愛しのマイガール
「しょうもねえ雑談に付き合うつもりはない。さっさと始めるぞ」
天城さんのその一言に、私は思わず背筋を伸ばした。
鋭く冷たい声音。手際よく書類の束を取り出していくその動きが、どこか手術の準備のように無駄がなくて、無性に緊張してしまう。
「まず確認したいのは、蓬来さんが受け取った“婚約破棄に対する慰謝料請求書”が本当に正当なものかどうかです」
そう言いながら、一枚の紙に細長い指を滑らせた。
「榊氏と“婚約者”を名乗る九条薫子との間には、昨年末に交わされた正式な婚約合意書があります。両家で取り交わした結納の書類も、すでに提出されている」
冷静で感情のない声。それが部屋の空気をまた一段と冷やしていくのがわかった。
「九条…薫子……?」
名前を口に出した瞬間、それが誰かを私はすぐに理解できなかった。けれど、その名前を聞くだけで恐怖が呼び起こされ、胸の奥が重たくなる。
「九条総合グループの令嬢だな」
私の呟きに答えたのは、ハルちゃんだった。
「九条は医療に金融、不動産、いろいろ手がけてる国内でも有数の大手企業だよ。その女、聞き覚えがあると思ったら以前チャリティパーティーか何かで顔を見たことがあった」
「……ハルちゃんの知り合い?」
「いや、挨拶を交わしたくらいだ。けど、ああいう場に出てくるってことは家の看板を背負ってしっかり教育されてるってことだろうな」
ハルちゃんはそう言って脚を組み替えた。
表情は変わらないまま、けれど目だけがじっと資料に注がれていて、何かを読み取ろうとしているのが伝わってくる。
「ああいうタイプは表の顔は完璧でも、腹の中は何を考えてるかわからない」
その言葉に、私の胸がざわついた。
「……そんな人と、翔真さんは…」
「婚約は成立していますね」
天城さんの声が、それを決定事項として静かに告げた。
音もなく突きつけられた現実が、私の心にどっしりと重くのしかかる。
——あの人は、私じゃない誰かと“婚約”していた。
しかも、私には到底届かないような、立場も育ちも違いすぎる相手と。
胸の奥が、じくじくと痛んでいた。