愛しのマイガール
私はこれまでの婚約者教育を思い出し、微笑みを返しながら彼女の正面に腰を下ろした。けれど内心では、手のひらにじわりと汗がにじんでいるのを感じていた。
「今日は、どんなご用件でしょうか?」
「いえ。ほんのご挨拶よ」
薫子さんはカップに手を添え、ゆったりと笑みを浮かべる。
「瑠璃さんがこちらに住まわれていると伺って……ずっと、一度お話ししたいと思っていたの」
彼女の言葉には曖昧な余白が多すぎて、どこまでが本音なのか読み取れない。だけど、その完璧に整えられた所作の一つ一つが、こちらの呼吸を静かに、けれど確実に狂わせてくる。
「……それは…恐縮です」
そう答えると、薫子さんはふふっと笑った。まるで、何かを知っているとでも言いたげに。
「あなた、ずいぶんと守られているのね。ただの一般人が月城グループの中枢に関わるなんて、普通じゃ考えられないわ」
彼女の声に明確な棘はない。けれど、言葉の裏にある“本当の意味”は否応なく胸に突き刺さる。
「……私は、ただ与えられた役割の中で、できることをしているだけです」
静かにそう返すと、薫子さんは一瞬だけ、眉をわずかに上げた。
「本当にそうかしら?役割以上の“特別な立場”を得ているように見えるけれど?」
その言葉に、私は喉の奥が少しだけ詰まるのを感じた。薫子さんが言っているのは、間違いなく私がハルちゃんの婚約者であること。
分不相応という言葉が、言動の端々に見え隠れしていた。
でも、私は目を逸らさなかった。彼女のまなざしをまっすぐに受け止めた。私のその視線に、薫子さんの笑顔が一瞬だけ硬くなったように見えた。
そして、そっとカップを置きながら──まるでなにげない雑談のように、彼女は言った。
「……瑠璃さん。無謀な恋を選んだのなら、それなりの“代償”を払う覚悟はあるのよね?」
声の調子は、あくまでも穏やかだった。けれどその微笑みの奥に潜む冷ややかな敵意を、私は確かに感じ取った。
——ああ、この人は本気で私を見下している。
月城の人間だと名乗ることも、知らずに翔真さんと関係を持っていたことも、何一つ許せないのだ。
それでも、私は俯かず、唇を引き結んだまま彼女を見つめ返した。
胸の内に、不安も恐怖もなかったわけじゃない。でも……引けない。
ハルちゃんの不在の時のこの来訪が、偶然ではないとなんとなく分かる。だから私は、無言でその場に立ち続けた。
そしてその沈黙こそが、薫子さんの心を逆撫でしたのかもしれない。彼女は小さく笑いながら、瞳を冷やした。