傲慢な世界よ、私が壊してあげるわ~公爵令嬢に転生したOLは悪の覇道を突き進む

第141話 未来への布石

 オメア将軍の討ち死に、そして二十万を超えるバニア皇国軍が完全に壊滅したという報せは、首都カインエへもたらされた。
 絶対の自信を持って送り出したバニア皇国軍が霧散したという現実は、王都の空気を完全に凍りつかせた。王宮は、恐慌状態に陥った貴族や使用人たちの悲鳴と足音で溢れ返っていた。
 王の私室。

「どうすればいいのだ!」

 顔面を土気色に染めた皇王ガリオン三世は、豪華な絨毯の上をあてもなく徘徊していた。部屋に漂っていた甘い香水の匂いは、彼自身から滲み出る濃密な焦燥の汗の匂いによって完全に書き消されている。
 そこに、静かな足音を立てて相国ラフル・シュヴェリーンが入室してきた。長年、ガリオンを補佐してきた老臣の顔に、取り乱した様子は一切ない。

「陛下、亡命の準備を」

 ラフルは、落ち着いた声で静かに告げた。その言葉に、ガリオンは反射的に振り返る。

「この国を捨てろというのか!」
「もはや戦う兵もおりません。このまま城に籠もっても、無為に民が苦しむだけです。それに、籠城戦というものは外部からの救援が来ることが絶対の条件ですが、現在の我が国には、そのような当てもございません」

 ラルフの理詰めの説得に対して、ガリオンは、反論できなかった。玉座にへたり込み、両手で顔を覆う。

「……どこに逃げればいいのか?」
「西に位置するクムーラーナ共和国がよろしいかと。あの国ならば、ミレーヌの軍勢もすぐには届きません」
「相国も一緒に来てくれるのか?」

 すがるような主君の問いに対し、老臣は静かに首を横に振った。

「いえ、私は敗戦処理、そして生け贄として残ります」
「生け贄だと……?」
「あの女王は、民の人気取りと統治の安定化のため、旧体制の最高権力者を必ず処刑します。陛下がいないとなれば、相国である私がその役目を引き受けます」

 淡々と自らの死を口にする忠臣の姿に、ガリオンの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「ラフル……」
「陛下、お急ぎ下さい。敵の足は想像以上に速いはずです」

 その日の夜。月明かりすら乏しい闇に紛れ、ガリオン三世、その妻、愛妾さらに子供たちを乗せた数台の質素な馬車が首都の西門から抜け出していった。
 主君を見送ったラフルは、ただちに王宮へ戻り、逃げ支度をする文官たちを叱咤して回った。

(ここで私が投げ出せば、皇国は完全に無秩序な地獄と化す。略奪と暴動が起き、罪なき民が血を流すことだけは、何としても防がねばならない)

 ラフルは、新しい支配者となるであろうクライナイン王国へ引き継ぐための、戸籍、税収、土地台帳といった膨大な行政文書を、血を吐くような思いで整理し続けていた。
 敵国への利敵行為ではない。これは、バニアの民が新しい統治下で不当な扱いを受けず、一刻も早く平穏な生活を取り戻すための、命を懸けた盾なのだ。

(そして、いつの日か……生き延びた皇王陛下が再び立ち上がる時、民の心に皇国への信頼という『細い糸』が残っていなければならない)

 疲労で視界がぼやけ、震える老木のような指先に力を込める。
 全ては愛するバニア皇国と、無辜の民の未来のため。ラフルは蝋燭の灯りが尽きるまで、ただひたすらに、己の命を削って完璧な政の引き継ぎ書類を束ね続けた。

◆◇◆◇

 それから十日後。首都カインエの城下に、地鳴りのような足音を響かせてクライナイン王国軍が姿を現した。先陣を務めるジャック・レルネ大将が率いる軍勢は、長旅の疲労を微塵も感じさせない。太陽の光を反射して冷たく輝くマスケット銃の列と、一糸乱れぬ隊列は、圧倒的な強者の威圧感を放っていた。
 だが、彼らを迎え撃つ防衛部隊はいない。
 城門は大きく開け放たれ、白旗が力なく風に揺れていた。
 その門の下に、一人の男が立っていた。粗末な麻の服を身にまとい、自らの両手を太い縄で縛らせた相国ラフルである。
 ジャックは騎馬の歩みを止め、ゆっくりと馬から降りた。歴戦の将らしい隙のない足取りで、静かに歩み寄る。

「バニア皇国相国、ラフル・シュヴェリーンと申す。我が国はクライナイン王国に全面降伏する。全責任はこの私にあるゆえ、煮るなり焼くなり好きにするがよい」

 ラフルが堂々とした態度で口上を述べると、ジャックは鋭い視線で老臣の顔を真っ直ぐに見据えた。
 数秒の沈黙が流れる。
 やがてジャックは、腰に帯びていた短剣を静かに引き抜いた。ラフルが目を閉じた瞬間、ジャックの刃は老臣の首ではなく、その両手を縛っていた縄を的確に切断した。
 バサリと重い縄が地面に落ちる。

「……これは、どういうことか?」

 驚きに目を見開くラフルに対し、ジャックは短剣を鞘に収め、丁重に一礼した。

「どうか、城内の案内をお願いしたい。我が軍は、無用な略奪を固く禁じられておりますのでご安心を」
「……承知いたしました。ご案内いたします」

 ラフルは深く頭を下げた。
 こうして、二人の男は並んで首都カインエの石畳を踏みしめ、城内へと歩を進めていった。長きにわたり繁栄を誇ったバニア皇国は、ここに完全に消滅した。
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