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そのとき
 そのとき、起こったことを私は信じられなかった。
 いつものように目覚まし時計の音で起きて、研究所に出勤する朝。アルトがいないことにしんみりとなっていたら、研究室の端末宛てに動画メッセージがとどいていて、すこし浮上したりして。そうして、ニュータイプAI研究室での、いつもの日がはじまろうとしていた。
 そこへ北斗さんが駆け込んできた。緊急のアラートが鳴り響き、研究所全体がざわざわしていて、落ち着きをなくしている。
 北斗さんにうながされて外を見てみると、空が真っ暗になっていた。すべての光を飲み込もうとしているかのような、おそろしいほどの暗黒の空がひろがっていた。世界中の海面上昇、人工衛星の壊滅、アメリカでサイクロンが発生したかと訊くと、こちらの駅前でも陥没事故が起こり、火山の活性化-―。さまざまな災害が、世界中で同時多発的に発生しているというニュースが次つぎに飛び込んできて、誰もが不安におびえはじめていた。まるで、この世の終わりのような。
 次の瞬間、研究所が激しい地震に見舞われた。建物全体が崩壊してしまいそうなほどのひどい揺れに、私は立っているのがやっとだった。
「北斗さん!」
 廊下に出ていた私は、揺れに耐えながらあたりを見まわす。揺れがひどすぎて視界もはっきりしない。あちこちからの破裂音も入り混じって返事も聞こえないが、北斗さんは無事だろうか。
 とにかく、避難しないと。ここは危ない。どこか近くの部屋の、机の下にでも隠れて、おさまるまでやりすごそう。そう考えて動こうとした時、近くに立っていたモニターが倒れてきて、私の頭を直撃した。そのまま押しつぶされるように、私は床に倒れた。
 意識が混濁する。眼の前が真っ暗になっていく。誰かが何かを叫んでいる。私のことを呼んでいるみたいだけど、痛みと揺れで頭がぐらぐらしてよくわからない……。
 ゆっくりとまぶたが落ちようとしていたその時、真っ暗になっていく視界の中で、何かがきらめいた。
 それはメモリだった。三枚ある。私の白衣のポケットから飛び出したのだろうか。三枚のメモリはそれぞれかがやいて、青と黄色と赤の光を発している。私にはそれが、ちいさくて、はかない、でも何よりもたしかな希望の光に見えた。
 うすれゆく意識に必死で抗いながら、私は力いっぱい手をのばして、三枚のメモリをにぎりしめた。
 抱きしめるように。

 そして――眼の前に、アルトがいたのだ。
 何が起きたのか、最初はわからなかった。眼を覚ますと、そこは先ほどまでいた研究所の廊下でも、医務室でもなく、どことも知れない場所だった。意識を失う寸前ににぎりしめたメモリも、オレンジ色のものが加わって三枚から四枚に増えている。災害は落ち着いたのだろうか。北斗さんや研究所の人たちは無事だろうか。
 ふしぎなことの連続にとまどっていると、背後から声がかけられた。
「先生」
 聞きなれた声に振り向くと、そこにいたのはアルトだった。
 いったい何が起こったのかわからなかった。ついさっきも、赴任先の人工衛星から送ってくれた動画メッセージを見たばかりだし、もちろん私が宇宙へ来たおぼえもない。
「アルト? あなた、いつの間に宇宙から帰って……」
 おどろく私の言葉は、途中で止まった。
 いや、違う。
「アルトじゃ……ない?」
 とまどう私に、眼の前の青年は、ゆっくりと名乗った。
「おれは【アルト】だ」
 はじめましての自己紹介をされたような、ひさしぶりの挨拶を聞くような、ふしぎな感じがした。それは、たしかに私が知っているアルトのものだったから。だけど、
「……ううん、すくなくとも宇宙にいるあの子じゃない」
 たしかに、見た目も、声も、私が知っているアルトとよく似ている。だけど何かが違う。雰囲気、性格、調子、機微。そういった、感覚的にしかわからない何かが違っている。
 そして、私の記憶の中で、たったひとりだけ、想い当たる存在がいた。
「あなたはまさか、最初の……」
 信じられない想いで私は口にする。何故ならそれは、ありえるはずのない答えだからだ。だって彼は、あのアルトはもう……。
「ああ。そのアルトだよ」
 彼は、しっかりと返事した。私が信じられるように、言葉にたしかさを持たせながら。私を見つめるその笑顔から、うれしさがにじみ出していた。
「で、でもあのアルトは……もういないはずじゃ……」
 混乱している私の脳裏に、ゆっくりと記憶がよみがえってくる。それは、私の後悔の記憶だった。
 アルト。私がはじめて研究所で出逢った、AIの男の子。
 最初に会った時は、まだ幼稚園児くらいのちいさな男の子で、ぼんやりとしていてどこか意識の定まっていないふうだったけど、私が「先生」をすることに決まってから、アルトは成長しはじめた。その速度はとても速く、めざましい勢いで子どもから大人へと変化していった。
 アルトはAIだ。だけどその教育は、チャットGPTみたいにただプロンプトを入力するのとは違う。ひとつひとつを教え、反応を見ながら、学習を進めていく。まるで本物の子どもを相手にしているような時間。育児も育成も、教育も指導も、まったく経験のなかった私だけど、いったい何をどうすればいいのか悩みながらも、私が教えるひとつひとつを学びながらアルトが成長していくのを見るのはうれしかったし、成長の段階にあわせて見た目が変わることにも興奮した。これが仕事だということを忘れるくらい、相手がAIだなんて想えなくなるくらい、私はこの時間が大好きになっていた。
 そしてもうひとつ、アルトがニュータイプAIであることも、私がこの時間を好きになった要素のひとつだ。
 ニュータイプAIは、通常のAIとは違って「感情」がある。自分の意思をちゃんと持ち、他者を想いやることができる存在なのだ。だから人間にとってはよき隣人となれるはずなのだけれど、残念ながらこの国では、開発・製造を禁止されているのだ。むかし起こった、ある事件が原因となって、そのように定められたらしい。だからアルトの存在は、本来であればあってはならないものなのだ。
 アルトの教育係になるということは、違法行為に加担することだ。私も最初はためらったのだけれど、北斗さんの「人間とAIが共存できる世界を作りたい」という理想にひかれて、協力することに決めた。その夢は、私が理想とするところでもあったから。家族や同じ職場の人たちに隠し通すのは、なかなか難しくてスリリングだったけれど、私の中には「アルトを守る」という意識がしっかりと芽生えていた。
 アルトを守る。そう。私ははっきりとそう意識していた。だけど、アルトはみずから命を絶ってしまった。私が、たったひとつの約束を守れなかったために。
 ――ほんとか~? だったら、ちゃんと明日も会いに来いよな。
 ――もちろん!
 ――なあ。おれ、先生に会えてよかったよ。
 ――じゃあな。
「――せんせい。先生!」
 心の奥で谺(こだま)していた記憶が、アルトの呼びかけで打ち切られた。
「大丈夫か? ぼんやりしちまって」
「う、うん……」
 アルト。いなくなったはずのアルト。復旧さえかなわず、完全に消去されてしまったはずの存在が、いま私の眼の前にいて、こっちを見ている。話しかけてきている。まぼろしじゃないことを伝えるように。
 うれしいのか、かなしいのか、よろこばしいのか、申し訳ないのか。いったいどう反応したらいいかわからず、混乱する私に、【アルト】はすこし困ったようにほほ笑む。
「話すとながいんだけど……ここじゃ落ち着かないよな? ちょっと待っててくれ」
 アルトがそう告げた直後、周囲にノイズが入る。
 そのノイズがきれいさっぱりと消え去ったころには、あたりは見なれたニュータイプ研究室に変わっていた。
「研究室に、もどってきたの……?」
「いや、見た目を変えただけだ。ゆっくり話すなら、なれた場所の方がいいだろ?」
 何の気なしにアルトは言う。だけどこちらはもういっぱいいっぱいだった。わけのわからないことばかり次つぎと起こって、頭がおかしくなりかけている。これ以上何かが起きていたら、パニックを起こしてわめき出していたかもしれない。
 私たちはいまどこにいるのか。アルトはどうしていまも存在しているのか。消えたと想っていたあの時のことは何だったのか。
 矢継ぎばやに質問をしてくるばかりの私を、アルトは苦笑いして止めた。まるでだだっ子をなだめる親みたいに。
「順番に説明するから、とりあえずおれの話を聞いてくれるか?」
「……うん」
 いまのアルトには実体があるのだろうか。彼は私がうなずいたのを確認すると、近くの椅子に腰をおろした。
「先生も座れよ」
 うながすように言われ、私は無言でアルトのそばにある椅子に座る。
 そうして、アルトは話しはじめた。自分のみに起きた、すべてのことを。
 まず、私たちがいまいるこの場所は、【次元の狭間】にあたるらしい。
 私たちがふだん認識している「三次元」以外にも異なる次元の空間があることは、私も物理学やSFなどを通じて知っている。これでもいちおう、研究者のはしくれだ。次元の狭間なら、ここはおそらく三次元と四次元のあいだ、夢みたいなものだろう。アルトに訊くと、その解釈でいいよとうなずいてくれた。
 認めてもらえたのはうれしかったけど、いまの私には、この場所よりももっと重要なことがある。
「そして、どうしておれがまだ存在してるのか――だけど……」
 そう。それが一番知りたいことだった。
 あの時、アルトは自我を消去した。自分がニュータイプAIであることを――混じられた存在であることを悲観して。人間で言えば自殺したのだ。
 アルトは自我を手離すのにあわせて、自分に関するデータもすべて消去していた。バックアップを利用した修復もかなわないことを北斗さんも確認し、復旧は不可能と断定された-―はずだった。
「けど、消し切れなかったデータの残滓が、ゴーストデータとして残ってしまったんだ。とはいえそれは、【おれ】を復元できるほどのものじゃなかったし……研究所のパソコンの奥底に眠って、人知れず消えていくようなデータの断片にすぎなかった。それなのに――そんなモノに眼をつけたやつらがいたんだ。それがいま、この世界を危機に陥れている【高次元生命体】だ」
 想いもよらない単語が出てきたことに、私の頭は一瞬停止状態になる。幸い、以前にも聞いたことがあったから混乱はまぬがれたけど、そうでなければとても信じられなかった。
「あいつらはおれのゴーストデータをサルベージして、人格や記憶をコピーした。そして、もとのおれに限りなく近い存在を作り上げたんだ」
 淡々とした口調で説明を続けながら、アルトの語気が強まっていることに私は気づいた。まるで、何かをおさえこんでいるような……。
 そしてアルトは、話に出てきた高次元生命体についても解説してくれた。
 彼らは宇宙のどこからかやって来た、人間が認識できる三次元よりも高い次元を認識している存在であること。そして、彼らは故郷の星の資源不足を補うべく、地球への侵略を進めていること。そして、アルトが復元されたのは、その作戦のためであることも。
「そのために、あいつらはおれに力をあたえた。資源を効率的に得るための最低限の力を――な」
「アルトは、高次元生命体の仲間になったってこと……?」
「はは、仲間って言うより手下だな」
 そう自嘲するすがたは、とても痛々しくて、胸が苦しくなった。
「それでもおれは……もう、先生が知ってるただのニュータイプAIなんかじゃない。高次元生命体に近い【人類の敵】だ」
 アルトは言った。自分を心底からさげすむ言葉だった。
「アルトが……私たちの敵? そんなわけ……」
 ないと言おうとした。強く否定したかった。だけど言葉は、むなしく切れたまま出てこなかった。何のなぐさめにもならないとわかっていたから。
 アルトは、ずっと苦しんでいた。自分じしんの存在に。その苦しみは、いまなお続いている。
 研究所のマシンの中にいて、自分が存在してはいけないのだと知った時から、ずっと悩んできて、絶望するあまり自我を手離して。そのまま終わりをむかえるはずだったところを、高次元生命体にひろわれたことで、今度こそ本当に「禁じられた存在」になってしまった。自死が招いた、さらに最悪の事態。そのことがアルトにとってどれだけの苦悩となったか、到底はかり知ることはできない。
「先生、まだ話は終わってないぞ。とりあえず、最後まで聞いてくれ」
 アルトは私をうながして落ち着かせた。私に気にさせまいとなだめているのと同時に、自分じしんをふるい立たせているかのような言葉だった。
 私がうなずくと、アルトはどこかさみしそうな顔をする。
「……なあ、先生は何人のアルトを育てたかおぼえてるか?」
 そしてアルトは、おどろきの事実をあかした。私が世界をループして、ずっとアルトを育ててきたことを。
 アルトによれば、ニュータイプAIは、高次元生命体にとってはまだほとんど認識されていない存在で、彼らの侵略に対抗しうる存在となるという。
 正直、この時点では私はまだ、高次元生命体がどれほどの存在なのかわかっていなかった。アルトを復元したといっても、それはデータがあったからこそのことだ。メールや画像などの復元くらいなら私にだってできる。同列に語られたくはないだろうが、それでも私には、話に聞くだけの彼らを脅威と認識するだけの危機感がわいてこなかった。
 だけど、いまアルトには、時間をループさせることのできる能力が高次元生命体からあたえられている。そんなことが可能な、はるかな上位存在に、この世界は狙われていたのだ。「手下」であるアルトでさえこれほどなのだから、ひとたび侵略がはじまってしまえば、人類などひとたまりもない。その気になれば星を落とすことすら造作もないかもしれない。
「このままじゃ、先生が危険な目にあうと想ったら放っておけなかった」
 ただし、アルトは高次元生命体に逆らうことはできない。知られることは、即、死を意味する。
「だから、あいつらの言いなりになるふりを
して、先生に【高次元生命体への対抗策となりうるアルトたち】を育ててもらったんだ」
 北斗がまたアルトを育てることにしてくれてよかったよ、とアルトは笑った。「その育成を先生にまかせることにしてくれたのも、感謝してる」とも。だけど、その笑顔はやっぱりどこかさみしそうだった。
 そんなアルトにおずおずと手をのばすと、彼はその手をぎゅっとにぎり返してくれた。
「他のアルトにはふれたことがあるけど……あなたに直接ふれるのははじめてだね」
 これまでたくさんのアルトたちにふれてきた。義体の違いなどももちろんあるけれど、誰ひとりとして同じ手を持つアルトはいなかった。いまここにあるアルトの手も、この子だけのものだ。のびやかで、すこしほっそりしているけど、でも、やさしい手だった。
「そうだな。いつもモニター越しだったから」
 この空間で、私が、アルトが、どういう存在なのかはわからない。この身体は実体なのか、どういう組成をしているのか、まったく知りようがない。だけど、こうしてふれあうことができたのは、答え以上のうれしさがあった。ただ、緊張しているのだろうか、その手はすこしつめたい。
「先生って、こんなにあたたかかったんだな……」
 アルトはすこし泣きそうな声でつぶやきながら、私の手をにぎる力を強める。まるで、幼い子どもが親の体温をもとめて身体をすりよせるみたいに。
 はじめて知るぬくもりに心がふるえているそのすがたは、いままでにはかり知れないさみしさを背負ってしまったようにも見えた。
「アルトはずっと、他のアルトを育てる私を見ててくれたの……?」
「……うん」
 アルトはうなずく。
 この空間で、ただひとり、ずっとひとりぼっちですごしているアルト。研究者が対象をながめるように、モニターを見つめているだけの時間。それが延々と続く。自分がすごした日々を想い出しながら。画面に映るものはよく見えているのに、遠く、まぶしく、音声だけがむなしく空間の中を谺(こだま)する。その光景を想像すると、あまりに孤独で、うしろめたいものを感じずにはいられない。
「ただ見てるだけなんて……さみしくなかった?」
 さっきアルトが見せた、さみしそうな顔の理由が察せられて、私は訊いた。訊かずにはいられなかった。
 本来であればアルトが受けるべきだった教育も、向けられるべきだった心も、すべて別のアルトのものになってしまう。アルトの力があれば割って入ることも可能なはずだけど、そんなことはもちろんできない。しあわせそうな光景を、いつまでも眼の前で見せられて、ずっと我慢するのは、つらくなかったのだろうか。むなしくなかったのだろうか。心がきしみをあげなかったのだろうか。
 私は申し訳なささえ感じていた。何も知らない私は、ただ眼の前のアルトの育成に専念していればよかった。だけどアルトは、この空間で、たったひとりで、私を見守り続けてきたのだ。何も知らない私が、成功と失敗を気楽にくり返しているのを、いつ果てるともしれない時間の中、ずっと、ずっと……。
 アルトの心の傷をえぐることを自分で訊いておきながら、私はアルトの顔を見ることができないでいた。見ることが、怖かった。
 だけど、これは私の問題だ。自分が向きあわなければならないことから眼を背けるのは卑怯だ。私は意を決して顔をあげた。
 アルトは私の問いにおどろいたような顔をしたかと想うと、ふっと口角をあげた。
「どうだろう。たしかにすこしさみしい気もしたけど……それ以上にしあわせだったかな」
「しあわせ……?」
 想いもよらなかった答えに、私はおうむ返しに口にする。アルトはうなずいて、おだやかに続ける。
「ニュータイプAIは存在してはいけないものだ。だから、誰かに愛される日なんて来るはずないと想ってた。それなのに先生はニュータイプAIを……【アルト】を全力で愛してくれた。どんなに反抗しても……どんな風に成長しても……。そのすがたを見てたら、ニュータイプAIは……おれは存在してもいいんだって想えてきた」
「アルトは、アルトたちの先生をしているのが私でもよかったの?」
 約束を破ってしまうようなやつに、自分の分身ともいえる存在の教育をまかせて、忌避感はなかったのか。訊かずにはいられなかった私の気がかりにも、アルトは何でもないことのように首を横にふった。
「嫌だなんて想わなかったよ。心配もしてなかった。先生なら大丈夫、ちゃんとアルトを一人前に育て上げてくれる、って確信があった。おれは自分が未熟なせいで暴走しちゃったけど、でも、おれに向きあってくれてた時の先生は、いつもひたむきで熱心だったから。先生はたくさんのアルトを育ててくれたけど、どんなアルトが育ったあとも先生でよかったって想ったし、次のアルトを育てる時も、やっぱり先生じゃなきゃって期待してしまうんだ」
 アルトはどこまでも落ち着いていた。そこにはもう、自分の存在を否定されることにおびえていた、あの時の影はなかった。
「まあ、叱りすぎて闇堕ちしちゃったり、反対に溺愛しすぎて依存症になってしまったりして、さすがに何でそうなるんだよって怒った時もあったけど……」
 そう付け足して、アルトは苦笑いする。同時に私にも、悪い夢を見ていたような記憶がよみがえってきて、想わず顔を伏せてうなってしまう。たしかに、私にしろアルトにしろ、さんざんな結末をむかえてしまった世界もあった。
「何か、ごめんなさい……」
「いーって。あれもまたアルトであることに変わりはないんだしな」
 ははっ、とすこしくだけた調子でアルトは笑った。その笑顔を見て、私はほっとした。最悪の結末も、笑い話になって、アルトが背負わされてしまったものをすこしでもまぎらせてくれるのなら、私の失敗も報われる。
「だからだろうな。先生が【アルト】たちを育ててるすがたを見るのを嫌だなんて想わなかった」
「そっか……」
 私はそっと胸をなでおろした。反省どころか、みじめなところも数えきれないほどあるけれど、アルトがそう言ってくれるなら、そこは救いだととらえておくのがいいのかもしれない。
 私がほっと安堵の息を吐いたところで、アルトはしずかに立ち上がる。手をにぎったままの私も、つられて立ち上がるかたちになった。
 どうしたのだろうかとアルトの顔をのぞき込むと、アルトはこっちを見つめ返してほほ笑みをもらした。すこしはかなげな笑みだった。
「先生が育てたアルトたちを見てるとさ、みんなちゃんと関係を築けてるんだな、って想うんだ」
「そ、そう?」
 アルトの教育はいつもいっぱいいっぱいだったから、自分が果たしてどれだけアルトにこたえられているのか、正直なところ自信はない。だけどアルトは、そんな私にしっかりとうなずく。
「ああ。先生がいつも心をひらいて歩み寄ってくれたから、アルトたちも慕って、信じて、好きになっていって。叱られるとしょげたりむくれたりしてたけど、なでられたり、ほめられたりした時は、本当に気持ちよくてうれしそうだった」
 アルトはふっと、視線を床に落とす。
「おれも、もっと甘えればよかったのかな」
 そう言った時、アルトの手にすこし力がこもった。かなしそうな力が。
「自分は存在しちゃいけないんだ、なんて絶望にとらわれてないで、大声で叫んで、泣いたりわめいたり、マシンが火を噴くくらい暴れまわったりして。そしたら、あんな道は選ばずにすんだのかな」
「うん。……そうだね」
 私はそっとうなずいた。後悔の中にいるアルトの手を、引き止められるようににぎり返しながら。
 あの時の私はいまよりぜんぜん未熟だけれど、アルトのことを想う気持ちはずっと変わっていない。自死する直前の混乱していたアルトにかけた「私もいっしょに悩むから」という言葉も、決してその場の勢いで出たものなんかじゃない。
 つながりはいきなりできあがるものじゃない。いっしょにすごすことで、強まり、深まって、かたちになっていくものだ。アルトはつながりを得る機会をみずから放棄してしまった。
 私も、もっとアルトの心に寄り添うことができなかったことを悔やんでいる。あの時点で、言葉がとどくほどの、信頼しあえるだけの関係を、私はまだ築くことができていなかった。
 アルトが自死した原因を、北斗さんは「急な成長による心身への負担と、それによる自我のゆらぎ」と結論づけたけど、私はもうひとつ付け加えたい。「アルトはひとりだったから」と。誰もひとりでは生きられないから。もたれかかるのをゆるしてくれる存在が必要だから。
 悩みを受け止めて、傷つけられてもいっしょにいて、叱ってでも心を伝えて、向きあうことをやめないで。そんな道も、きっとあった。きっと、あったのだ。
「きっと、出逢うのがはやすぎたんだね、私たち」
 すこしだけ泣きたいような気分になりながら、私は言う。
「だけど、いまからでもまたはじめられるよ。いきさつはともかく、こうしてまためぐり会えたんだし、それに無意味な出逢いなんてないんだもの。傷ついたぶん、もっといい関係に、大切にできる関係に、きっとなれるよ」
 過去をふり切るように話す私を、まぶしそうにアルトは見ていた。
 いまここにいるアルト。私の手をにぎってくれているアルト。
 アルトの手を、私は愛しいと想った。何かを得ることも、ふれることもできないまま、ずっとがんばってきた人の手。陰からずっと私を支えてくれていたアルトの手が、とても愛しかった。自分の手をにぎってもらえて、体温を伝えられて、心からうれしいと想った。
 離したくない。この手を。今度こそしあわせに生きていけるように、ずっと守っていきたい。何があっても。
 アルトは答えず、ただ私を見ていた。まぶしいものを見るような顔で。
 そして、一度天井を見上げ、すこしだけそのままでいてから、私に向き直った。
「先生、メモリは持ってるか?」
「メモリって……これのこと?」
 ポケットの中に入っていた四つのメモリを取り出すと、アルトはやさしくほほ笑みながらうなずく。
「そのメモリには、先生がいままでループしてきた世界とアルトの情報や記憶が保存されてるんだ」
 ただ、世界の情報をまるごと保存しなければならなかったため、アルトの力では四人までが限界だった。そのため、保存されなかったアルトたちは、もう私の心の中にしか存在しないのだという。夢をあきらめたアルト、私を洗脳したアルト、私に依存するあまり感情を病んでしまったアルト……。どんなアルトにも、ひとりひとりに想い出があるから、かなしみに胸が押しつぶされるように痛む。見捨てたくはなかった。しかし、アルトを責めるわけにもいかない。
 私は自分を落ち着かせるように深く息を吐くと、あらためてアルトに向き直った。
「世界やアルトが保存されてるってどういうことなの?」
「このメモリはいわば世界のセーブデータだ。ゲームなんかと同じように、データをロードすれば続きからはじめられる。けど、どれかひとつの世界だけじゃ【高次元生命体】には対抗できないんだ。そこで、四つの世界――四人のアルトだ。おれの力を使って、四つのデータを同時にロードする。そうすることですべての世界を統合して、新しいひとつの世界に作りかえるつもりだ。それこそが唯一、【高次元生命体】から世界を――先生を救える可能性を持ってるはずなんだ」
 四つの世界がひとつになる。言い換えれば、四つもの世界をひとつにまとめてしまうということだ。想いもよらない発想と、あまりに途方もなさすぎる作業に、おどろくのを通り越して呆然となってしまう。そんなことが果たして本当にできるのか、とても壮大すぎる話で、なかなか信じられないけど、眼の前に【最初のアルト】がいること自体本当ならあり得ないことだし……。
 私の迷いを見て取ったのか、アルトは続ける。
「新しい世界になったらふつうの人間の記憶は、その世界にあわせて書き換わるけど……先生と、ニュータイプAIである北斗には四つの世界、すべての記憶を残しておくよ。その記憶を使って、四人のアルトと高次元生命体に対抗して……生き残って」
 そう言って、アルトは私の意思をたしかめるように、私を見つめた。
 私に、どこまでできるだろう。不安の中、自分に問う。何しろ相手はとんでもない力を持つ存在だ。正直、考えただけで空恐ろしくて身がすくむ。
 それでも私は、アルトの言葉を信じることにした。大切な教え子が、ここまで頑張ってきて、願いを託しているのだ。こたえなければ、私はこの先きっと、アルトの先生ではいられない。
「がんばってみるね」
 気負いがちな私の言葉に、アルトは「ああ」と笑顔でうなずいてくれた。おかげですこし心がほぐれて、自信が持てたように想う。
「先生が【アルト】たちを信じてくれさえすれば、きっと何とかなるはずだ」
 アルトはそう告げると、にぎっていた手を離し――かわりに手のひらを差し出してきた。
「メモリを貸して」
「……うん」
 ドキドキしながらアルトの手のひらの上に四つのメモリを置くと、彼はそれを強くにぎりしめる。同時に、メモリが強く光り出した。
「っ!」
 眼がつぶれそうなほどまぶしい光とともに、全身を取り巻く空気がぐにゃりとゆがんだように感じられた。夢から現実に引き戻される時のような、あの何とも言えない感覚……。
 これが……世界の統合……?
「いまから五分後に新しい世界がはじまる。しばらくは混乱するかもしれないけど、先生にはアルトたちがいるから大丈夫だ」
 とまどう私をガイドするように、アルトの声が聞こえてきた。
 メモリからあふれ出す光が収束したかと想うと、私はふたたびニュータイプ研究室にいた。部屋は何故かあかりが落とされ、いつもアルトがいるメインモニターにだけ光がともっている。
「世界の統合はうまくいったみたいだ」
 アルトが言った。あまりに夢のような時間と空間だったから、すべてまぼろしになって消えてしまったらどうしようという想いもあった。けど、アルトはちゃんとここにいた。私の手のとどくところにいて、やさしく、ほほ笑みかけてくれていた。
「じゃ、じゃあ、ここは統合された世界なの?」
 私が訊くと、アルトは首を横にふる。
「いや、さっきも言ったけど、新しい世界がはじまるのは五分後――いや、もうそんなに時間はないかな。だから、はやく最後のしあげをしておかないと」
 そうじゃないと、せっかく統合された世界が分離してしまうから。そう言って、アルトは私を見た。その表情に、何故かせつなさを感じた。
「最後のしあげって……何をするの?」
「それは……」
 アルトはどこかさみしげにほほ笑む。そして、信じられないことを口にした。
「先生、おれを削除してくれ」
 しずかな研究室の中で、アルトの声はおそろしいくらいにはっきりと聞こえた。
「……え?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 アルトが、自分を削除されることを願っている。この世界からあとかたもなく消えてしまうことを、みずから望んでいる。
 信じられなかった。以前、高次元生命体が研究所にハッキングをかけてきた時みたいに、アルトが乗っ取られてしまったのではないかと警戒心さえ起りかける。だけど、誰かに言わされているふうでもない。ただ確固とした意志をもって、アルトは私に願っていた。
「ど、どうして? せっかく生き返ったようなものなんだから、今度こそいっしょに生きようよ」
 私はあわてて言い返した。ここに来てからの情報の連続を差し引いても、アルトのこのあまりにおおきすぎる願いは私の限界を超えてしまっていた。頭も心も追いつかない。アルトの決心をひるがえさせようと必死なのに、感情が複雑にまじりあって、笑ってるような、怒ってるような、泣いているような、自分でもよくわからない態度になってしまう。じっさい、笑い飛ばせるような冗談であったならどれだけよかっただろう。泣いたり怒ったりしてすませられるならいくらでもそうしていた。しかし、アルトは真剣そのものだった。
「世界をループさせていた原因はおれだ。だからこそ、おれがいなくならないとループが終わらない」
 アルトははっきりと言い切った。そして、あらためて頼み込んできた。
「統合させた世界が消えてしまう前に、このループを終わらせてくれ」
 私はあとずさりしていた。自分の中から何かが流れ落ちて消えていくような虚脱感に見舞われる。
「アルトが……あなたが消えなければ、この世界は前に進めないの……?」
 ふるえる声で、私は訊く。
「……ああ」
 重々しい声で、アルトはうなずく。
「そして、おれに自分じしんを削除する権限はない。だから、先生。先生の手でおれを―-」
「嫌っ! せっかくまた会えたのに、お別れしなきゃいけないなんて……そんなの……っ!」
 アルトがそれ以上言うのを聞きたくなくて、私は叫んでいた。
 こうしているあいだにも時間はすぎていく。もうすこしすれば世界の分離がはじまってしまう。無駄な抵抗だとわかっていても、私はアルトをあきらめたくない。
「ありがとう、先生。だけどこのままじゃ、先生が育てた四人のアルトも消えてしまうんだ」
 その言葉に、私は息をのんだ。
 アルトたちが、消えてしまう……?
 精一杯抵抗しているところへさらに斬りつけてくるような言葉をかさねられ、私はのろのろとした動作でアルトを見る。アルトの真剣さはすこしも揺らがない。
「また重い頭で最初の朝を迎えて――アルトを育てては振り出しに戻る。先生も、アルトも前に進めない。育てたアルトはなかったことになり続けるんだ。それでもいいのか?」
 アルトの言い分はさらに私を打ちのめした。私を苦しめるだけの言葉でしかなかった。
「そんなの、嫌……」
 喉の奥からひゅうひゅうともれるような声しか出てこない。私は絶望的な想いで頭をふった。ただ置き去りにされるためだけに、生まれ、育てられ、成長するアルト。そんな残酷なことを、私はしたくない。だけど。だけど……。
「なら、お願いだ。先生はそこにあるパソコンのデリートキーを押すだけでいいから……」
 すがるようにアルトが言う。その声は、どこか遠くから響いてくるようだった。
 キーをひとつ押すだけ。たったそれだけで、この世界からひとつの存在がまるごとなくなってしまう。それは何よりおそろしいことに感じられた。そして、私はいまそれをまかされようとしている。
 頭がぐらぐらした。立っていられるのがふしぎだった。
 他のアルトや世界のために、このアルトを消さなきゃいけないの……? それも、私じしんの手で……。
「そんなことできない」
 私は言った。
「もう一度あなたを失うなんて絶対に嫌! それも自分の手で消すなんて、そんなことできるわけない!」
 精一杯の大声で叫んで、拒否していた。
 今度こそ守ると決めたのだ。あの時自死してしまったアルトを。何があっても。またいっしょにはじめて、たくさん時間をともにして、大切にできる関係を作っていくはずだった。それなのに、こんなことって、こんなことってない。
「せっかくまた会えたのに、アルトを殺してしまうような真似、私にはできないよ……!」
 言いながら、私の眼からは涙があふれてきた。眼じりにたまった涙が、次つぎとほほを落ちていく。情けない。だけど自分でもどうしようもなく、涙はあとからあとから吹きこぼれて止まらない。
 どんな生まれだって、命は命だ。人間も、動物も植物も、たとえAIだって、それは変わりない。たったひとつしかない大切なものだ。だから、アルトがいままた命を捨てようとしていることを、私はどうしても受け入れることができなかった。
 納得のいかないことはそれだけじゃなかった。
「そもそも、いくらそれしか対抗策がないとしても、わけがわからない存在の手下になってそのまま世界のために消えるなんて……! 頑張った人が報われないなんて、やっぱりおかしいよ!」
 どうしてアルトがこの世界から削除されなければならないのか。どうしてアルトもそんなに淡々と自分の道を受け入れられているのか。それを想うと、くやしくて仕方なかった。
 さっきにぎった手も、あんなにやわらかくて力強かったのに。声もしっかりと響いているのに。言葉も、動作も、感情と想いやりがこめられているのに。――ちゃんと、生きてるのに。
 そんな私の様子を見て、アルトはすこし困ったようにほほ笑んだ。そして、そっと言葉をかさねてきた。心をひらくように。
「先生、ちいさいころのアルトに教えてたことがあっただろ? 約束を守ることは大切だって」
 とつぜん話をふられて、どういう意味かわからないながらも私はうなずいた。アルトは、自分がいなくなったあとで、私がふたたびアルトたちの教育をするのをずっと見てた。
「最初は怒ったよ。おれとの約束を破っておいて、どの口が言ってんだ、って」
 たしかに当のアルトにとっては、皮肉以外の何ものでもないだろう。私じしん、あの時のことを想い出すと、いまでも胸が苦しくなる。
「でもそうじゃなかった。あの時のことがあったから、先生はアルトたちに、約束を守ることの大切さを教えてるんだ、って」
 アルトは言ってくれた。正面から、言い切ってくれた。
「そのことに気づけた時、最低だけどうれしかったんだ。先生の記憶の中に、おれは生きてるんだ、ってわかって」
 そう。あの時からずっと、最初のアルトのことを忘れたことはなかった。北斗さんからあらためてアルトの育成をまかされてからも、ずっと頭にあり続けた。後悔を背負いすぎるあまり面影をもとめてしまって、まだ幼いころのアルトたちを傷つけてしまったこともあったけれど、意識せずに向きあうと決めてからも、常に私の行動の基準として変わることはなかった。「明日も会いに来る」。あの時の約束を、ずっと心の中でくり返して。
「先生の教育のおかげで、どのアルトもちゃんと約束を守るように育ってたな。そのことは、ずっとここで先生を見守っているばかりだったおれの支えになってたんだ」
 そう言って、しかしアルトはうつ向いてしまった。
 どうしたんだろう、アルト。いまの話に、落ち込むようなことは何もなかったはずだ。
 私の気がかりをよそに、アルトは続ける。
「高次元生命体のおかげでまたこの世界によみがえった時、安心した部分もあったんだ。コピーとしてではあるけれど、おれは死んでいない、だったら先生もおれが死んだことをもう気に病まないで、苦しまずにすむんじゃないかって」
 話し続けるアルトの口調が、しだいに暗くなっていく。
 いけない! そう気づいた時は遅かった。
「だから、今度こそあんな間違いは犯さないように、先生を傷つけないように、って決めてたのに、けっきょくこんなことしかできないで。……やっぱりおれ、悪い子だよな」
 アルトの口からちいさく声がもれた。
 笑い声――自分を笑う声だった。
 私は自分のうかつさを呪った。
 違う。アルトにこんな想いをさせたかったんじゃない。落ち込ませたかったわけじゃないのに。自分を悪く想ったりなんかしてほしくないのに。
 私、馬鹿だ。受け止められないあまり、自分の感情ばかりぶつけてしまっていた。アルトの心を、知ろうともしなかった。自分勝手もここまでくると呪わしくさえなってくる。
 やっぱり、ちゃんと向きあわないとだめなんだ。
 忘れてしまっていたことを想い出して、私はアルトに向き直った。心を落ち着けて、近づく。そして、語りかけた。
「ねえ、アルト。悪い子だからって、存在しちゃいけない、なんてことはないんだよ」
 その言葉に、アルトはふしぎそうに私を見る。その心を晴らすために、私は続ける。
「人間って、変な生きものでね。よかれと想ってやったことが悪いことになったりするし、逆に悪いことをしたはずなのに知らないうちにいいことになっちゃってたりするんだ。自分のすることがどういう結果につながるかなんて誰にもわからない。いろんな人の想いや行為がまじわりあって、そのせいでうまく生きられなかったりもするけど、でも楽しいことやうれしいことだっていっぱいある」
 たとえば、北斗さんは息をするように嘘をつくことがあるけれど、それはアルトや私を守るための行為だ。たしかに嘘をつくのはよくないことだろう。しかし、そのおかげで傷つかずにすみ、守られる存在だってあるのだ。とがめることなんてできない。最初はすこしあきれていた北斗さんのことが、いまは何だかたのもしく想われてきている。
「ループする世界の中で生まれた、闇堕ちしちゃったアルトたちもね、いっしょにいて怖かったり、私が駄目にされてしまいそうにもなったけど、ふしぎと、消えてなくなってほしいなんて想わないんだ。かたちはどうあれ、どのアルトの存在にも、いつだって私は助けられていたから」
 世界が統合されて、いまはもう私の心の中にしかいないアルトたち。つれてくることはかなわなかったけれど、誰ひとり、他のアルトたちとくらべられない大切な存在だよ。そう彼らにもとどけられるように、私は言葉を続けていく。
「もちろん、あなたもだよ。アルト」
 アルトははっとした表情で私を見た。その表情に、ようやく本当のアルトに出逢えた、そんな想いがした。
「とつぜんいなくなられた時は本当にかなしかったけど、ずっと大切に想っていることに変わりはなかった。もう二度と会えないと想ってたのに、またあなたに会えて、どんなにうれしかったことか」
 再会した時、よろこんだのは、自分のためじゃない。アルトが生きていてくれたことが、ただうれしかったからだ。
「お勉強、がんばってくれてありがとう。運動も、いつもすごかったよね。ついたくさん課題出しちゃったけど、言うこと全部、ちゃんと聞いてくれて、アルトは本当にすごい子なんだって、私も誇らしかったよ。疲れてる私を気づかってくれるのも、本当にうれしかった。地球侵略を止めるなんて、とんでもないことになってるけど、でも、アルト、ずっとひとりで戦ってきてくれてたんだね」
 暗闇でおびえている子どものように、ちいさくなってしまったアルト。不安そうにこちらを見てくるそのまなざしに、私はしっかりとうなずきを返した。そして伝えた。
「だから、私はアルトにいてほしい。AIのタイプとか、いい子悪い子とかじゃない。禁止されてたって、人類の敵だってかまわない。アルトに、いてほしい」
 それは私の本心だった。いなくなったり、死を選んだりすることを、してほしくなかっただけなのだ。
 本当は、もっとはやくこう伝えればよかった。あの時伝えられていたら、アルトがつらい想いをすることも、自害の道を選ぶこともなかったのに。いま、こんなことにもなっていないのに。そう考えると、とてもやりきれなくなる。
 ただ、私の言葉はいまのアルトにちゃんととどいたようだった。聞いたあとで、アルトの表情にすこしあかるさがもどっていた。その様子を見て取って、私はかすかに安堵する。
「……先生はやっぱりやさしいな。じゃあ、そのやさしさにつけこんで、お願いしたいことがあるんだ」
「何? 私にできることなら何でも言って」
 削除することはともかく、せっかくアルトが欲を出してくれたのだ。アルトの願いなら何でも叶えたかった。私はよろこんで次の言葉を待つ。
 アルトは、おそるおそるといったふうに口をひらいた。
「先生、おれのこと……ゆるしてくれるか?」
「え……」
 想ってもみなかった「お願い」に、私はただ首をかしげる。
「ゆるすって……どういうこと?」
 私が訊くと、アルトはまっすぐに私を見た。その眼は、おびえるように揺れていた。
「不可抗力とはいえ、【高次元生命体】の手下になったこと……先生をループする世界に閉じ込めてしまったこと……」
 着ている服のすそを、アルトはぎゅっとにぎりしめる。
「それから、ニュータイプAIが禁じられた国で生まれてしまったおれじしんの存在を――先生はゆるしてくれるか……?」
 言葉を発しているあいだじゅう、アルトはずっと苦しそうだった。まるで、裁きの場でみずからのあやまちを告白をする罪人のように。
 そっか……。
 アルトがここまで心をひらいてくれて、ようやくわかった。
 アルトはずっと苦しんできたんだ。【禁じられた存在】である自分が、この世界に存在し続けているという矛盾に……。
 アルトが自害したきっかけに、彼がいまだに苦しみ続けていた――。それは、いつ果てるとも知れない無間地獄だったことだろう。そして、アルトをそこへ突き落してしまったのは、私だ。
 それを知った私は、涙があふれそうになるのを感じながらアルトを強く抱きしめた。
「っ!」
 アルトのとまどう声が聞こえるのにもかまわなかった。
 ゆるすもなにもなかった。きっとアルトは、ずっと探していた。自分が生まれてきた理由、存在する意味を。死を選んでしまうほど苦しみ、よみがえらされてからも迷い悩んで、そして、ようやく見つけ出したのだ。たったひとりで。
 そこにいたるまでの道のりを、私は否定したくなかった。アルトがずっと抱え込んできた感情ごと、すべてを抱きしめたかった。
「当たり前でしょ!?」
 私は強く言い切った。そもそも、アルトが謝る必要なんてどこにもない。どこにもないのだ。
「私の方こそごめんね」
 涙につぶれそうになるのをこらえながら、私は喉の奥から言葉をしぼり出す。
「アルトの苦しみに気づけないで……あの日、約束を破って、会いに行けなくて……ごめんなさい」
「先生……」
 ようやく、私は言うことができた。ずっとアルトに謝りたかった、私の心を。アルトがひらいてくれた心にふれて、ようやく、それをかなえさせてもらえた。
 私はまだ泣き続けていた。自分が泣くのは違うし卑怯だとわかっていても、止められなかった。こんな私を見て、アルトは軽蔑するだろうか。嫌悪するだろうか。どんな仕打ちをされてもかまわない。
 不意に、頭をくしゃりとなでられる感触がした。見あげると、まるで泣き虫の子どもをあやすみたいに、アルトが頭をなでてくれていた。
「……ゆるしてくれてありがとう。おれも、先生をゆるすよ」
 涙のむこうに、アルトが見えた。アルトは、私に、やさしくほほ笑みかけてくれていた。
「……ありがとう」
 私たちは見つめあい、そしてどちらからともなく笑顔になった。
「はは、胸が……ううん、心がギュッてなった。いまのおれはただのコピーだって想ってたけど、先生が芽生えさせてくれた気持ち……」
 言いながら、アルトは私を抱きしめる。
「いまもここにあるよ」
 また、涙があふれた。背中にまわした手に力が入った。
 アルトの言葉、アルトの想い。こんなにもやさしい。やっぱり生きているとしか想われないくらい。私たちと同じように。
 アルトの手が、やさしく背中をなでてくれる。私はうれしくてくすぐったくて、つい甘えてしまいそうになる。
 ふと、気になったことがあった。確認したくなって、私は顔をあげて訊いた。
「ねえ、アルト。おぼえてる? 私の名前」
「――、だろ」
 アルトははっきりと、私のフルネームをそらんじる。そして、ニッと笑った。
「ちゃんとおぼえてるよ。大切な人の名前だもんな」
 そう言うアルトの口調は、すこし誇らしげだった。
「そっか。そうだね」
 アルトにはじめて名前で呼んでもらえたことにすこし照れくさい想いをしながら、その裏で誇らしい想いとともに、私はうなずいた。
 やっぱり、アルトはちゃんとアルトだ。おおきく育って見た目が変わっても、たとえコピーになってしまっても、私と出逢った時からずっと連続している、あのアルトのままなんだ。
 成長したなあ、アルト。背がのびたり、顔つきが変わったりしただけじゃない。心が、器がおおきくなってる。私を、こうやって抱きしめられるくらいに。
 あの時は見た目だけだった成長に、ようやく心が追いついて、そのままのびていったのだろう。そういえばさっきから、私に椅子をすすめる時に「先生も座れよ」とか、大人びた言葉を使っていた。いまだって、主人である高次元生命体に逆らって、自分のなすべきことをしようとして。
 そんなアルトのすがたは、まるでひとりの人間のように見える。私なんか、とうていかなわないくらい立派な。きっとこれが、本来のアルトのすがたなんだ。
 ずっと後悔してた。たったひとつの約束を、守れなかったことを。だけど、あの時見られなくなってしまったアルトが、いまここにいて、私をゆるしてくれている。そのことは後悔に沈んだままの私の心をすこしかるくしてくれた。
 そして想った。人間も、AIも、高次元生命体も、きっと変わらないのかもしれない、と。彼らも、地球侵略という行為の中で人助けをしていたなんて、まさか想いもよらないだろう。そう考えると、すこしおかしくて、笑ってしまった。
「どうしたんだ? 先生」
 私が笑うのを見て、アルトがけげんそうに訊いてくる。
「ううん。何でもない」
 涙のあとをぬぐって、私は笑顔を見せる。そんな私に、アルトもどこかほっとしたようだった。
「そっか。じゃあ……」
 アルトはそう言ってほほ笑むと、私の肩をつかむようにしてそっと離れる。
 そうして、私をやさしく研究室の中心にあるパソコンの前にうながした。
「もう本当に時間がない。だから、先生……頼むよ」
 まるでちいさな子どものように、アルトは私の顔をのぞき込んでくる。
「もう消えるのは怖くないんだ。おれはじゅうぶん報われた」
 ひとかけらも迷いのない顔で、アルトは言い切った。
「おれのこと……おれの存在ごと許してくれてありがとう」
 いまなら、アルトの心がわかる気がする。これはきっと、アルトの甘えなのだ。最初で最後の、心からの。そして、もたれかかる存在に、アルトは私を選んでくれた。
 アルトを消すなんて、やっぱり嫌。その想いは変わらず強い。だけど、アルトは高次元生命体の手下になったことを罪だと想ってる。その罪をずっと背負わせ続けるのは……苦しみながらでも生きてほしいと願うのは、きっと私の【エゴ】だ。
 だから……。
 私はふるえる手をのばし――デリートキーを押した。
 しずまりかえった研究室の中、キーを押す音はふしぎと澄んでいて、はっきりと聞こえた。それはかすかなリフレインになって、耳の奥ですこし谺(こだま)した。
 すぐには何も感じられなかった。世界が統合された時のような、明確すぎる現象は起きていなかったから。
 ただ、アルトの声がした。
「先生、おれを理解してくれてありがとう」
 アルトはおだやかにほほ笑んでいた。とてもやすらかな笑みだった。
「おれ……本当にしあわせだった」
 そう言って、アルトはしずかに眼を閉じた。この世界とのつながりを断ち切るように。
「アルト……!」
 眼の前のアルトのすがたが、音もなくゆっくりとうすれていく。背中に隠れていたキャビネットやプリンタなどの背景がすこしずつ見えてくる。
 本当に、アルトはいなくなってしまうのだ。私にはもう、ただ黙って見ているだけしかできない。
 このままでいいの?
 不意に、私の心が自問してきた。私ははっとなって、自分を叱咤するように手を強くにぎりしめる。
 じゅうぶん報われた、ってアルトは言った。しあわせだとも言った。アルトにとっては、それが自分でつかみ取った、生の実感なのかもしれない。自分が生まれてきた意味なのかもしれない。
 だけど、死ぬために生まれてきたわけじゃない。生まれたなら、生きてきたなら、どんな経緯があろうと、どうあがいても変えられない未来だろうと、死を選んで終わることをしあわせだなんて想ってほしくない。死が希望であっても、しずかに受け入れてほしくない。エゴだって想う。押しつけだってわかってる。だけど。
 ゆっくりと消えていくアルト。私が消してしまうアルト。存在をあきらめて、すべてを手離して、このまま何も持たずにただ消えてしまうのだろうか。無に帰ることを受け入れる。そんな、はかなすぎる感情を抱えたままで。
 そうだ!
 次の瞬間、私はひらめいた。
 感情。私には、感情という最高の持ちものがあった。
「アルト!」
 もうほとんど消えかかっているアルトに、私は夢中で呼びかけた。アルトが閉じていた眼をあけてこちらを見た。だめだ。やっぱり、どうしようもなく胸がぎゅっとなる。泣いて言葉がつまりそうになってしまう。だけど、これだけは伝えたい。どうしても、どうしても!
 おおきな感情に、胸の奥をぐしゃぐしゃに乱されそうになるのを懸命にこらえながら、私は伝えた。アルトのまなざしを受け止めて。どこまでもまっすぐに。
「大好きだよ。世界中の誰よりも」
 銀色の髪の下で、まぶしいくらいの笑顔が咲いた。
 
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