傲慢な世界よ、私が壊してあげるわ~公爵令嬢に転生したOLは悪の覇道を突き進む

第127話 真面目な族長

 クライナイン王国の西部に位置し、峻険な山々に抱かれた辺境伯領。その中枢であるキゾルド城の執務室には、重苦しい緊張感が張り詰めていた。
 黒檀の机の前に座るリアル・グラック辺境伯は、微動だにせず、目の前に跪く男を見下ろしている。男は、目立たない灰色の外套を羽織った、どこにでもいる行商人のような風体をしている。だが、その正体は、クライナイン王国情報庁長官マリユス・ピエールが放った優秀な密偵の一人だった。

「……間違いないのだな」

 リアルの低く、格式張った声が室内に響く。

「はい。ラスカ王国のヨルタン国王は、全軍の七割にあたる十五万の兵の動員を決定しました」

 密偵の報告は淡々としていた。だが、その十五万という数字が持つ軍事的な意味は、聞く者の精神を容易く押し潰すほどの重圧をもたらす。
 現在、リアルが動員できる辺境伯軍は、最大にかき集めても八千程度に過ぎない。およそ二十倍の兵力差だ。まともに平原で激突すれば、数刻も経たずに自軍はすり潰され、辺境伯領は無数の軍靴に踏み荒らされる。それが火を見るより明らかな現実だった。

「見事に餌に食いついたということか……。さすがだな」

 リアルは、無意識のうちに感嘆の言葉を漏らしていた。圧倒的なスケールで他国を盤上の駒として操るその知略に、戦慄すら覚える。

「辺境伯様、今なんと?」

 背後に控えていた側近が、主の微かな呟きを訝しんで問い返す。圧倒的な死の軍勢が迫っているというのに、リアルの声に焦燥ではなく、どこか感心したような響きが含まれていたからだ。

「なんでもない」

 リアルは短く答え、密偵に向き直った。

「それで、敵の先陣はいつ頃こちらのアラスエ川国境に到達する?」
「一昨日に動員令が発令されました。軍の規模からして行軍には時間がかかりますが、早ければ一ヶ月後には国境付近へ姿を現すかと」
「分かった。マリユス長官によしなに伝えてくれ」

 リアルが手で退室を促すと、密偵は深く一礼し、足音一つ立てずに執務室から姿を消した。密偵が去ると同時に、リアルは側近へ矢継ぎ早に指示を飛ばした。

「ただちに全軍へ動員令を発令せよ。アラスエ川沿いの監視を強化し、キゾルド鉱山へと続く街道沿いの砦に物資を運び込め。可能な限りの兵をかき集め、徹底した迎撃の態勢を整えるのだ」
「はっ!」
「それから、王都の女王陛下へ、急ぎ早馬と伝書鳩を放て。ラスカ王国十五万侵攻の確報とともに、至急の来援を請う旨を伝えるのだ。一刻の猶予もならんぞ」
「承知いたしました。すぐに手配いたします!」

 側近は踵を返し、執務室の扉へと向かう。その背中を見つめながら、リアルはふと最も重要なことを思い出した。戦争という盤上において、彼にとって一番守るべきものは単なる領土の境界線ではない。そこに住まう民の命だ。

「待て!」

 リアルの腹の底から響く鋭い声に、側近が慌てて足を止める。

「領内に点在する我が族員たちに、速やかにキゾルド城下へ避難するよう伝えろ! 家財や物資はすべて捨て置かせろ。敵に奪われても構わん。命を最優先にして撤退させよ」
「承知いたしました。直ちに避難誘導の使者を疾走させます!」

 側近が勢いよく一礼し、今度こそ執務室を後にした。
 重厚なオーク材の扉が閉まり、部屋には再び静寂が降り積もる。壁掛け時計の針が時を刻む音だけが、過酷な現実への秒読みのように響いていた。リアルは、一つ深呼吸をすると、ゆっくりと執務机の脇、部屋の奥にあるソファの方へと視線を向けた。

「ふぁあ……ようやく終わったか。真面目な族長様は、相変わらず指示が丁寧で退屈するな」

 呑気な欠伸混じりの声が、格式張った執務室の空気を抜くように響く。そこには、ソファに深く背中を預け、長い脚を投げ出している一人の男がいた。軽装の甲冑を纏い、無精髭を生やしたその男は、今まさに十五万の敵軍が迫っているという状況下にあっても、まるで酒場にでもいるかのような図太い態度を崩さない。
 リアルは、不躾な態度を隠そうともしないその男に向けて、呆れたような、しかしどこか深い信頼を込めた視線を向けた。

「貴様の言う通りにしたぞ」

 リアルは腕を組み、鋭い眼光で男を真っ直ぐに射抜く。

「それで、策を聞こうか?」

 その問いに対し、その男は無精髭の生えた顎をさすりながら、不敵な笑みを浮かべた。
< 128 / 145 >

この作品をシェア

pagetop