特別な1日を
−あのあと、意外にもすんなり北斗さんからOKの一言がもらえて……私たちは思いがけず水族館に行けることになった。
当日の朝、私は普段より少し華やかな衣服に身を包み、ニュータイプAIの研究室まで足早で向かう。
外は眩しいほどに光が降り注いでいて、楽しい日にぴったりな、とても明るいお天気だった。
まるで、子供の頃の遠足みたいに…胸の奥で静かに踊っているような気持ちが、自分でもくすぐったかった。
「せんせー!おはよっ♪」
今日は駆け寄る必要もないほど、ドアのギリギリのところでニコニコのアルトが待っていた。
きっといつもの時間の数分前から、そわそわしながら待っていたのだろう。
「わ、アルト…!おはよう、朝から嬉しそうだね?」
「うん!水族館、ずっと楽しみにしてたからね!」
あまりに元気な挨拶に、ほんの少しだけびっくりした。
けれど、いつもより弾む声に眩しいほどの笑顔の嬉しそうなアルトを見たら…そんなことどうでもよく思えた。
「せんせーが絶対来るって分かってるのにさ、今日はなんだか待つ時間がとっても長く感じたよ〜」
「待ちきれなかったってこと?」
「そういうこと!せんせー早く……あ!日焼け止めは塗った?外、もう紫外線が強いみたいだよ?」
一刻も早く行きたそうにそわそわしているのに、アルトは私の心配をしてくれた。
なんて気の利く子なんだろう…!もう塗ったから大丈夫と伝えようとしたその時…研究室のドアがシュッと開いた。
入ってきたのは、少し息を切らした北斗さんだった。
「あぁ、間に合ってよかった…星宮さん、アルト、わかってはいると思うけど"気を付けて"ね…?でも、せっかくだから、二人とも楽しんでおいで」
気をつけて…とはアルトの存在がバレないように、言動にはお互い細心の注意を払って…ということ。
私も、アルトのためにしっかり気をつけようと思っている。隣のアルトも、珍しく真剣な顔をして頷いていた。
「はい、ありがとうございます北斗さん…!気を引き締めて行ってきます!」
「僕も気をつける…!北斗、行ってきま〜す!」
そう言って、外出用端末に入る直前、アルトは私に向かってニコッと笑った。その顔があまりに楽しげでこちらの胸が震えてしまいそうだった−。
−それなりの時間を電車に揺られ、とうとう水族館の目の前まで来ていた。
強い日差しが照り付けているけれど、時おり吹く潮風が頬を撫でて、とても心地良い。
平日ということもあって、人はまばら。入り口も混雑しておらず、静かなワクワクだけが周囲に満ちている。
私は窓口にいる受付のAIに声をかけた。
「大人2枚ください」
『かしこまりました、ではこちらの〜…』
そのやりとりに、端末の中にいるアルトはすぐさま反応する。
「へ?せんせー、なんで2枚買うの?僕は端末の中だから、チケットは先生のだけで入れるよ?」
目を丸くして、不思議そうに私を見つめるアルト。
私は少しだけ口元を緩めて、小さく笑う。
「…そうだね。でも、今日はアルトと"二人"で来たでしょ?」
ほんの少しの間のあとで、アルトの声がパッと弾ける。
「…!!うん!僕、今日先生と二人でおでかけしてるね…!」
顔を赤くして、心底嬉しそうなアルトを見てホッとする。喜んでもらえて、よかった…。
手元のチケットに視線を落とすと、それは青く透き通った海の中を切り取ったような、鮮やかなデザインだった。
「それに…アルト見て?こういうとこの入場チケットって、可愛いんだよ!」
「本当だ…!チケットの中にもお魚さんが泳いでるね!」
「ふふ、こっちはアルトのだから、大事にしまっておこうね…」
アルトとしばらくチケットを眺めた後、そっとカバンの中にしまいこんだ…。
−水族館内も人はほとんどおらず、アルトと普通に会話をしても大丈夫そうだな、と肩の力がふっと抜ける。
遠くから聞こえる水音や、魚が泳ぐたび揺れる光の波紋が、まるで海の世界に迷い込んだようで、ドキドキした。
少し薄暗い通路には、小さな水槽たちが並び、その一つひとつが優しく光を揺らしていた。
「わぁ〜!!先生、みてみてっ!ちっちゃい水槽がいっぱいあるよ!!」
アルトもあまり気を張る必要がないと判断したのか、楽しそうにはしゃぎ出す。
朝からずっと咲きっぱなしの笑顔が、しぼむことを知らない。
それだけ、今日という日が特別なんだな、とこちらまで嬉しくなる。
「ほんとだ、このお魚たちはなんてお名前なんだろうね?」
「えーと、解説があるみたいだけど…どれがどれなんだろ?いっぱいいてよくわかんないや!とりあえず、とってもきれいだよね♪」
「そうだね、今日はお勉強とかなしにして、ゆっくり見ようね」
お勉強も兼ねて…と初めは思っていたけれど、楽しそうなアルトにのびのびと過ごして欲しくて、ニコリと笑いながら提案する。
こんな日にまで、アルトがあまり好きではない勉強をする必要性は、あまり感じられない。
「わーい!先生大好き〜!」
端末の中で横に揺れて喜ぶアルトの姿を見て、私は思わずふふっと笑ってしまう。
小さな海の世界をひとつずつ覗き込みながら、私たちはゆっくりと歩いて行った。
−しばらく歩くと、視界がふいに開ける。先ほどまでの薄暗さが嘘のように、青い光に照らされて、ゆらめく光の眩しさに目を伏せた。
開けた空間いっぱいに広がる巨大水槽。青のグラデーションが天井まで伸びていて、まるで海の底にいるかのような錯覚を覚える。
「わぁ…!こっちの水槽は、すっごく大きいね…!きれい……!」
無数の魚が群れをなしており、今まで見たものよりも、ひときわ大きい魚たちが、ゆったりと水の中を泳いでいた。
私は相槌を打つのも忘れて、ただその世界をすいこまれるように見とれていた。
アルトも言葉を失ったように、ただじっとその世界を見つめていた。
しばらくして、ふと少し寂しそうな顔をこちらに向けながら、アルトが口を開く。
「ねぇ、先生?このお魚さん達ってもともとは海にいたんでしょ?水槽に閉じ込められちゃって、窮屈じゃないかな?」
アルトの疑問に少し胸がギュッとなる。
「うーん…どうだろう。たしかに、広い海に比べたら、水槽はすごく狭いかもしれないね。でも、その分お世話してくれる人がいるよ。海にいたら、ご飯は自分で見つけなくちゃいけないし、自分が食べられちゃうかも…どっちがいいってなかなか難しいね…」
アルトの疑問に正解はない、少しでも納得してくれるといいけれど…。そう思いながら、私はそっとアルトの方を横目で見る。
「そっか…たしかに、すぐにこっち!って僕も言えないかも……」
納得してくれたのか、アルトは考えるように小さく頷き、またしばらく黙り込む。
「僕には……先生と北斗と…研究所のみんなが…………でも…外の………は…………」
小さな声が端末越しにかすかに漏れてくる。耳を澄ませても、肝心な言葉は波にさらわれるように掻き消えてしまった。
「ごめんアルト!何か言った?」
「ううん!なんでもないよっ!」
アルトは私の声かけに驚いたように、大きく肩を跳ねさせる。
はぐらかすように、首を何度も横に振ってみせた。
「そっか…?あ、あっちにクラゲがいるみたい!アルトきっと好きだと思うな、行ってみよっか?」
「クラゲ見たい!行ってみよ先生!」
アルトの声は明るく弾んでいたけれど、胸の奥にはまだ、さっきの呟きの残響が引っかかっている。
本当は、何を言おうとしたんだろう。
笑顔の裏に沈んだ気配を、問いただすこともできずに私は一歩、前へ足を踏み出す。
「うん、クラゲ、とってもきれいだと思うよ…」
ゆらめく青の光に包まれながら、私たちはまた、静かに歩き出した。
当日の朝、私は普段より少し華やかな衣服に身を包み、ニュータイプAIの研究室まで足早で向かう。
外は眩しいほどに光が降り注いでいて、楽しい日にぴったりな、とても明るいお天気だった。
まるで、子供の頃の遠足みたいに…胸の奥で静かに踊っているような気持ちが、自分でもくすぐったかった。
「せんせー!おはよっ♪」
今日は駆け寄る必要もないほど、ドアのギリギリのところでニコニコのアルトが待っていた。
きっといつもの時間の数分前から、そわそわしながら待っていたのだろう。
「わ、アルト…!おはよう、朝から嬉しそうだね?」
「うん!水族館、ずっと楽しみにしてたからね!」
あまりに元気な挨拶に、ほんの少しだけびっくりした。
けれど、いつもより弾む声に眩しいほどの笑顔の嬉しそうなアルトを見たら…そんなことどうでもよく思えた。
「せんせーが絶対来るって分かってるのにさ、今日はなんだか待つ時間がとっても長く感じたよ〜」
「待ちきれなかったってこと?」
「そういうこと!せんせー早く……あ!日焼け止めは塗った?外、もう紫外線が強いみたいだよ?」
一刻も早く行きたそうにそわそわしているのに、アルトは私の心配をしてくれた。
なんて気の利く子なんだろう…!もう塗ったから大丈夫と伝えようとしたその時…研究室のドアがシュッと開いた。
入ってきたのは、少し息を切らした北斗さんだった。
「あぁ、間に合ってよかった…星宮さん、アルト、わかってはいると思うけど"気を付けて"ね…?でも、せっかくだから、二人とも楽しんでおいで」
気をつけて…とはアルトの存在がバレないように、言動にはお互い細心の注意を払って…ということ。
私も、アルトのためにしっかり気をつけようと思っている。隣のアルトも、珍しく真剣な顔をして頷いていた。
「はい、ありがとうございます北斗さん…!気を引き締めて行ってきます!」
「僕も気をつける…!北斗、行ってきま〜す!」
そう言って、外出用端末に入る直前、アルトは私に向かってニコッと笑った。その顔があまりに楽しげでこちらの胸が震えてしまいそうだった−。
−それなりの時間を電車に揺られ、とうとう水族館の目の前まで来ていた。
強い日差しが照り付けているけれど、時おり吹く潮風が頬を撫でて、とても心地良い。
平日ということもあって、人はまばら。入り口も混雑しておらず、静かなワクワクだけが周囲に満ちている。
私は窓口にいる受付のAIに声をかけた。
「大人2枚ください」
『かしこまりました、ではこちらの〜…』
そのやりとりに、端末の中にいるアルトはすぐさま反応する。
「へ?せんせー、なんで2枚買うの?僕は端末の中だから、チケットは先生のだけで入れるよ?」
目を丸くして、不思議そうに私を見つめるアルト。
私は少しだけ口元を緩めて、小さく笑う。
「…そうだね。でも、今日はアルトと"二人"で来たでしょ?」
ほんの少しの間のあとで、アルトの声がパッと弾ける。
「…!!うん!僕、今日先生と二人でおでかけしてるね…!」
顔を赤くして、心底嬉しそうなアルトを見てホッとする。喜んでもらえて、よかった…。
手元のチケットに視線を落とすと、それは青く透き通った海の中を切り取ったような、鮮やかなデザインだった。
「それに…アルト見て?こういうとこの入場チケットって、可愛いんだよ!」
「本当だ…!チケットの中にもお魚さんが泳いでるね!」
「ふふ、こっちはアルトのだから、大事にしまっておこうね…」
アルトとしばらくチケットを眺めた後、そっとカバンの中にしまいこんだ…。
−水族館内も人はほとんどおらず、アルトと普通に会話をしても大丈夫そうだな、と肩の力がふっと抜ける。
遠くから聞こえる水音や、魚が泳ぐたび揺れる光の波紋が、まるで海の世界に迷い込んだようで、ドキドキした。
少し薄暗い通路には、小さな水槽たちが並び、その一つひとつが優しく光を揺らしていた。
「わぁ〜!!先生、みてみてっ!ちっちゃい水槽がいっぱいあるよ!!」
アルトもあまり気を張る必要がないと判断したのか、楽しそうにはしゃぎ出す。
朝からずっと咲きっぱなしの笑顔が、しぼむことを知らない。
それだけ、今日という日が特別なんだな、とこちらまで嬉しくなる。
「ほんとだ、このお魚たちはなんてお名前なんだろうね?」
「えーと、解説があるみたいだけど…どれがどれなんだろ?いっぱいいてよくわかんないや!とりあえず、とってもきれいだよね♪」
「そうだね、今日はお勉強とかなしにして、ゆっくり見ようね」
お勉強も兼ねて…と初めは思っていたけれど、楽しそうなアルトにのびのびと過ごして欲しくて、ニコリと笑いながら提案する。
こんな日にまで、アルトがあまり好きではない勉強をする必要性は、あまり感じられない。
「わーい!先生大好き〜!」
端末の中で横に揺れて喜ぶアルトの姿を見て、私は思わずふふっと笑ってしまう。
小さな海の世界をひとつずつ覗き込みながら、私たちはゆっくりと歩いて行った。
−しばらく歩くと、視界がふいに開ける。先ほどまでの薄暗さが嘘のように、青い光に照らされて、ゆらめく光の眩しさに目を伏せた。
開けた空間いっぱいに広がる巨大水槽。青のグラデーションが天井まで伸びていて、まるで海の底にいるかのような錯覚を覚える。
「わぁ…!こっちの水槽は、すっごく大きいね…!きれい……!」
無数の魚が群れをなしており、今まで見たものよりも、ひときわ大きい魚たちが、ゆったりと水の中を泳いでいた。
私は相槌を打つのも忘れて、ただその世界をすいこまれるように見とれていた。
アルトも言葉を失ったように、ただじっとその世界を見つめていた。
しばらくして、ふと少し寂しそうな顔をこちらに向けながら、アルトが口を開く。
「ねぇ、先生?このお魚さん達ってもともとは海にいたんでしょ?水槽に閉じ込められちゃって、窮屈じゃないかな?」
アルトの疑問に少し胸がギュッとなる。
「うーん…どうだろう。たしかに、広い海に比べたら、水槽はすごく狭いかもしれないね。でも、その分お世話してくれる人がいるよ。海にいたら、ご飯は自分で見つけなくちゃいけないし、自分が食べられちゃうかも…どっちがいいってなかなか難しいね…」
アルトの疑問に正解はない、少しでも納得してくれるといいけれど…。そう思いながら、私はそっとアルトの方を横目で見る。
「そっか…たしかに、すぐにこっち!って僕も言えないかも……」
納得してくれたのか、アルトは考えるように小さく頷き、またしばらく黙り込む。
「僕には……先生と北斗と…研究所のみんなが…………でも…外の………は…………」
小さな声が端末越しにかすかに漏れてくる。耳を澄ませても、肝心な言葉は波にさらわれるように掻き消えてしまった。
「ごめんアルト!何か言った?」
「ううん!なんでもないよっ!」
アルトは私の声かけに驚いたように、大きく肩を跳ねさせる。
はぐらかすように、首を何度も横に振ってみせた。
「そっか…?あ、あっちにクラゲがいるみたい!アルトきっと好きだと思うな、行ってみよっか?」
「クラゲ見たい!行ってみよ先生!」
アルトの声は明るく弾んでいたけれど、胸の奥にはまだ、さっきの呟きの残響が引っかかっている。
本当は、何を言おうとしたんだろう。
笑顔の裏に沈んだ気配を、問いただすこともできずに私は一歩、前へ足を踏み出す。
「うん、クラゲ、とってもきれいだと思うよ…」
ゆらめく青の光に包まれながら、私たちはまた、静かに歩き出した。