ちぎるのか。てっきりこのままケーキにするものかと」
「伊吹も。はい、どうぞ」
「あ、ああ」
スポンジケーキの塊を渡された伊吹が戸惑ったように、私たちと同じことをする。
ひと口サイズにちぎったケーキは、あっという間に山となってお皿に積みあがった。
「じゃあ次は、楓真とパパで飾り付けをしてくれる?」
ここまでくると伊吹も私の意図を察したようで、こくりとうなずいてくれた。
楓真もちぎっているうちに気持ちが前向きになってきたのか、生クリームの入った袋を伊吹に押し付ける。
「ぼくがイチゴおくから、パパはクリームして!」
「よし、すごくきれいに作るからな」
「えー、パパにできるのぉ?」
「楓真はどうなんだ? 上手にイチゴを置けるのか?」
「できまぁす!」
あっという間に元気になった楓真が、伊吹が絞り出したクリームにフルーツをのせていく。
おもしろみのないスポンジケーキは、みるみるうちにクリームとフルーツがたっぷりのった世界でひとつだけの特別なケーキになった。
「みて! ぼくがつくったケーキ! パパのだよ!」
「こんなにおいしそうなケーキを見たのは初めてだ。ありがとう、楓真」
「ママもいっぱいケーキちぎったもんねえ」
「そうだね。でもやっぱり楓真が一番頑張ったんじゃない?」
「へへへ」
ケーキの準備が完了したら、後はお祝いをするだけだ。
用意してあったオードブルや飲み物をテーブルに運び、取り皿とフォークを用意して、改めてご馳走の前に三人で並ぶ。
ぱちん、と音を立てて手を合わせた楓真が、伊吹に向かって笑いかけた。
「パパ! おたんじょうび、おめでと!」
「おめでとう、伊吹。これからも無理しないで頑張ってね」
楓真と一緒になってお祝いの言葉を伝えると、伊吹は目を丸くした後に自分の口もとを手で覆った。
その顔を見て驚いてしまう。
あの伊吹が、目を潤ませていた。
「人生で一番うれしい誕生日だ。ふたりとも、本当にありがとう」
乾杯の前に、伊吹が私と楓真を腕の中に包み込む。
彼の大きな体格の前では、私たちふたりを一緒に抱きしめるなんて簡単だったようだ。
「パパ、ケーキたべよ! ぼくがつくったんだよ!」
「ああ、知ってる。一緒に作ったもんな」
笑顔がいっぱいの幸せな誕生日パーティーが始まる。
来年も再来年も、これから先ずっと、家族みんなでお祝いできるこのひと時を大切にしたいと願ったのは――きっと私だけじゃなかった。
<終>
「ぼくねえ、パパのケーキとりにいくんだよ!」
わかったから、といくら私が止めても、息子の楓真は道行く通行人への報告をやめてくれない。
「パパのケーキ! とりに! いくんだよ!」
「みんなびっくりしちゃうから、お利口にしようね」
「ぼくが! とりにいく!」
「うん、取りに行こうね」
なぜ楓真がこんなに『予約したパパのケーキを取りに行く』ことに興奮しているかというと、私たちが家族になって迎える初めての〝パパの誕生日〟だからだ。
以前から伊吹には誕生日を家族三人で祝おうと伝えている。そのための誕生日パーティーを開くことだって。
もちろん楓真にもよくよく話していた。
もともと楓真は賑やかで楽しいものが大好きだ。自分の誕生日パーティーですら、はしゃぎすぎて眠れなくなるくらいなのに、今回は自分が祝う側なのである。
楓真がママの――私の誕生日をお祝いしたことはなかった。それはつまり私が自分で自分の誕生日パーティーを企画するだけになるからだ。
そういうわけで、楓真は自分がお祝いできる特別なチャンスを心から喜んでいた。
しかも相手は大好きなパパである。
それはもう朝から、どころか三日前からそわそわしていた。いや、そわそわしていた期間を考えたら十日くらいはそうだったかもしれない。
毎日、朝を迎えるたびに『今日はパパの誕生日?』と聞かれて苦笑いしていたのが懐かしく感じられる。
私たちはこれから、伊吹の誕生日パーティーのため、事前に予約してあるケーキを取りに行く。
だから楓真は人を見かけるたびに、どれだけ楽しいことが待っているか、特別な一日なのかを報告して回るのだ。
放っておくと道路を挟んで向かい側の歩道の人にまで、『今日はパパのケーキを取りに行く』と叫びかねない楓真をなだめつつ、ケーキ店まで向かう。
家からの道はおよそ十五分。ちょっとしたお散歩だ。
到着すると、楓真は当然のように店員にも挨拶をした。
「ときわふうまです! パパのケーキ、とりにきました! こんにちは!」
元気なのはいいけれど、元気すぎて笑われてしまっている。
「こんにちは。――ご予約の常盤さんですね。少々お待ちください」
「すみません、騒がしくて……」
ちょっとだけ恥ずかしい気持ちになるも、息子がここまでパパを好きになってくれたのだと思うとうれしい。
私たち三人が家族になるまで、本当にいろいろあった。こうしてあるべき形になれたのは奇跡といってもいい。
なにかが違っていたらこの未来を手に入れられていなかったのを思うと、少しの恥ずかしさくらい呑み込めるというものだ。
「はい、お待たせしました」
店員がケーキを箱に詰めて私たちに見せてくれる。
四号のホールケーキは三人で食べるのにちょうどいい大きさをしていた。
生クリームがたっぷりのショートケーキに、イチゴだけでなくキウイやブドウといった果物がのっていて目にも楽しい。
このケーキを選んだのは楓真だ。一番キラキラしてかっこいいものというのがこれだったようで、本人が好むチョコレートケーキには目もくれなかった。
自分が食べるのではなく、パパにプレゼントしたいケーキを選んでいるのだと気づいた時、幼いと思っていたこの子がいつの間にこんなに成長したのだろうと、目頭が熱くなったのは内緒だ。
「ふわああ」
自分の頬を両手で押さえた楓真が感動した様子で声をあげる。
そしてくるりと私を振り向くと、ケーキよりももっとキラキラした目で私を見つめてきた。
「ぼくがもつ!」
「ぶんぶん振っちゃだめだよ。大丈夫?」
「だいじょうぶ!」
これだけやる気になっているのに、取り上げるのは忍びない。
店員にケーキの代金を支払った後、ケーキの入った箱を紙袋に入れてもらってから楓真にそっと渡した。
「パパのケーキなんだよー」
ふふん、と胸を張った楓真が店員に自慢する。
そのケーキを作ったのは、今自慢した店員さんたちだよ――と思いながら店員のほうを見ると、微笑ましそうに温かい目を向けられた。
くすぐったい気持ちになるも、軽く頭を下げてお礼を言う。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。パパのお誕生日、いっぱいお祝いしてくださいね」
「ぼくね、ふーってしてあげる! ケーキ! ふーって!」
「楓真、わかったから手をぶんぶんしちゃだめ」
言ったばかりなのに、もう楓真は紙袋を持った手を振ろうとしている。
慌ててなだめ、ぺこぺこと頭を下げながら店を出た。
行きは行きで興奮状態の楓真を落ち着かせるのに必死だったけれど、帰りは帰りで大変だ。楓真は調子はずれの鼻歌を歌いながら、すぐ手を振って歩こうとする。
そのたびにはらはらするも、本人はどうしても自分で持ちたいようで私に渡そうとしない。せめて片方の手はしっかり繋いでおこうと、ぎゅっと握り締めた。
「楓真、落っことしたら大変だから、ママが持ってあげようか?」
「いーいーのー!」
おかげで私はずっと、楓真の手に意識を奪われることになった。
そのせいで――曲がり角をいきなり飛び出してきた自転車に気づかなかった。
「わあっ!」
ギリギリぶつかりはしなかったものの、驚いた楓真がその場に尻もちをついてしまう。
「楓真! 大丈夫!?」
手を繋いでいたおかげか大事はなかったものの、不注意な自転車はあっという間に走り去ってしまった。
転んだ楓真を立ち上がらせた時、興奮で赤くなっていた頬がさっと色をなくしたのがわかった。
「ケーキ、おとしちゃった」
はっとして見ると、すぐ近くにケーキが入った紙袋が落ちている。
思いきり横倒しになっていることから、中身を見なくてもどういう状態になっているかは容易に想像できた。
「パパのケーキ……」
楓真も事態を察してしまったのだろう。さっきまであんなにうれしそうに輝いていた目に、一気に涙が込み上げる。
「ぼく、ぼく……パパのケーキ、おとしちゃった……」
「大丈夫だよ、楓真。大丈夫」
「う……うう、ふえ……」
自分が転んだことよりも、ケーキを落としたことのほうが衝撃的だったようで、顔をくしゃくしゃにした楓真が私にしがみついてきた。
その場にしゃがんで抱き上げると、首筋に顔を埋めて声を詰まらせている。
「おたん、じょうび……パパの……」
「泣かないで。大丈夫。ちょっとくちゃくちゃになっちゃっても、パパは喜んでくれるよ」
「うう、ううう……」
何日も前から今日を楽しみにしていた分、楓真の悲しみが痛いほど伝わってきた。
大事な誕生日ケーキを自分で運びたがったのは、大好きなパパのため。
飛び出してきた自転車が悪いというのに、楓真は自分のせいで台無しにしてしまったと思っている。
母親として、私になにがしてあげられるだろう。
少なくともただ『大丈夫』と言ってなだめているだけでは楓真も納得しない。
かといって新しいケーキを用意しても、きっと楓真の気持ちは癒やされないはずだ。なぜなら楓真は自分で選んだケーキをパパにあげたかったのだから。
こんなことなら最初から予約ではなく、手作りケーキにでもしておけばよかっただろうか――と思ったところで、頭の中に電流が走った。
「楓真、ママにいい考えがあるんだけど聞いてくれる?」
「う、ぇ……?」
涙に濡れた顔を上げた楓真が私を見つめる。
「パパも一緒に、世界でひとつだけの特別なケーキを用意しよう」
私たちが帰宅すると、家で待っていた伊吹が出迎えてくれた。誕生日ケーキを取りに行ったと知っているから、今か今かと待ってくれていたのだろう。
だから、すんすんと鼻を鳴らして目をこすっている楓真を見て、彼は心底心配そうな眼差しを私に向けてきた。
「萌花、いったいなにが……?」
「いろいろとトラブルがあったの。でも心配しないでね」
なにか言いたげな伊吹が、キッチンへ向かう私たちの後をついてくる。
リビングのテーブルに買ってきた商品を置くと、彼は訝しげに眉根を寄せた。
「ケーキを買いに行ったんじゃなかったのか?」
「うん。だけど自転車が飛び出してきて……」
店で受け取った紙袋から箱を取り出し、中のケーキを見る。
一緒にのぞき込んだ伊吹がすっと目を細めた。
「ふたりにケガがなかったならそれでいい」
「ありがとう」
想像していた以上の惨劇は楓真に見せられない。やっと涙が乾いてきたのに、また泣いてしまうのはわかりきっていた。
伊吹が床に膝をついて、うつむいた楓真を抱き上げる。
楓真はなにも言わず、パパにぎゅっとしがみついて広い胸に顔を押し付けた。
「予定は変わっちゃうけど、こうなったら世界にひとつだけのケーキを作ろうと思ったの。伊吹も一緒に作ろう?」
「俺も? ……誕生日の主役なのに、ケーキ作りに関わっていいのか?」
「常盤家ではいいってことにしよう」
テーブルに並べた材料は、ただのスポンジケーキや生クリーム、そしてフレッシュフルーツだ。一応、缶詰の桃やみかんも買ってある。
ひと通りの用意を済ませ、パパにしがみついたままの楓真に声をかけた。
「楓真、準備ができたよ。パパと一緒に、お皿の上にスポンジをちぎれるかな?」
「うん……できる……」
すっかりしおれているものの、楓真は伊吹に下ろしてもらってお皿と向き合った。
そして私がやったのを真似してスポンジケーキをちぎっていく。
「ちぎるのか。てっきりこのままケーキにするものかと」
「伊吹も。はい、どうぞ」
「あ、ああ」
スポンジケーキの塊を渡された伊吹が戸惑ったように、私たちと同じことをする。
ひと口サイズにちぎったケーキは、あっという間に山となってお皿に積みあがった。
「じゃあ次は、楓真とパパで飾り付けをしてくれる?」
ここまでくると伊吹も私の意図を察したようで、こくりとうなずいてくれた。
楓真もちぎっているうちに気持ちが前向きになってきたのか、生クリームの入った袋を伊吹に押し付ける。
「ぼくがイチゴおくから、パパはクリームして!」
「よし、すごくきれいに作るからな」
「えー、パパにできるのぉ?」
「楓真はどうなんだ? 上手にイチゴを置けるのか?」
「できまぁす!」
あっという間に元気になった楓真が、伊吹が絞り出したクリームにフルーツをのせていく。
おもしろみのないスポンジケーキは、みるみるうちにクリームとフルーツがたっぷりのった世界でひとつだけの特別なケーキになった。
「みて! ぼくがつくったケーキ! パパのだよ!」
「こんなにおいしそうなケーキを見たのは初めてだ。ありがとう、楓真」
「ママもいっぱいケーキちぎったもんねえ」
「そうだね。でもやっぱり楓真が一番頑張ったんじゃない?」
「へへへ」
ケーキの準備が完了したら、後はお祝いをするだけだ。
用意してあったオードブルや飲み物をテーブルに運び、取り皿とフォークを用意して、改めてご馳走の前に三人で並ぶ。
ぱちん、と音を立てて手を合わせた楓真が、伊吹に向かって笑いかけた。
「パパ! おたんじょうび、おめでと!」
「おめでとう、伊吹。これからも無理しないで頑張ってね」
楓真と一緒になってお祝いの言葉を伝えると、伊吹は目を丸くした後に自分の口もとを手で覆った。
その顔を見て驚いてしまう。
あの伊吹が、目を潤ませていた。
「人生で一番うれしい誕生日だ。ふたりとも、本当にありがとう」
乾杯の前に、伊吹が私と楓真を腕の中に包み込む。
彼の大きな体格の前では、私たちふたりを一緒に抱きしめるなんて簡単だったようだ。
「パパ、ケーキたべよ! ぼくがつくったんだよ!」
「ああ、知ってる。一緒に作ったもんな」
笑顔がいっぱいの幸せな誕生日パーティーが始まる。
来年も再来年も、これから先ずっと、家族みんなでお祝いできるこのひと時を大切にしたいと願ったのは――きっと私だけじゃなかった。
<終>