末の妹として大切にされてきましたが、 妻として溺愛されることになりました
第六章 愛する人は……⑨
クレアはブレットの実験室に来ていた。
眼前に迫る大きな棚を回り室内に入ると、以前よりも乱雑さが増していた。走り書きされた紙片や膨大な書物が床に散らばり、足の踏み場もないくらいだ。
少々物申そうかと思ったが、ブレットに声を掛けるのは躊躇われた。彼の背中は哀愁に満ち、どうしようもない孤独のようなものが感じられたからだ。
「いいのかい? こんな所に来て」
クレアの気配に気づいたのか、ブレットが振り返りもせずに続けた。
「アイザック兄様が心配するだろう?」
「許可は取って来ましたわ」
クレアは勇気を出し、思い切って続ける。
「ブレット兄様、最近根を詰めすぎでは? お休みになられたほうが良いと思います」
「時間が足りないんだ」
ようやっと振り向いたアイザックの顔には、疲労の色が見えた。きっとあまり眠れていないのだろう。
「何をそんなに焦っておられるのです?」
「惚れ薬を作ってるんだよ。クレアとアイザック兄様の結婚が正式に決まるまでは、足掻けるだけ足掻いてみようと思ってね」
クレアがビックリして声も出せないでいると、ブレットが笑い出す。
「嫌だな、ジョークだよ」
固まってしまったクレアは、安堵して脱力する。
「冗談がお上手ですわ、本気にしてしまいました。……でもだとしたら、何に追われてらっしゃるのです?」
「以前、アイザック兄様と約束しただろう? 動物や植物を展示する博物館を作るって。結婚式までに形にできたらと思ってるんだよ。領民も喜ぶだろうし、盛大な祝いにもなる」
「そう、だったのですか」
ブレットの言葉は本当だろう。しかし、それだけではない気がする。
インクで汚れた指、目の下の隈、少しこけた頬――。
こんなにやつれるまで取り組むのは、やはりクレアの決断も影響しているに違いない。傷ついた心を誤魔化し、胸に空いた穴を埋めるために、没頭できることを探しているのだ。
「でしたら、私もお手伝いしますわ」
「気を遣わなくていい。クレアにはクレアの支度があるだろう?」
「少し時間を作るくらい平気です」
ブレットは嘆息し、どこか非難するような調子で言った。
「クレア、それが残酷なお節介だとは思わないか? アイザック兄様だって、いい顔をしないはずだ」
「私はまだ誰の妻でもありません」
クレアはそこで言葉を切ると、彼女がここへ来た理由を告げた。
「それに、ブレット兄様の様子を見てきて欲しいと言ったのは、アイザック兄様ですわ」
ブレットは目を瞬かせてから、天井を仰いで笑い出す。
「っははは、なんてことだ。やはり、どうしたって勝てないな」
ひとしきり笑ってから、ブレットは吹っ切れたように言った。
「アイザック兄様は、本当に気遣いの人だ。誰に対してもね」
「私もそう、思いますわ」
クレアが同意すると、ブレットは晴れやかな笑顔で、彼女の手を握った。
「ありがとう。手伝いが必要になったら、お願いするよ。アイザック兄様には、僕からまた感謝の言葉を伝えておく」
「はい。アイザック兄様も、ご安心なさいますわ」
ブレットの手を握り返したクレアは、名残惜しくも実験室を辞し、セシルの元へ向かった。
最近セシルは、ディアナの部屋に子ども達を集め、音楽教室を開いているのだ。
「よしじゃあ、もう一度弾いてみようか」
クレアが部屋を覗き込むと、ひとりの少女がぎこちない手つきでピアノを弾いている。不揃いなメロディーが響くが、彼女は目を輝かせ楽しそうだ。
「やぁ、クレア」
セシルがこちらに気づき、クレアは戸口で謝罪する。
「すみません、お邪魔でしたか?」
「いや全然。観客がいてくれるほうが、やる気が出ていいよ。こっちに来て座って」
椅子を勧めてくれたこともあり、クレアは部屋に入った。窓から穏やかな陽光が差し込み、明るい室内にはほのかにバラの香りが漂う。
これはきっとディアナが望んだ世界だと思うと、クレアは胸が温かくなる。
「さぁ続きだ」
「はぁい」
無邪気な返事とともに、少女は鍵盤に小さな指を置いた。時々間違えて音が外れるけれど、セシルは頭ごなしに叱りはしない。
「大丈夫、ゆっくりね。うん、その調子」
焦らず丁寧に、子ども達を励ますその指導は、領民達にも好評で、希望者がどんどん集まっていると聞く。
末っ子気質で、子どものように無邪気なところがあったセシルが、今や子ども達を導く立場にいるのだと思うと胸がいっぱいになる。
クレアは感慨深くふたりを見つめていたが、ふいに少女が口を開いた。
「ねぇ先生。昨日友達とケンカしちゃったんだけど、ピアノを弾いてると悲しかった気持ちが、ちょっと楽になった気がするの」
セシルはハッとした顔をして、すぐに優しい微笑みを浮かべた。
「わかるよ、音楽が悲しみを消してくれるんだ。そして、心の隙間を埋めてくれる」
そう言うと、セシルは自らピアノを弾き始めた。
胸の奥底、澱のように溜まった感情が、音となって外へ溢れ出る。
失恋の痛みは確かに溶け込んでいたけれど、その旋律はあくまで柔らく温かく、セシルがもう前へ進んでいることを教えてくれた。
悲しみを否定せず、受け入れ、抱きしめるような優しさ。そんな音楽の力が、セシルの心を慰めたのだろう。
静かに耳を傾けていた少女は、最後の音の余韻を感じてから、盛大に拍手をした。
「すごーい、本当に悲しみが消えるみたい!」
絶賛する少女を前にして、セシルは頬を染めて照れている。
「そう、かな? 喜んでもらえて嬉しいよ」
クレアも立ち上がり、大きな拍手を送る。
「素晴らしい音色でしたわ。未来へと向かうための、希望に溢れた音楽だと思います」
「ありがとう」
これまでのセシルなら、クレアの賛辞にもっと過剰な反応を示しただろう。しかし今は、落ち着き払い、意識的に言葉を選んでいるように見える。
「子ども達に音楽を教えていて、新しい自分を見つけられた気がするんだ。ボクもいつまでも子どもではいられないしね」
「子どもという言い方をするから、イメージが良くないのですわ。良い意味で無邪気なところが、セシル兄様の魅力ですのに」
クレアはフォローするが、セシルは苦笑するだけだ。
「うん、ボクもそう思ってた。でもそれは皆に甘えてただけなんだ」
「そんなこと……。私だって、まだまだ未熟ですわ」
「クレアはちゃんと答えを出したじゃない。多分ボクはまだ、自分とも周囲とも深く向き合えてない。ボクに欠けた部分があったから、選ばれなかったんだと思うよ」
言ってしまってから、セシルは慌てて付け加える。
「別にこれは、クレアを責めてるんじゃないよ? むしろ感謝してるんだ。ボクが変わるきっかけをもらったからね」
確かに今までのセシルとは違うように思えた。大人になった、なんて月並みな台詞が相応しいかどうかはわからないけれど。
「本当に心から、アイザック兄様との結婚を祝福してる。結婚式にはきっと、子ども達の演奏も上手くなってて、式に花を添えられると思うよ」
セシルが少女の方を向き、彼女も強くうなずいた。クレアはそんなふたりが微笑ましく、「楽しみにしていますわ」と言ったのだった。
眼前に迫る大きな棚を回り室内に入ると、以前よりも乱雑さが増していた。走り書きされた紙片や膨大な書物が床に散らばり、足の踏み場もないくらいだ。
少々物申そうかと思ったが、ブレットに声を掛けるのは躊躇われた。彼の背中は哀愁に満ち、どうしようもない孤独のようなものが感じられたからだ。
「いいのかい? こんな所に来て」
クレアの気配に気づいたのか、ブレットが振り返りもせずに続けた。
「アイザック兄様が心配するだろう?」
「許可は取って来ましたわ」
クレアは勇気を出し、思い切って続ける。
「ブレット兄様、最近根を詰めすぎでは? お休みになられたほうが良いと思います」
「時間が足りないんだ」
ようやっと振り向いたアイザックの顔には、疲労の色が見えた。きっとあまり眠れていないのだろう。
「何をそんなに焦っておられるのです?」
「惚れ薬を作ってるんだよ。クレアとアイザック兄様の結婚が正式に決まるまでは、足掻けるだけ足掻いてみようと思ってね」
クレアがビックリして声も出せないでいると、ブレットが笑い出す。
「嫌だな、ジョークだよ」
固まってしまったクレアは、安堵して脱力する。
「冗談がお上手ですわ、本気にしてしまいました。……でもだとしたら、何に追われてらっしゃるのです?」
「以前、アイザック兄様と約束しただろう? 動物や植物を展示する博物館を作るって。結婚式までに形にできたらと思ってるんだよ。領民も喜ぶだろうし、盛大な祝いにもなる」
「そう、だったのですか」
ブレットの言葉は本当だろう。しかし、それだけではない気がする。
インクで汚れた指、目の下の隈、少しこけた頬――。
こんなにやつれるまで取り組むのは、やはりクレアの決断も影響しているに違いない。傷ついた心を誤魔化し、胸に空いた穴を埋めるために、没頭できることを探しているのだ。
「でしたら、私もお手伝いしますわ」
「気を遣わなくていい。クレアにはクレアの支度があるだろう?」
「少し時間を作るくらい平気です」
ブレットは嘆息し、どこか非難するような調子で言った。
「クレア、それが残酷なお節介だとは思わないか? アイザック兄様だって、いい顔をしないはずだ」
「私はまだ誰の妻でもありません」
クレアはそこで言葉を切ると、彼女がここへ来た理由を告げた。
「それに、ブレット兄様の様子を見てきて欲しいと言ったのは、アイザック兄様ですわ」
ブレットは目を瞬かせてから、天井を仰いで笑い出す。
「っははは、なんてことだ。やはり、どうしたって勝てないな」
ひとしきり笑ってから、ブレットは吹っ切れたように言った。
「アイザック兄様は、本当に気遣いの人だ。誰に対してもね」
「私もそう、思いますわ」
クレアが同意すると、ブレットは晴れやかな笑顔で、彼女の手を握った。
「ありがとう。手伝いが必要になったら、お願いするよ。アイザック兄様には、僕からまた感謝の言葉を伝えておく」
「はい。アイザック兄様も、ご安心なさいますわ」
ブレットの手を握り返したクレアは、名残惜しくも実験室を辞し、セシルの元へ向かった。
最近セシルは、ディアナの部屋に子ども達を集め、音楽教室を開いているのだ。
「よしじゃあ、もう一度弾いてみようか」
クレアが部屋を覗き込むと、ひとりの少女がぎこちない手つきでピアノを弾いている。不揃いなメロディーが響くが、彼女は目を輝かせ楽しそうだ。
「やぁ、クレア」
セシルがこちらに気づき、クレアは戸口で謝罪する。
「すみません、お邪魔でしたか?」
「いや全然。観客がいてくれるほうが、やる気が出ていいよ。こっちに来て座って」
椅子を勧めてくれたこともあり、クレアは部屋に入った。窓から穏やかな陽光が差し込み、明るい室内にはほのかにバラの香りが漂う。
これはきっとディアナが望んだ世界だと思うと、クレアは胸が温かくなる。
「さぁ続きだ」
「はぁい」
無邪気な返事とともに、少女は鍵盤に小さな指を置いた。時々間違えて音が外れるけれど、セシルは頭ごなしに叱りはしない。
「大丈夫、ゆっくりね。うん、その調子」
焦らず丁寧に、子ども達を励ますその指導は、領民達にも好評で、希望者がどんどん集まっていると聞く。
末っ子気質で、子どものように無邪気なところがあったセシルが、今や子ども達を導く立場にいるのだと思うと胸がいっぱいになる。
クレアは感慨深くふたりを見つめていたが、ふいに少女が口を開いた。
「ねぇ先生。昨日友達とケンカしちゃったんだけど、ピアノを弾いてると悲しかった気持ちが、ちょっと楽になった気がするの」
セシルはハッとした顔をして、すぐに優しい微笑みを浮かべた。
「わかるよ、音楽が悲しみを消してくれるんだ。そして、心の隙間を埋めてくれる」
そう言うと、セシルは自らピアノを弾き始めた。
胸の奥底、澱のように溜まった感情が、音となって外へ溢れ出る。
失恋の痛みは確かに溶け込んでいたけれど、その旋律はあくまで柔らく温かく、セシルがもう前へ進んでいることを教えてくれた。
悲しみを否定せず、受け入れ、抱きしめるような優しさ。そんな音楽の力が、セシルの心を慰めたのだろう。
静かに耳を傾けていた少女は、最後の音の余韻を感じてから、盛大に拍手をした。
「すごーい、本当に悲しみが消えるみたい!」
絶賛する少女を前にして、セシルは頬を染めて照れている。
「そう、かな? 喜んでもらえて嬉しいよ」
クレアも立ち上がり、大きな拍手を送る。
「素晴らしい音色でしたわ。未来へと向かうための、希望に溢れた音楽だと思います」
「ありがとう」
これまでのセシルなら、クレアの賛辞にもっと過剰な反応を示しただろう。しかし今は、落ち着き払い、意識的に言葉を選んでいるように見える。
「子ども達に音楽を教えていて、新しい自分を見つけられた気がするんだ。ボクもいつまでも子どもではいられないしね」
「子どもという言い方をするから、イメージが良くないのですわ。良い意味で無邪気なところが、セシル兄様の魅力ですのに」
クレアはフォローするが、セシルは苦笑するだけだ。
「うん、ボクもそう思ってた。でもそれは皆に甘えてただけなんだ」
「そんなこと……。私だって、まだまだ未熟ですわ」
「クレアはちゃんと答えを出したじゃない。多分ボクはまだ、自分とも周囲とも深く向き合えてない。ボクに欠けた部分があったから、選ばれなかったんだと思うよ」
言ってしまってから、セシルは慌てて付け加える。
「別にこれは、クレアを責めてるんじゃないよ? むしろ感謝してるんだ。ボクが変わるきっかけをもらったからね」
確かに今までのセシルとは違うように思えた。大人になった、なんて月並みな台詞が相応しいかどうかはわからないけれど。
「本当に心から、アイザック兄様との結婚を祝福してる。結婚式にはきっと、子ども達の演奏も上手くなってて、式に花を添えられると思うよ」
セシルが少女の方を向き、彼女も強くうなずいた。クレアはそんなふたりが微笑ましく、「楽しみにしていますわ」と言ったのだった。