末の妹として大切にされてきましたが、 妻として溺愛されることになりました

第六章 愛する人は……④

 クレアの声が出なくなってから、セシルは一度も彼女の元を訪れていない。



 少し心配になったクレアは、セシルの部屋を訪れることにした。彼の部屋に近づくにつれ、ヴァイオリンの音色が聞こえてくる。



 しかしそれは、いつもの音ではなかった。



 高く低く、途切れ途切れで、正確でも美しくもない。

 セシルの不安定さを表すかのような、どこか悲痛な音色だ。



 混乱しているのだろう。セシルの葛藤をヴァイオリンの音色が映し出している。

 クレアが部屋をノックすると、ヴァイオリンの音がピタリと止んだ。扉が開き、焦燥した様子のセシルが顔を覗かせる。



「あぁ、クレア!」



 セシルがとっさに笑顔を作るが、どこか後ろめたさも感じられる。



「どうぞ入って。メイドにお茶でも持ってこさせようか?」



 クレアは首を横に振り、ペンと紙切れを取った。



【ご機嫌はいかがですか? しばらくお会いしていませんでしたので、お顔を拝見したくなったんですの】



 セシルはその文面を見て、申し訳なさそうに項垂れる。



「ごめんよ、クレア。本当ならボクのほうが、クレアを見舞いに行かないといけないのに」



 大きくため息をついたセシルは、拳を握ったり開いたりしている。何かを打ち明けることを躊躇っている様子だ。



【私は大丈夫ですわ。声が出ないだけで、元気ですもの】



 クレアはにっこり笑ったが、セシルはその美しい顔を歪ませた。



「どうか気を悪く、しないでほしいんだけど」



 セシルは言葉を選びつつ、ぽつりぽつりと話し始める。



「ボクにとって音楽は生きることそのものなんだ。形のない感情を具現化する唯一の手段だし、同時に人生を彩る欠かせない存在だとも思ってる」



 相槌を打つように、クレアはうなずく。



「クレアの声はその音楽と同じくらい大事で、クレアそのものだって思ってた。王家の血筋を引いてると聞いて、さらに納得できたよ。それほどまでにクレアの声は素晴らしいから」



 恍惚とした表情で語っていたセシルだったが、突然頭を抱えその場にしゃがみ込んだ。



「あぁ、自分の浅はかさが嫌になるっ」



 これまで聞いたことがないほどの大声に、クレアはビクッと身体を震わせた。



「クレアの声はたくさんある魅力のひとつに過ぎないのに、なぜか愛情が薄まってしまったかのように感じるんだ。世界が急に静寂に包まれて、どんな旋律も心に響いてこない。ボクはクレアの声だけに、囚われていたの?」



 こんなに取り乱し、追い詰められているセシルを見るのは初めてだった。

 その原因がクレアの声の喪失なのだから、彼女が彼を苦しめているということになる。彼女が胸を痛めていると、セシルがふらりと立ち上がった。



「こんなこと、クレアに言うべきじゃないよね?」



 呆然としたセシルの瞳は虚ろで、クレアは直視できない。



「わかってるのに、どうしようもできない。声なんてなくたって、クレアがそこにいるだけで十分なはずなのに、胸の奥が締め付けられて……」



 セシルは自虐的な笑みを浮かべて、吐き捨てる。



「ボクはなんて矮小なんだろう。結局ボクはクレアの声に依存してただけ」



 いてもたってもいられず、クレアはセシルの身体にしがみついていた。彼は戸惑ってしまい、されるがままになっている。



「どうしたの、クレア?」



 クレアはそっとセシルから離れると、急いで紙に文字を走らせる。



【セシル兄様にとって音楽がどんなものか、私は良く存じています。その音楽と私の声を、セシル兄様が同等に扱ってくださっていることが嬉しいのです】



「でもボクは」



 クレアはセシルの言葉を遮るように、何度も強く首を横に振った。



【音楽ほど大切なものと、私の声が同じだと言うなら、それは私を愛してくださっているということと同義ですわ。セシル兄様にとって、私が特別な存在であることをとても光栄に思います】



 セシルはクレアの書き付けを見て、感極まったかのように涙を溢れさせる。何か言おうとするのだが、感情が込み上げてくるばかりで言葉にならないらしい。



 しばらく涙が流れるままにしていたセシルだったが、そっとハンカチで目元を押さえると、赤くなった瞳をクレアに向けて言った。



「ありがとう。いつだってボクを救ってくれるのはクレア、君だよ」



 クレアは照れてしまって、はにかんだ笑顔を向けるばかりだったが、セシルは彼女の手を取り力を込めて話し始める。



「ボクは幼い頃から、美しい旋律や音色に惹かれていた。でもこうしてボクが音楽家になれたのは、クレアが背中を押してくれたからだ」



 音楽は貴族の嗜みであっても、音楽家は職業だ。

 たとえ王侯貴族のお抱えや宮廷楽師になったところで、社交の場でバックグラウンド・ミ ュージックを提供することが主たる役割。地位も低ければ、給料も少なく、音楽という商品を提供する職人でしかない。



 侯爵家の嫡男が目指すようなものではなく、セシルもそんなことはよくわかっていた。だから音楽家への憧れを封印し、ただ楽しむことに集中していたのだ。



 しかしクレアは知っていた。セシルがピアノの前で指を動かすたび、ヴァイオリンの弓を引くたび、彼の瞳がどれほど輝くのかを。



「セシル兄様は、音楽家になりたいのでしょう」



 いつものようにセシルの演奏に耳を傾けていたクレアが、ふいに言った。

 セシルは手を止め、曖昧に笑う。



「どうして、そう思うの」

「セシル兄様の曲は、本物ですもの。何かこう、他の音楽とは全く違うのですわ」



 クレアは上手く言葉では表現しきれない感情を、必死で形にしようと身振り手振りを大きくして続ける。



「場を賑やかにするのではなく、音楽そのものを楽しむためのものなのです。まるで兄様自身の魂が、音の形を借りて語りかけてくるようですわ。兄様の曲を聴いていると、新しい感情を知るのです。こんなにも心惹かれるものは他にありませんわ」



 セシルは幼いクレアの鋭い洞察に驚きを隠せなかった。

 音楽を通してセシルが訴えたかったことを、クレアが敏感に感じ取り、ひとつの芸術として鑑賞してくれていたからだ。



「でも、きっと理解してもらえないよ」

「私が理解しますわ。だって音楽を作るセシル兄様は、誰よりも素敵ですもの」



 確かな思いが漲る言葉を聞き、セシルは感謝と感動に打ち震えていた。彼の孤独な夢が、他者に初めて受け入れられたからだ。



「いい、のかな? 音楽家になっても」

「もちろんですわ。私は心から応援しますし、微力ながら説得のお手伝いもいたします。きっと皆わかってくれますわ」



 クレアが朗らかに微笑むと、セシルは兄は鍵盤の上に置いていた手をはなした。



「ありがとう」



 あの時もセシルは、今のように力強くクレアの手を握った。彼の揺るぎない決意を示すかのように。



「結婚しよう、クレア」



 唐突なプロポーズにクレアは目を丸くしていたが、セシルは微笑んだまま続ける。



「やっぱりボクのお嫁さんは、クレア以外考えられないよ!」



 クレアは何も答えられなかったが、セシルはその言葉を言っただけで満足したかのように、はち切れんばかりの笑みを浮かべていた。
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