傲慢な世界よ、私が壊してあげるわ~公爵令嬢に転生したOLは悪の覇道を突き進む
第135話 女騎士
ヴィスタ帝国の頭脳たる宰相ヘルベルト・マルテンシュタインは、重厚な黒檀のデスクに置かれた報告書に目を通していた。
そこには、隣国ラスカ王国の十五万の軍勢がペトロイオ草原で壊滅的な打撃を受け、半数以上が帰らぬ人となった事実が淡々と綴られている。
時計の針を一か月半前に戻せば、この帝都クヴァントも熱狂と焦燥の渦に飲み込まれそうになっていた。クライナイン王国がバニア皇国へ六万もの大軍を差し向けたという情報は、即座に届いていた。
『今こそ、あの小娘に雪辱を果たす時だ』
不可侵条約の期限が切れるのを待ちわびていたマテウス二世は、玉座から身を乗り出し、即座にクライナイン王国への派兵を決意した。かつて、ミレーヌの放ったたった一つのハッタリによって、十五万の帝国軍を撤退させられた屈辱。後で気が付いた皇帝の荒れ狂う様を宥めた宰相はその時のことを今でも思い出す。
この激情する皇帝に対して、ヘルベルトは理詰めの諫言で立ち塞がった。敵の背後が手薄になるという露骨な状況は、罠の可能性が高い。「バニア皇国とラスカ王国の動向を見極めるべき」という現実主義の正論で、猛る皇帝を説得し、出陣を思いとどまらせたのだ。
「やはり、罠か」
ヘルベルトは報告書から視線を上げ、執務室の暗がりに佇む影に話しかける。
「お前の言う通りだったな」
「わざと隙を見せて誘い出し、最も有利な地で罠にかける。あの女のやりそうなことです」
影から進み出たのは、一人の女騎士だった。帝国の軍服を纏っているが、その顔の右半分は薄い黒のレースのヴェールで覆い隠されている。風がヴェールを揺らすと、焼けただれた凄惨な火傷の痕が覗いた。
「では、バニア皇国はどうなる?」
ヘルベルトが問いを重ねる。
「単体で対抗するのは難しいでしょう。滅亡かと」
「皇国は未だ二十万以上の兵を擁している。いかにミレーヌの軍が精強でも、数の差は歴然としているが」
「いえ。あの女の武器は、その程度の差を簡単に埋めます。旧態依然とした軍隊がどれほど集まろうと、容易く屠られるだけです」
女騎士の声には、その合理性の前に敗れ去った経験があるかのような、重く暗い確信が宿っていた。
「そうか……」
「しかし、これで私の策がより盤石になります。あの女がバニア皇国を呑み込んだとしても、広大な領土と反発する民を即座に消化しきることは不可能。必ず綻びが生じます」
女騎士の左の瞳が、レースの奥で光った。
「確かに、理にかなっている」
ヘルベルトは短く同意しつつ、鋭い眼光で女騎士を射抜く。
「だが、気になっていることがある。お前は自身の目的を達成するため、この帝国を都合の良い『駒』として見てはいないか?」
宰相の鋭い問いかけにも、女騎士は微動だにしない。
「親や縁者を殺された恨みを晴らしたいのは当然の感情です。ですが、一年前に死の淵を彷徨っていた私を拾い上げていただいた閣下の御恩に報いたい、その一心でございます」
彼女は恭しく頭を下げた。だが、ヘルベルトの疑念が完全に晴れたわけではない。
「御恩、か……」
「私の配下は未だ彼の国に留まり、活動を続けております。策通りに事が運べば、必ずやこの帝国が大陸の盟主となります。そして、事がうまく運べば褒美として、あの銀髪の女の首をいただきたく存じます」
女騎士の言葉には、底知れぬ憎悪と執念が絡みついていた。ヘルベルトは目を閉じ、思考を巡らせる。
マテウス二世は名君だが、ミレーヌへの雪辱となると感情的になりかねない。目の前の女の知恵は本物であり、ミレーヌの思考回路を誰よりも深く理解している。劇薬ではあるが、皇帝の暴走を制御し、帝国を真の覇者へと押し上げるためには、この女の知略を利用すべきだ。ヘルベルトは目を開き、立ち上がった。
「わかった。これから陛下に謁見する。お前も付いてきてくれ」
「御意のままに」
女騎士は深く一礼した。
そこには、隣国ラスカ王国の十五万の軍勢がペトロイオ草原で壊滅的な打撃を受け、半数以上が帰らぬ人となった事実が淡々と綴られている。
時計の針を一か月半前に戻せば、この帝都クヴァントも熱狂と焦燥の渦に飲み込まれそうになっていた。クライナイン王国がバニア皇国へ六万もの大軍を差し向けたという情報は、即座に届いていた。
『今こそ、あの小娘に雪辱を果たす時だ』
不可侵条約の期限が切れるのを待ちわびていたマテウス二世は、玉座から身を乗り出し、即座にクライナイン王国への派兵を決意した。かつて、ミレーヌの放ったたった一つのハッタリによって、十五万の帝国軍を撤退させられた屈辱。後で気が付いた皇帝の荒れ狂う様を宥めた宰相はその時のことを今でも思い出す。
この激情する皇帝に対して、ヘルベルトは理詰めの諫言で立ち塞がった。敵の背後が手薄になるという露骨な状況は、罠の可能性が高い。「バニア皇国とラスカ王国の動向を見極めるべき」という現実主義の正論で、猛る皇帝を説得し、出陣を思いとどまらせたのだ。
「やはり、罠か」
ヘルベルトは報告書から視線を上げ、執務室の暗がりに佇む影に話しかける。
「お前の言う通りだったな」
「わざと隙を見せて誘い出し、最も有利な地で罠にかける。あの女のやりそうなことです」
影から進み出たのは、一人の女騎士だった。帝国の軍服を纏っているが、その顔の右半分は薄い黒のレースのヴェールで覆い隠されている。風がヴェールを揺らすと、焼けただれた凄惨な火傷の痕が覗いた。
「では、バニア皇国はどうなる?」
ヘルベルトが問いを重ねる。
「単体で対抗するのは難しいでしょう。滅亡かと」
「皇国は未だ二十万以上の兵を擁している。いかにミレーヌの軍が精強でも、数の差は歴然としているが」
「いえ。あの女の武器は、その程度の差を簡単に埋めます。旧態依然とした軍隊がどれほど集まろうと、容易く屠られるだけです」
女騎士の声には、その合理性の前に敗れ去った経験があるかのような、重く暗い確信が宿っていた。
「そうか……」
「しかし、これで私の策がより盤石になります。あの女がバニア皇国を呑み込んだとしても、広大な領土と反発する民を即座に消化しきることは不可能。必ず綻びが生じます」
女騎士の左の瞳が、レースの奥で光った。
「確かに、理にかなっている」
ヘルベルトは短く同意しつつ、鋭い眼光で女騎士を射抜く。
「だが、気になっていることがある。お前は自身の目的を達成するため、この帝国を都合の良い『駒』として見てはいないか?」
宰相の鋭い問いかけにも、女騎士は微動だにしない。
「親や縁者を殺された恨みを晴らしたいのは当然の感情です。ですが、一年前に死の淵を彷徨っていた私を拾い上げていただいた閣下の御恩に報いたい、その一心でございます」
彼女は恭しく頭を下げた。だが、ヘルベルトの疑念が完全に晴れたわけではない。
「御恩、か……」
「私の配下は未だ彼の国に留まり、活動を続けております。策通りに事が運べば、必ずやこの帝国が大陸の盟主となります。そして、事がうまく運べば褒美として、あの銀髪の女の首をいただきたく存じます」
女騎士の言葉には、底知れぬ憎悪と執念が絡みついていた。ヘルベルトは目を閉じ、思考を巡らせる。
マテウス二世は名君だが、ミレーヌへの雪辱となると感情的になりかねない。目の前の女の知恵は本物であり、ミレーヌの思考回路を誰よりも深く理解している。劇薬ではあるが、皇帝の暴走を制御し、帝国を真の覇者へと押し上げるためには、この女の知略を利用すべきだ。ヘルベルトは目を開き、立ち上がった。
「わかった。これから陛下に謁見する。お前も付いてきてくれ」
「御意のままに」
女騎士は深く一礼した。