マカロン文庫10周年記念企画限定SS

限定SS:汐埼ゆたか『ひとりでママになると決めたのに、一途な外交官の極上愛には敵わない』

『「十年後も二十年後もその先も、ずっと俺の隣で笑っていてほしい」side櫂人』

 再会からちょうど一年となるその日、さやかが二人目の子を出産した。
 一人目のときが緊急帝王切開だったことから、今回はあらかじめ帝王切開だと決めていた。
 医師の説明をよく聞いて納得していたつもりだったが、頭でわかっていても心は別のようだ。
 麻酔をして体にメスを入れる。それだけで万が一の可能性が発生する。手術中のランプが点灯している間中、気が気ではなかった。
 俺は両手を固く握りしめながら、彼女と子どもの無事を天に祈った。
 手術室から産声が聞こえ、看護師から母子ともに無事だという報告をもらった後、俺は長椅子に腰を落としてようやく深い息をつくことができた。
 それから七日後の今日。無事、母子共に退院の日を迎えた。

「ままー、おかえぃなしゃい!」
 自宅マンションの玄関ドアを開けた瞬間、部屋の奥から飛び出してきた拓翔に、さやかがほころぶような笑顔を浮かべる。
「ただいま、拓翔。お留守番ありがとう。おじいちゃんも、わざわざ来てもらってごめんね」
 拓翔に続いてやってきたおじいさんに、さやかが申し訳なさそうに眉を下げた。
 退院手続きや荷物運びがあるため、俺がひとりでさやかを迎えに行き、その間拓翔はおじいさんに見てもらっていたのだ。
「なに、わしがたっくんと遊びたかっただけだ。久々のひ孫とじーじの水入らずを大いに満喫したわい。なあ、たっくん」
「あい! おーににまんきちゅー!」
 片手を上げてにこにこ顔の拓翔に、さやかもたちまち笑顔になる。
「よかったね、拓翔。ありがとう、おじいちゃん」
「まあ、櫂人くんともなかなか有意義な時間を持てたしな」
「その節は色々とありがとうございました」
 軽く頭を下げた俺の横で、さやかが首をかしげる。なんのことかと思っているのだろう。あえて気付かないふりをし、『いつまでも玄関ではなんなので』と皆でリビングへ移動した。
 三人掛けのソファーに拓翔を挟んでさやかと座り、ローテーブルを挟んだひとり掛けにおじいさんが座った。
「あかちゃん、いらっしゃぁい!」
 さやかの腕の中を拓翔が隣からのぞき込む。生後七日と二歳十一カ月。こうして並んでみると、改めて拓翔がとても大きくなったと感じる。
「拓翔、赤ちゃんは咲帆(さほ)って名前になったんだ」
「さほちゃん?」
「そう。妹の名前は咲帆だ」
 拓翔はじっと俺を見た後、さやかの腕の中に視線を戻した。
「さーちゃん、おにいちゃんだよお! よろしくねー」
 拓翔が人差し指でそっと咲帆の手に触れる。その指を咲帆が握った。
「あっ! さーちゃん、あくしゅした!」
 拓翔の目がまん丸になる。
「きっと、おにいちゃんよろしくねって言っているのよ」
 ほおを紅潮させ瞳を輝かせた拓翔に、さやかが優しく微笑みかけた。
 そこからしばらくの間、妹を見ながら楽しげにおしゃべりをしていた拓翔だったが、気づいたら静かになっていた。座ったままうとうとと舟をこいでいる。
 今日はお昼寝をまだしていない。午前中からおじいさんが来てくれたこともあり、始終上機嫌だった。遊び疲れたのだろう。
「拓翔、パパとお昼寝に行こうか」
 抱っこしようと手を伸ばしたら、サッとさやかの脇にしがみついた。拒否するようにさやかの服に顔をうずめ、いやいやと首を振る。
「拓翔……」
 これまでこんなふうに拒否されたことはない。俺が手を伸ばしたらいつでも喜んで来てくれていたのに、いったいどうしたんだ。
 出会ったばかりのときに人見知りをされたことを思い出し、自分でも驚くほどショックを受けていた。さやかも戸惑っている様子だ。
「どれ。そろそろじーじの番かね」
 おじいさんがおもむろにソファーから腰を上げた。ローテーブルを回ってこちらにやってくる。
「さやか、わしに咲帆を抱っこさせてくれんか?」
 おじいさんはきっと、俺達三人の邪魔をしないようにひ孫を抱くタイミングをじっと待っていてくれたのだろう。せっかく来てくれたのに気を使わせてしまって申し訳ない。
「もちろんよ、おじいちゃん」
 さやかがうなずくと、おじいさんはあぶなげない手つきで咲帆を受け取る。さすが拓翔を新生児のころから世話をしていただけある。
 おじいさんは、さやかの脇に顔をつけている拓翔の頭をひと撫でしてから、咲帆を抱いて元の席へと戻っていった。
「ままぁ……」
 遠慮がちな声が聞こえてきて横を向くと、拓翔がもぞもぞとさやかの膝に乗ろうとしていた。コアラの赤ちゃんのように彼女の両脇に手を回してしがみつく。
 ハッとした。拓翔はさやかに甘えたいのをがまんしていたのだ。
 よく考えてみればわかることだ。生まれたときからずっと一緒にいた母親と一週間以上離れていたのだ。入院していた総合病院の規定で、幼児は産科病棟には入れない。病棟外の談話室で数分顔を合わせるのがせいぜいだった。
「拓翔……」
 瞳を潤ませたさやかは、たまらないとばかりに拓翔をギュッと強く抱きしめる。
「いい子に待っていてくれてありがとう。今日からママは拓翔とずっと一緒よ」
 さやかが優しく髪を撫でながら背中をトントンと叩いているうちに、拓翔はスーッと眠りに落ちていった。
 生まれたばかりの妹はかわいいが、拓翔もまだ母親に甘えたい年頃だ。
 実際、さやかが入院した日の夜、拓翔はめずらしくママがいないと泣いた。
 俺が父親だと打ち明けて以降、三人でいるときには大抵俺に甘えてくれていたので、さやかの入院中もなんとかなるだろうと高をくくっていた。
 泣いたのはその夜だけで、翌朝にはケロッとしていたのでほっとしたが、本当は寂しさをずっとがまんしていたのだろう。ちいさな胸を痛めながらも健気に耐えていた拓翔に、胸が熱くなった。
 さやかの服を固く握ったまま眠っている拓翔を見ながら、息子のやさしさに無自覚に甘えてしまわないよう気をつけなければと心に刻む。
 さやかはしばらくそのまま拓翔を抱いていたが、長時間だとさすがに体に負担がかかってしまう。深い眠りにつくタイミングを見計らい、俺は「ベッドに寝かせてこよう」と拓翔を抱き上げた。

 拓翔を寝室に寝かせてリビングへ戻ると、おじいさんがそろそろ帰ると言う。
 車で送ると申し出るも、あっさり断られた。天気もいいので花見がてら歩くそうだ。医者から健康のために散歩を勧められたらしい。
 さやかとふたり、おじいさんにお礼を言って玄関で見送った。
 ふたりになった俺たちの足は、自然とベビーベッドへ向かった。さやかとふたりで中をのぞき込む。咲帆は眠っていた。
「咲帆はいい子だな」
 初めて病院から外へ出て車にも揺られたのだ。たくさんの刺激に疲れたのかもしれない。なんにせよ、こんなに手がかからずに寝てくれるなんて、親孝行すぎる。
 寝顔を見ながらしみじみとこぼした俺に、さやかがふふっと笑う。
「本領発揮はこれからかもしれませんよ?」
 だんだん体力がついてきて、昼夜問わずよく泣くようになるかもしれないと、さやかが言う。
「望むところだ」
 やる気に満ち溢れた答えを返すと、さやかが俺のほうを見た。
「本当によかったんですか?」
 じっと伺うように見つめられ、彼女が何を言いたいのかすぐに理解した。
「もちろんだ。俺の気持ちは変わらないよ。俺自身が心から望んで決めたことだ」
 出産前に話し合ったのと同じ言葉をくり返す。
 彼女は、俺が三か月間の育児休業を取ることを気にしているのだ。
 俺が日ごろどれだけ仕事に真剣に向き合っているのか知っているからこそだろうが、彼女が気に病む必要なんてどこにもない。
 政府は今、男性国家公務員の育児休業取得を推進している。
 男性職員の育休取得率が九十パーセントを上回る省庁もある中で、外務省は残念ながら五十パーセントにも満たない。限られた人員しかいない在外公館勤務や、業務内容に専門性や緊急性などの高い案件が多いことから、やむを得ない面はある。
 しかしながら、今の俺は本省勤めだ。同部署の同僚達は選りすぐりの精鋭ばかりで、安心して留守を任せられる。
 日本の少子化を食い止めるためにも、まずは国に従事する我々が変わっていかなければならない。室長の俺が率先して育児休業を取得することで、後進につながってほしいという思いもある。
 ――というのは半分建前で、一番の理由は、俺自身が生まれた子の育児をみっちりとやりたかったからだ。俺は他でもない自分のために育児休業を取得したのだ。
 咲帆は俺とさやかにとって最後の子となる。妊娠中、ふたりで話し合ってそう決めた。
 もしまた妊娠すれば、今回同様帝王切開となるだろう。産科医には三人目も問題ないと言われたが、これ以上さやかの体に負担をかけたくない。俺が代わってやれるなら何人でもと言いたいところだけれど、それは不可能だ。
 ということは、俺が育児に一から関われるのはこれが最初で最後になる。
 拓翔のときには何もできなかった分、今度こそは生まれた子と、兄になった拓翔、何より、命がけで俺の子を産んでくれたさやかのために、俺ができることすべてやりたい。
 誰に何を言われても決して変えるつもりはない。揺るぎない決意をもって育児休業期間へ入った。
 ベッドですやすやと眠る咲帆は、まるで天使のようだ。
 ふわりと柔らかな黒髪が形のよい額にかかり、ちいさいながらも筋の通った鼻と、サクランボのような唇。くっきりとした二重まぶたに隠されているつぶらな瞳は、まるで黒曜石のようにうつくしい。
「こんなにかわいくて愛おしい存在をそばでずっと見ていられるんだ。これ以上の幸せはないよ」
 掛け値なしの本音だ。
 もうすでに俺は自分の選択が正しかったと確信している。
「さあ、さやかも今のうちに休んでおいで。咲帆のことは俺が見ているから」
 ちょうど拓翔も昼寝をしているので、取れるときに休息を取るのがいい。そう思って昼寝をうながしたが、さやかは首を左右に振る。
「今のうちに夕飯の下ごしらえを……」
「それなら大丈夫。家事は俺に任せて。きみはしっかり休まないと。無理をするとあとあと体に支障が出るかもしれないだろう?」
「でも――」
 なお食い下がる彼女に、後で驚かせようと思っていたことを口にすることにした。
「実は、今日の夕飯はもう準備してあるんだ」
「え⁉」
「ここ何日か、おじいさんに料理を教わっていてね」
 長年料理人としてやってきたおじいさんに、厚かましいことは重々承知で料理指南をお願いした。おじいさんはさやかや拓翔のためだとふたつ返事で引き受けてくれ、初心者でも簡単に作れるものをいくつか教えてくれた。
 今日はおじいさんが店で作った常備菜も数品持って来てくれたため、数日間はそれでしのげるだろう。その間に教わった他の料理も試してみようと思う。
 本当なら秘密のレッスンのことは、夕飯を完璧に仕上げてから打ち明けたかったが、さやかをきちんと休ませるほうが大事だ。
「今晩の分は午前中に教えてもらいながら作ったから、あとは焼くだけでいい」
「櫂人さん……」
 さやかが感動したように瞳を潤ませる。
「あ、でもあまり期待はしないで。仕上げで大失敗という可能性もある」
 おどけたように肩をすくませながら言うと、さやかは一瞬目を丸くした後、くすっと笑った。
「櫂人さんならきっと大丈夫。大成功間違いなしです」
「どうだろう。でもさやかにそう言われると、なんだか自信が湧いてくるよ」
 きっと大失敗したとしても、彼女ならよろこんで食べてくれるのだろう。だからといって、『失敗してもいい』と言うのではなく『成功すると信じている』と勇気づけてくれる。
 思えば俺は、出会ったときからずっと彼女のそんなやさしさに救われ続けている。
「櫂人さん?」
 俺があまりにもじっと見つめすぎたせいで、さやかが不思議そうに首をかしげた。
「ちょっと最初のときを思い出してた」
「最初って……」
「きみと出会ったときのこと」
「な……っ、あれは忘れてくださいって」
「忘れられるもんか。大事な思い出のひとつだ」

 さやかに出会ったのは、在外公館勤務から本省へと戻ってきた俺が、フランス語を忘れないようにと通いはじめた語学教室だった。
 レッスン開始より早く着いたので、コーヒーでも飲もうと自販機に行ったが、うっかり手が滑って小銭をばらまいてしまった。
 こんな失敗今までしたことないのになと思いながら小銭を拾う。
『あの、これを』
 床ばかり見ていた視界に白い手がみえた。細い指の先には百円玉がある。
『ありがとうござ――』
 顔を上げた瞬間、目を奪われた。艶やかな黒髪に、あどけなさの残る顔。黒目がちな瞳が印象的なかわいらしい女性だ。
 一瞬生徒かと思ったが、語学教室の制服を着ていることからここのスタッフだとわかる。
 見惚れたことを悟られないよう笑顔を浮かべ、お礼を言って百円玉を受け取った瞬間、その手をギュッと握られた。
『……っ』
 目を見開いた俺を彼女がじっと見てくる。
 こんなふうに初対面の女性に、挨拶以外で突然手を握られたことはない。楚々として可憐な雰囲気とのギャップに内心では驚いていたが、おくびにも出さず口を開く。
『あの、手を――』
『大丈夫ですか?』
『え?』
 心配そうに顔をのぞき込まれて目をしばたたいた。
『すごく熱いです……熱があるのではないでしょうか?』
 指摘されてハッとした。そういえば今日は午後からやけに体がだるかった。
 帰国してから毎日のようにあいさつ回りや新しい部署の業務に駆けずり回っていた。帰宅も遅く、食事も睡眠も十分にとれているとはいいがたい。
 疲れが溜まっていることはわかっていたが、領事館勤務時に比べればたいしたことない。栄養ドリンクを飲めばなんとかなるだろう。そんなふうに高をくくっていた。
『顔色もよくありません。今日は無理をされずに帰られたほうが……』
 様子を伺いつつ帰宅を勧めてくる彼女の顔は本当に心配そうで、社交辞令でないと物語っていた。
 おとなしく彼女に従って帰宅した後、熱を測ると三十八度を超えていた。
 次の週、すっかり体調がよくなった俺が、あのときのお礼にと彼女に缶コーヒーをおごると、彼女はなぜかスープジャーを渡してきた。遅番中の夕飯にするつもりで作ってきたそうだ。
 さすがに人の夕飯を奪うわけにはいかないと固辞したが、彼女は頑として譲らず、受け取った。
 帰宅して口にしたスープは根菜たっぷり入った鶏団子スープで、体の内側から温まると同時に、心までほぐれて疲れが一気に飛ぶようだった。
 スープのお礼にとランチに誘い、そのお礼に彼女がお弁当を作ってくれ、そのお礼に――とデートを重ねた。
 お礼なんてただの口実で、ただ彼女と一緒にいたかったのだ。
 バレンタインの日に俺から告白をし、彼女が恋人になってくれたときは、海外の要人との会談がまとまったくらい――いや、それ以上の喜びだった。

「この手があれば俺はなんだってがんばれるさ」
 彼女の手を取り、甲に口づけを落とす。
「咲帆を産んでくれてありがとう、さやか」
「櫂人さん……」
 さやかの声が潤んでいる。
「さやかには十年後も二十年後もその先も、ずっと俺の隣で笑っていてほしい。だから今は、俺のためにもしっかり休んでくれないか?」
 腰に手を添えて顔をのぞき込むと、さやかが視線をさまよわせた。 「さやか?」
 さっきとは逆で、今度は俺が首をかしげる番だ。すると彼女は俺の胸にコツンと額を当てた。
「休憩……ここでもいいですか?」
「え?」
「入院中、ひとりだと変な感じで……。いつの間にか櫂人さんと眠ることが当たり前になっていたことに気づいて、少し……」
 「寂かったんです」とくぐもった声が聞こえた瞬間、こらえきれず彼女をギュッと抱きしめた。
「少し?」
 耳元でささやくと、彼女の方がピクリと跳ねた。彼女の背中に回した腕に力を込める。
「俺はさやかがいなくて〝すごく〟寂しかったな」
 『あと何日で帰ってくる』と退院日を指折り数えて待っていたのは、なにも拓翔だけではない。家に帰ってもさやかの存在がなく、胸の中に隙間風が吹くような心地とはこのことかと思った。
 彼女が俺の腰の辺りをキュッと握りしめてくる。
「私も……本当は、すごく……です」
 俺の胸に顔をうずめたまま恥ずかしそうに言う。
 かわいい。かわいすぎる。
 込み上げる想いが口から飛び出しそうになるのをどうにかこらえたが、それ以外はがまんできそうにない。
「もう少しいい夫でいようと思ったのだけど」
「え?」
 キョトンとした顔のさやかを抱きあげた。
「きゃっ」
 驚いてしがみついてきた彼女をソファーへと運ぶ。
「奥さんのリクエストに応えて、しばらくここでこうしていようかな」
 座面の広いタイプなので、くっついていればふたりで寝るのも難しくない。胸に抱いたまま横になり、トントンと、子どもを寝かしつけるのと同じリズムで彼女の背中を叩く。しばらくじっとしていたさやかが、腕の中からおずおずと顔を上げた。
「なんだかみんなで櫂人さんに甘えてばかりで……櫂人さんはつらくなったりしませんか?」
「全然。甘えてもらえるほうがうれしいし、それに――」
「それに?」
「さやかが甘えてくれると癒される」
「癒され……ます?」
「ああ」
 そんなことで?とさやかの顔に書いてある。全然納得いっていない様子だ。
「じゃあせっかくだし、もっと癒してもらおうかな」
 笑顔を向けると、さやかが目をしばたたいた。
「ええっと、どうしたら――」
「こうやって」
 言い終わるより早く、さやかの唇に自分のものを重ねた。みるみる彼女の両目が見開かれる。
 ほどよい厚みの唇は柔らかで、何度触れ合っても飽きそうにない。それどころか触れれば触れるほど足りなくなって、さらに貪欲に求めてしまう。
「んふっ」
 鼻から抜けるような甘い吐息に煽られ、軽く開いた隙間から舌を忍び込ませる。
「ん……っ」
 くぐもった声が抗議のようにも取れるが、気づかないふりをして舌を絡ませると、ちいさな肩がピクリと跳ねた。
 うぶな反応がかわいくてたまらない。
 この先の濃密な触れ合いのときの彼女の姿が思い起こされ、軽くに留めておこうと思っているのになかなかやめられない。
 ゆるゆると舌を動かしながら彼女の口腔を愛撫する。片手で腰の辺りを撫でながらねっとりと口蓋を舐めあげると、あえかな吐息が聞こえた。
 口腔だけでなく、白くて柔らかな肌にも舌を這わせたくなる。
 これ以上はまずい。いよいよ止まれなくなりそうだ。
 産後の体を回復させるための重要な期間なので、これ以上進もうだなんてゆめゆめ思わないが、その三歩……いや、十歩手前くらいなら――と不埒な考えがよぎる。
 何が目的だったのか思い出せ。
 そう自分に言い聞かせながら唇を放した。
「ありがとう、すごく癒された」
 余裕の皮を被って微笑んでから、蕩けきった瞳でぼうっとしている彼女のまぶたに軽く口づける。
「おやすみ、さやか」
 静かな手つきで髪を撫でていると、ほどなくしてちいさな寝息が聞こえてきた。
 無事に帰ってきてくれて本当によかった。
 腕の中の温もりをしみじみ味わっていると、「ふえぇ」と頼りない泣き声が聞こえてきた。咲帆が目を覚ましたようだ。
 さやかが起きないかドキドキしながらそっと腕を外し、静かに起き上がった。
 キッチンで作ったミルクを手に、咲帆を抱いてひとり掛けソファーに腰を下ろす。ここならさやかの寝顔を見ながら咲帆にミルクもあげられる。
 咲帆が小さな口で懸命にミルクを飲む姿がただただかわいくて、どれだけ見ていても飽きそうにない。
 それにしてもちいさな手だな。
 この手が大きくなって自分で夢をつかむようになる頃、世界はいったいどうなっているのだろう。
 目まぐるしく変化する世界情勢の中、常に何十手先のことまで考えて外交に臨まなければならない。細い糸をたぐり、先の見えない綱の上を渡るような交渉が続くこともある。
 けれどそれもすべてこの国を――子どもたちの未来を守るためだ。
 これまでも自分の職務にやりがいと誇りをもって当たっていたが、以前にも増して尽力しなければという思いは強くなった。
 三ヶ月の育児休業が明ければ、寝顔しか見られない日が続くこともあるだろう。だからこそ今は――今だけは、家族のために自分のすべてを注ぎたい。
 桜貝の欠片のような爪がさやかのものとよく似ている。愛おしくなってそっと撫でた瞬間、モミジの若葉のような手が俺の指をキュッと握った。
「……っ」
 予期せぬ力強さに胸を打たれ、突如として胸から込み上げた熱い塊に思わずうなった。
 固く目を閉じて眉間に力を込め、まぶたの熱をやり過ごす。
 生まれたばかりの我が子を初めて胸に抱いたときの、言葉にならないほどの感動は、きっと一生忘れないだろう。頬を滑る涙の感触までもが、鮮やかに記憶に刻まれている。
「生まれてきてくれてありがとう、咲帆」
 俺の指を握るちいさなちいさな手の甲に、そっと唇を押し当てた。

 <終>
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