ヤワラカセカイ
ヤワラカセカイ〜君との夏のエトセトラ〜2







アパートに着いた辺りから、沙香ちゃんの様子がちょっと変になって。

2回目だし、1回目、俺襲ってるもんね。


なんて、心の中で苦笑い。


だから、今日はちゃんと紳士な対応!って自分に杭を打ったんだよ?
これでも。


…だけどさ。


シャワーを浴びて出て来た沙香ちゃんは膝丈の白いワンピースを着ていて。

髪が濡れてるせい?
妙に色っぽくて。


そんな沙香ちゃんが、だよ?


「…あの。待ってます。シャワーから出てくるの。」


顔真っ赤にして、目を潤わせて、俯き加減に、俺のシャツひっぱりながらそんな事言っちゃったらさ。


…俺がどうなるかわかる?


その場で押し倒したい衝動を懸命に堪えて、シャワーを浴びに行って。
逸る気持ちを抑えるのにずーっと必死。

もう冷静でなんていられなくて、部屋に戻った途端に沙香ちゃんを腕の中に捕らえた。


そのまま首筋に唇くっつけて、掌を這わせる。


柔らかい耳たぶに触れて息を吹いた。


「…やっ…あ…」


…ごめん。
せっかく唐揚げあげて貰ったけど、これ以上我慢は無理。


「沙香ちゃん…」


耳元で名前を呼びながら、スカートをたくし上げて、直接肌に触れる。


「あ、青木さん…あ、あの…」


戸惑い足を閉じるのを膝を挟んで阻んだ。


体を支えている方の掌も上の方で動かしながら、首筋やうなじにキスを繰り返す。


…自分でもわかってる。
俺、結局襲ってんじゃんて。


沙香ちゃんは初めてで、ちゃんと優しく丁寧にしなきゃいけなくて。不意打みたいに、キッチンでこんな風にしたらいけないんだって。

わかってんのに、どうしても理性が吹っ飛ぶ。


うなじにキスをした後、頰を横に向けさせて、今度はその少し震えている唇を塞いだ。


あったかくて柔らかくて、それだけじゃ物足りなくて。
舌を隙間から中へと入れる。


「んっ…」


息苦しそうな、それでいて鼻に抜ける様な声が沙香ちゃんから漏れた。


俺の手首をキュッと押さえる沙香ちゃんの指。


…戸惑ってんのはわかってる。


でも、ほんとごめん。
どうしても、欲に勝てない。

沙香ちゃんが、今、欲しいって…

舌を絡めながら、何度も、何度もそのままキスを繰り返す。


その最中、更に指を素肌に滑らせた。


「んんっ…」


また沙香ちゃんの体がびくりと動き、こわばる。


それを抱き寄せたまま、囁いた。


「沙香ちゃん…ベッド行こ?」


拒否された所で俺がどうなってたのかはわかんない。
でも、沙香ちゃんは、確かに弱々しくだけどただ、こくんと頷いたから。


くるんと腕の中で向きを変えて


「よっ」
「きゃっ!」


そのまま持ち上げたら、驚いて目をパチクリ。

でも、瞳はウルウルしたまま微笑んでくれてぎゅっと俺に抱きついた。


あー…どうしよ。
今、この上なく幸せで泣きそう。


沙香ちゃんの事、そのまま運んで、ベッドにそっと下ろして寝かせてあげて上から覆いかぶさる様に抱きしめ返す。


…沙香ちゃん。
大好き。


沙香ちゃんの温もりと柔らかさに酔いしれて、更に欲がむくむくと更に膨らんでく。


その矛先を首筋へ向け、唇をそこに押し当てた。











戸惑いや未知の世界の怖さがなかったわけじゃない。


けれど、嫌だとか、そんな感情はなくて、寧ろ青木さんが触れてくれている事が嬉しくて。


後は…必死だった気がする。


ベッドに連れて行ってくれてから、ずっと、青木さんが絡めてくれている手をぎゅうっと握ってた。


…様な気がするけど。
それすら定かでは無いくらい、頭の中が真っ白で。


ただ、青木さんの触れてくれる感触とか、「沙香ちゃん、大好き」と囁く声とか…

今まで経験した事が無いような感覚や痛みをたくさん、たくさん味わって
気持ちの高ぶりがピークに達したと思ったら、急激に来た疲労感の中、半ば放心状態になった。


“初めて”という言葉やそれをほのめかすシーンは少女漫画の中でたくさん見て来た。


それが自分として現実になるとはな…


薄暗がりの中、青木さんが、上に被さったまま、私をぎゅうっと抱きしめた。

汗ばんでいる青木さんの身体がいつもより密着している気がする。


「…沙香ちゃん、ごめん。」


ごめん…?


「……我慢できなかった。」


更に青木さんの腕に力が篭る。


「だって、沙香ちゃん、誘惑するんだもん。」


ゆ、誘惑…


そこで顔を上げて、おでこ同士をコツンとぶつける青木さん。


「ずるいよ、沙香ちゃん。」
「し、してません…誘惑なんて…」
「してたの。沙香ちゃんはただでさえ可愛いんだからさ…」


髪に指を通されて、ふわりと唇が重なる。


「…ずーっと“俺の”だからね。」


鼻先をくっつけて微笑む青木さんは、穏やかで。
繰り返してくれるキスが優しくて。


…うん、青木さん。
私、青木さんがずーっと好き。


嬉しさで泣きたくなった。


…のは良かったんだけどね?


その後Tシャツを着た青木さんに、「シャワー先に浴びて?」って言われて、タオルケットごと抱き起こされて。そっと立ってみたら、その場にヘナヘナって座り込んじゃった。


ど、どうしよう…力が入らない。


青木さんが、一瞬驚いた顔をして、それからふわりと苦笑いしながら私の前に腰を下ろした。
そのままぎゅうっと引き寄せられる。


「…沙香ちゃん、ほんとごめん。俺、超がっついたもんね。」
「だ、大丈夫です…あの…青木さん、先に浴びて来てください。」
「……。」


ど、どうしよう。
青木さん、飽きれてる?私がこんなんで。


「ほ、本当に平気です。私…その……」


……どう言ったら、面倒くさいって思われないんだろうか。


えーっと…
えーっと…


頭の中で、今まで読んできた少女漫画の事後のシチュエーションを思い返す。


「………。」


…どうしよう。皆無だ。
どの漫画も、一旦暗転して、朝とか…次の日とか。


ど、どういう事?!
なんで直後のシーンが無いの?!


暗転している間に一体何が起こっているの?!


慌てた所で、全く思い浮かばない、気の利いたセリフ。

こ、このままじゃ…


『瀬名〜もう、沙香ちゃん面倒臭い。』
『あらま。まあ…相性もあるからね。いいんじゃない?俺がいるし。』
『瀬名ー!』
『まーくん、おかえり』
『俺には瀬名がいるもんね!沙香ちゃんなんて、もうどうでもいいや!』



「そんな!」
「おわっ!びっくりした!」


あ、し、しまった…

私の突然の大声に、青木さんが驚いて、それで我に返った。


瀬名さんと青木さんの仲良しは見ていて嬉しいけど、青木さんに嫌われるのは絶対イヤ…


長い腕に包まれている今が、いかに幸せなのか。
これが無くなってしまうなんて…そんなの、絶対にイヤ。


「あ、あ、あの…つ、次はもっと…その…しっかりするので…。あ、呆れないでください…」


更にぎゅうっと青木さんのTシャツを掴む。


気の利いた言葉なんて言えなくて、結局途切れ途切れの願い。


それに、少し間をおいて、ふうと青木さんが息を吐いた。


「…沙香ちゃん。」
「は、はい…」
「ずるいって言ってんじゃん。」
「え?んんっ…」


体を起こした青木さんが、少し乱暴に私の頭を引き寄せ、唇を塞ぐ。
そのまま、チュッとリップ音を立てながら、何度かキスを繰り返し、それから、おでこをコツンとつけた。


「…沙香ちゃん、可愛い。すっごい可愛い。大好き。」


そう呟いたその唇が、頰にくっつき、それからスライドして、顎を通り、首筋を挟み込む。


その感触に思わず体が跳ねた。


「あ、青木さ…っ!」


羽織っていたタオルケットを少しだけ剥がされて、胸元にも唇が触れる。

そこでピタリと動きを止めた青木さんが「もー…」と呟きながら、また私を抱きしめ直した。


「…沙香ちゃん、あんま俺のこと誘惑しないでってば。」
「ゆ、誘惑なんて…」
「してるじゃん、すっごいしてる!」


…どの辺が誘惑になるんだろうか。
ただ、必死で青木さんに嫌われないすべを探しているだけなのに。


「…シャワー、一緒に浴びたい。」
「えっ?!そ、それはちょっと…」
「何で?」
「何でって…せ、狭いし…」
「海の家だって狭かったじゃん!」


た、確かに…


「沙香ちゃんがいけないんでしょ?俺のこと誘惑するから。」
「し、してません…その…私はただ…」
「…ただ、何?」
「……青木さんに嫌われたくないだけです。」


困惑の中、眉間にしわを寄せてそう言ったら、青木さんはもっと困り顔で苦笑い。


「ほら、誘惑した。」
「だ、だから…」
「キリないから、もうシャワー行くよ!よっ。」
「えっ?!」

体がタオルケットごとふわりと浮きあがる。


うそ…お、お姫様抱っこ。


「あ、青木さん、重い…」
「えー?大丈夫だって!」


あっという間に、洗面所まで来てふわりと降ろされ、また腰から引き寄せられる。
青木さんは、そのまま、私の唇をパクリと自分ので挟み込んだ。


「…立てたね、沙香ちゃん。」
「あ…。」
「入っといで。」
「で、でも…」
「一緒に入る?」
「そ、それは……じ、時間を下さい。」
「えー!」


くすくすと笑いながら、おでこをまたコツンとつけてくれる青木さんに私も思わず頰が緩む。


…何だろう。
もちろん、ずっとずっと、こうして青木さんに優しくされる度に、嬉しかったけれど。


今は…もっとすごく幸せな気がする。

熱めのシャワーを頭から被ったら、ふわりと立ち昇る湯気が優しく身体を包み込む。
不意に、私を抱きしめた青木さんの腕の感触が蘇り、鼓動が一気に早くなった。


わ、わた、私…


『沙香ちゃん、ずっと俺のだからね』


鼻にかかる優しく甘い声。


それが吐息と一緒に耳元で…


うわー!うわー!!!


思わず勢いよくわしゃわしゃと頭を洗い流した。


ど、どうしよう…今更恥ずかしさが…
ど、どんな顔して…この後過ごせと?


気持ちを落ち着けようと、一つ息を吐く。
バスタオルをまとったら、ふわりとした肌触りを感じて、柔軟剤のいい匂い。


…でも、な。


肌同士の触れ合いも、青木さんが囁いてくれる言葉も、確かに全部、幸せだった。

全く知らない…世界だった…


できればずーっと青木さんに抱きついていたいって思えるほど…


「沙香ちゃん、めっちゃ美味いよ!唐揚!」


…なんて思ったのは私だけ?


私と交代でシャワーに入り、比較的すぐに出て来た青木さんは、「唐揚げ、揚げ直しちゃおっか!」と、いたって普段通りの優しいテンションでキッチンに立ち、唐揚げの二度揚げを始める。


「私がやります…」
「ううん、沙香ちゃんは座ってて!俺がやるからさっ!」


世界一のお日様笑顔で(盲目かもしれないけど、全力でそう思う)菜箸をもち、そりゃもう、サクサクと。


揚げなおされた唐揚げも、サクサクでジューシーでとっても美味しかった。


「青木さんて、お料理も上手なんですね」
「えー?唐揚げだけだよ、多分。あ、チャーハンもかな。親直伝だからね。」
「え?ご両親は料理人…」
「そんな凄いもんじゃないって!ただお店を出しているだけ!しかも洋食だから、唐揚げとチャーハンはまかないで親がよく作ってくれてたの。」


そ、そっか…おいしいお料理を普段から食べていたんだ、青木さんは。
それなのに、私の作ったお弁当もカレーも「美味しい」っていつも食べてくれて…


やっぱり青木さんて素敵な人!


「わ、私、もっと頑張ります!」
「え?!どうしたの?!いきなり。」


「変なの」って笑うその笑顔に固く誓った。


私…絶対料理うまくなる!
青木さんが無理しなくても食べられるものを作れる様になるんだから!!!



「や、それは無理でしょ。あの人のご両親の店、三つ星よ?」


み、三ツ星?!


青木さんとの一泊二日デートの一ヶ月後位の残暑厳しい8月終わり。

いつも通り、涼くんにお料理を教わりながらお店を手伝っていたら、瀬名さんが現れ、いつも通り、目の前のカウンター席に座った。


「真大は舌が肥えてんのか…」
「そうだね、でも出されたもんは美味しいって全力で食べるの。それがまーくんだから。」
「ええ子やのう…」
「まあ、涼くんのメシは全力で食いたくなるけどね。誰でも。」
「瀬名、ハンバーグ食うか!」
「うん。よろしく。」


涼くん……。

ニコニコしながら、ハンバーグを出す涼くんにもう何も言うまいと、手元に目線を戻した。


三ツ星か…
よっぽど頑張らないと、青木さんの味覚を満たせないって事だね…


「…つかさ。料理で胃袋掴む前に、あなた大丈夫なわけ?」
「何がでしょう。」
「や、ここ最近、会ってんの?まーくんと。」
「…え?」


あのお泊まりの後は…
数回、二人でどこかに出かけようって出かけて…

買い物したり、避暑にって洞窟探検行ったり。

そんな感じで…つい二週間位前に、「インターンシップで暫くは忙しくなりそう」って…。


毎日ではないけれど、時々メッセージもくれて…ここ一週間ぐらいは音沙汰がないけど…って待って?


「…一週間?!」
「うるさっ!」


思わず出した大声に、瀬名さんが、ハンバーグでほっぺたを膨らましながら、少し煙たそうな顔をした。


けれど、そんなの構ってられない

私…1週間、青木さんと連絡とってない。
付き合い始めてから、毎日の様にメッセージのやり取りをしていたのに。


「…何、真大と連絡取れてないの?」
「あ、柊おかえり。そうみたいだね。料理覚えんのにかまけて、まーくんのことほったらかしてたんだからしょーがないでしょ。」
「ああ、そう言うことね。」
「ちょ、ちょっ待って。柊まで…だって、青木さんに美味しいもの食べて欲しくて…」
「今までだって、青木さんは美味しく食ってただろ、お前が出すもんなら。」
「そうだな!沙香ちゃんは世界一可愛ええからな!」
「おじさんうるさい。」
「瀬名も可愛いぞ。」
「どうも。」


…もしかして、今、ヤキモチ妬いた?瀬名さん。


「と言うか、そこはどうでもいい。」
「お前、大概俺に失礼だな。つか、今のは涼くんにも失礼でしょーが。」
「とにかく、連絡とってみないと…」
「あー…スマホ見る暇あんのかな、真大。すっげー大変らしいからね、会社。」
「だね。朝から晩まで仕事覚えるのに必死らしいよ。覚えるとどんどん任せられちゃってさ。優秀なんだろうね。会社の方もそう言う人は期待して使うよね、そりゃ。」


そうなんだ…
と言うか、そんな話を二人とはしているくらいやり取りしていた…


でも、私には連絡がなくて…
いや、私も連絡しなかったんだから、そこを青木さんのせいにするのは違う。


とにかく連絡を…とスマホを取り出そうとフライパンを置いたら、目の前で瀬名さんが上目遣いに私をみた。


「……青木さんの世話係の人、巨乳の美人らしいよ。」


巨乳の美人?!


『青木くん、お疲れ様。』
『あ…お疲れ様です。』
『今日も頑張ってたね。良かったらこれから一緒に夜を過ごさない?』(ピタリと体を寄り添いさせる)
『はい…あの、よろしくお願いします』


「よろしくじゃなーい!」
「「うるさい。」」


柊と瀬名さんが、同時に冷静に突っ込み。


「違う世界に行って、青ざめてる場合かよ。」
「そうだよ、ただでさえ、劣勢なのにさ。」


劣勢って…劣勢って…

確かに、私、巨乳じゃないし、美人でもないけど!


「ど、どうしよう…柊!」
「や、俺に振られてもね。」
「そうですね。柊に真大の心を取り戻す術を聞こうなんておこがましい。自分で考えろや。」


瀬名さんの中で、柊の立ち位置が高い…


と言うか、すでに私、フラれた程になってる?


「あ、あの…瀬名さん…」
「や、大丈夫よ?まーくんと俺はこれからも円満にやってくんで。」



円満…


『瀬名、俺、気がついちゃったんだよね。沙香ちゃんて、スタイルも悪いし、綺麗でもないしさー。初めての時でガッカリしたっつーか?』
『あー…そうなんだ。まあ、ヤッてみなきゃわかんない事もあるしね。いいんじゃない?まーくんがそう思うなら。ほら、俺もいるし』
『瀬名ー!』
『おかえり、まーくん』


「ダメ!ダメダメダメ!大体、なんですか、ヤッてみなきゃって!」
「お前、勝手に俺を悪人みたいにすんじゃないよ。ほら、涼くんがショック受けちゃってんじゃないよ。」
「沙香ちゃんが、『ヤって』って言った…あの、おねしょして泣きついて来た沙香ちゃんが…」

涼くん、その話はストップ!


「とにかくな?」と柊が、呆れたように、コーヒーを一口すすった。


「真大に美味いもん食わせたいっつー気持ちはよくわかるんだけどさ。
それよりもやらなきゃいけない事が今はあんじゃねーの?って話だろ?」


そう…かも。
このまま、青木さんと疎遠になるのは嫌だ。


ふらふらとキッチンを出て、自分の部屋に戻り、スマホを取り出した所でふと思った。


柊…青木さんに美味しいものを食べてもらいたいって気持ち、わかるんだね?



そんな事を考えながら、数時間、悩みに悩んで送ったメッセージ。


”青木さん、お元気ですか?
暑い日が続いているので、体に気をつけてください”


…だって。
瀬名さんの言う通り、もう青木さんは私を好きじゃないかもしれないし。


いや、そこまで極端には思っていないけど、忙しい最中、私と連絡を取る事にまで気が回らないんだろうし。

瀬名さんや柊とは連絡とっているみたいだけど。


「……。」


…本当にヤな奴、私。
青木さんはお仕事で頑張っているって言うのに。

そうやって、自分本位に歪んだ考えしか出来ない。



『全然連絡出来なくてごめん!』


青木さんからメッセージの返信が来たのは翌朝だった。



『大丈夫です。お仕事頑張ってください』


にっこりマークをつけて返信をして、そしてそっとスマホ画面を閉じ、同時にため息。


”青木さんの教育係の人、美人で巨乳らしいよ”


社会に出て、視野が広がれば、私みたいなお子ちゃまに興味もなくなるのかな…


”ずっと俺のだからね”


青木さんの優しい言葉と声が耳に蘇って鼻の奥がツンと痛みを覚えた。


私は…青木さんと夏休み過ごして、もっともっと青木さんが好きでたまらなくなったのに。
今更、嫌だって思われてもどうしていいかわかんないよ…


ぼやけそうになった視界を遮る為に、もう一度ため息を吐く。


涼くんのお手伝いでゴミ袋を持って、裏口から外のゴミ箱へと向かった。


地熱がどこか湿度を帯びて、茹だるような暑さ。
どこからともなく聞こえてくる、蝉の声が、余計にそれを際だたせる。


なんだかな…。
夏の暑さが鬱陶しいなんて今年は一度も思わなかったのに。
今は、そんな事すら嫌になる。


ポリバケツにゴミを入れ蓋をして鍵をかけてまたひとつため息。


会いたい…な。
青木さんに。
でも、そう思っているのは私だけなのかな…。


「そんな所でため息ついて何やってんの?」


低めのボソリとした声に、夏で暑いはずなのに、背中にゾクリと悪寒を感じ、そして体が心音と同時にビクンと跳ねた。


顔を上げた先には、案の定。
パン屋の箱を抱えた片岡さん。


こんな路地裏で、会ってしまった…


言葉は返さず、そのまま会釈だけして、踵を返す。


「あ、おい。待てって…」


途端、手首をぎゅっと握られた。


ゾクリとまた体が拒否反応を示す。


「や、ヤダ!」


その手を思わず勢いよく振り払った。
眉間にしわを寄せるその顔が怖くて、鼓動がドキドキと早くなる。


「あ…あの。すみません。」


思わず謝ったら、バツの悪そうに、「いや…」と箱を持っていない手で自分の頭をかいた。


「まあ…俺のせいだしな。
あの後、涼さんにコテンパンにやられたし。」
「り、涼くんに…」
「ああ。あの人にはどうも逆らえないんだよ、俺は。昔っから世話んなってるし。」


今度は私が、眉間にしわを寄せた。


「…涼くんにお世話になってるのに、あんな悪い事してたんですか。」
「や、だからさ…まあ…泥塗った感じになったっつーか…とにかく、もうしない。だからさ…まあ、厚かましい話かも知んねーけど、挨拶位は普通にしてくれると嬉しい。とりあえず。」



そんな事言われたって…

口をつぐんで、下を向いた私にスッと差し出された、透明のビニールに入りリボンがかけられた、小振のパン。


「…食って。まだ店に出してない俺が作ってる新作。」
「け、結構です…」
「や、この前の金のお返しだから。」


さらに差し出されて、しぶしぶ受け取ると、ふっと少し顔を緩めて、笑顔になった。


「…また焼いてくる。」
「も、もういらないです…」
「や、この前のは本当に助かったからさ。つか、それだけじゃ借りた金額に相当しねーし。」


じゃあな、と去っていく片岡さん。
残されたパンのラッピング袋がカサっと音を立てて、優しいバターと小麦の香りがそこから漂ってきた。


『もう二度と話をしません』


青木さんに宣言した自分を思い出す。


…どうしよう。困った。
このパン、私が食べて良いの?


「バカじゃねーの。食べて良いわけないでしょ。」


…ですよね。


涼くん特性ハンバーグを頬張り、もはやハムスターかシマリスにしか見えない、可愛さ爆発の瀬名さんの隣でははっと自嘲気味に笑う私。


「まあ…お前がまーくん裏切るっつーなら、それ食べて、あの最低男になびけば?」
「や、やめてくださいよ…そんなあり得ない話…」
「つか、貰った時点で裏切りだけどな」
「……。」


…だって。
あんな風に言われたらとりあえず受け取るしかないじゃない。


じっと見つめる先で、またラッピング袋がカサりと音を立てる。


「おっ!沙香ちゃん、そのパン、見ねー顔だな。新作か?あれ?でも親父さんが冬までは新作出さねーって言ってたな。」


買い物から帰ってきた涼くんが、冷蔵庫に買ってきたものをしまいながら、ほっぺた膨らましてる瀬名さんを見て、ニコニコ(というよりデレデレに見える)


「瀬名、留守番ご苦労!」
「高いよ、おじさん。」
「食後にコーヒーもつけるか?ん?」
「ブラックでよろしく」


…涼くん。完全に瀬名さんに取り込まれちゃってるし。


「…というか、瀬名さんはインターンシップとか就職活動とかしないんですか?」


瀬名さんがほっぺたを膨らましたまま、もぐもぐ動かしていた口を止めて、私を見る。


「…ハンバーグ食べるだけでそんな可愛いってどうなんですか。」
「うっさい。」


…否定しない。
自覚してる、絶対。


「つかね、俺は忙しいんだよ。残念ながらサラリーマンしてる暇、無い。」
「…忙しい。」
「何よ。なんか文句あるわけ?」
「い、いえ…」


毎日の様にここに顔を出し、涼くんのご飯をなんだかんだとタダ飯食らい。


…忙しい、んだ、瀬名さん。


「つかさ、俺のことより、あなたのことでしょーが、今は。どうすんの?そのパン。
涼くんの話を加味すると、あなた用に焼いてるよね。」


瀬名さんに言われて改めてテーブルの上に置いたパンを見る。


…パンに罪はない。
食べ物を粗末にするのは良くない。


「…こ、これはいただくけど、二度と貰わない。」
「……安易。」


コーヒーが少し苦く感じたのか、瀬名さんが若干顔を歪めた。


「そ、そうですか…?」
「そうでしょーよ。あなたの為にわざわざ焼いたんだよ?しかもお前はそれを受け取った。しかも食ったとなりゃ、次回、お前に会えそうな時は焼いて持ってくんだろーが。」
「う、受け取らないし、もういらないって言うから…」
「それで引き下がるかねー。」
「おっ!おやっさんとこの息子のパンか。」
「ああ、涼くんと半分ことかにするって方がまだ良いかもね。お前が一人で食べるより。」


そ、そっか…涼くんと食べたなら、きっとあの人も文句はないはず。


「涼くん、一緒に食べよ…。」
「食べてくださいだろーが。おじさんに食べていただくんだから。お前の失態で。
はー!まーくん、マジ可哀想。」
「……。」


そこで押し黙った私を瀬名さんがカップに口つけたまま、横目で見た。


「…何、凹んでんの?」
「べ、別に…。」
「ああ、『青木さんは今、巨乳の美人に夢中だし、私の事なんて気にしないんじゃないの?』って?」
「勝手に心を読まないでください。」
「お前、本当に安易だな。つか、んな事思うんだったら、別れたら?」
「…瀬名さん、今日はやけに突っかかる…。」
「うん、俺はいつでもまーくんの味方だから。お前がまーくんに悪いストレス与えるなら徹底的に排除。」


は、排除……って。


「わ、別れるのは嫌です!」
「だったら、もっとまーくんの為に生きろや。」


コーヒーカップを置いてがたんと立ち上がる瀬名さん。


「…少なくとも、まーくんに好かれる努力をした方が良いと思うけどね。それが出来る環境にあんだからさ。」


”それが出来る環境”…?


言葉が何となく引っかかる。


「おっ!瀬名、帰んのか?」
「うん、おじさん、ごちそうさま。」
「次回はカレー煮込んどくぞ。」
「よろしく。」


デレデレしてる涼くんに見送られて猫背がちに去っていく瀬名さん。


本当にお代払わないんだ…。


…なんて、瀬名さんにツッコミ(しかも心の中だけ)入れている場合じゃなかった。


瀬名さんの予感は的中で。
片岡さんから貰ったパンを涼くんと半分こして食べたその日から、商店街でよく会うようになって、最初は挨拶を交わすだけだったけど、


「この前のパンどうだった?」とか「どんな感じのが好き?」とか…段々と会話が増えていく(周囲の目があるからあからさまに無視ができない)


受け取る事を拒否しても、そこは何故か強引で押し付けて去っていくし(周囲の目があるから受け取らざるを得ない)


…悲しいかな、“商店街の人たちは皆仲良し”


一応…それでも警戒しているつもりではあるし、警戒の色をあらわにしているつもりなんだけど。


『仕方ないよな、俺がそうさせたんだから』


なるほど、瀬名さんの言う通り。
あっちは、始めから私が警戒するのは当たり前。その上で話しかけて来るんだから、私が警戒した所でなんの効き目もないわけだ。


このままだと…青木さん、絶対に怒るよね。


涼くんに頼まれた買い出しの帰り、ふと商店街の入り口で足を止めてしまった。


『青木さんに仕事教えている人、巨乳の美人らしいよ』


青木さん…怒る…かな。
私があの人と会話して、パンを貰ってるって知ったら…。


まだ、怒ってくれるのかな。


鼻の奥がツンとして、思わず首を横にブンブンと軽く振った。


いけない、勘ぐって弱気になっている場合じゃない。
ちゃんと…次に会った時こそ、お断りしなきゃ。


「よう。何、買い出し?」
「っ!!」


か、片岡さん…
た、タイムリー…


近づいて来た片岡さんに、思わず少し後ずさり。


「重そうだな、持ってやるよ。貸してみ?」
「だ、大丈夫です…」
「や、どうせ行く方向一緒なんだしさ。」


こ、これはダメだ!
ちゃんと拒否しないと。


私に手を伸ばし、エコバックに触れようとしたその手を思わず跳ね除けた。


「やめてください!ほっといて!」


少しだけ周囲に響き、商店街の入り口のお肉屋さんのご主人が怪訝な顔でこっちを見た。


…しまった。


と、言う顔を私がしたんだと思う。


「なんだ、痴話喧嘩か。仲良いな、パン屋の息子と涼ちゃんとこの沙香ちゃんは!」
「そうですね、あなた。」
「俺たちの若い頃みたいだな!」


ああ…温かく見守ってくれるのはありがたいですが、これ、なんか余計ダメな方向に行った気がする…


「ほら、貸せって。」


片岡さん、背中押されて余計強引になったし。


「ほ、本当に大丈夫…」
「遠慮すんなよ」


その手が伸びて来て、こわばる体。動けなくなった瞬間にエコバックの肩掛けを片岡さんの手が掴む。


ど、どうしよう…


「ここまで拒否してんだから、本当に嫌なんじゃないの?」


スッと私の後ろに影ができて、穏やかだけれど威圧のある声が頭の上からした。


片岡さんが眉間にシワを寄せて、その人を見る。私もゆっくりその人に視線を向けた。


あ、あれ…?この人…


「…あれ?沙香ちゃんじゃん!俺、覚えてる?ほら、海で会った…」
「は、はい…。ライフガードの方…ですよね。」
「おっ!覚えてた!」
「だって、あの時はお世話になりましたから…。ありがとうございました。」


なんとなく、知っている人に会って気持ちが緩む。


「おうっ!なんだなんだ?女の取合いか?」
「三角関係ね。懐かしいわ。魚屋のはっちゃん、元気かしら…」
「お、お前…まさか、まだ、はち坊の事…」
「いやね、あなた。今はあなた一筋よ」
「そ、そうか!まあ、そうだよな!」


ガハハハ…って。
お肉屋のおじさん、奥さん、「今は」って言ってるけど大丈夫ですか?


とか心配してる場合じゃないし、気が緩んでる場合でもなかった。


三角関係でもないし、ここに私の好きな人はいないし。


なのに


「…とりあえず、バッグ握ってる手、離したら?」
「あっ?部外者は黙ってろよ。」
「まあ、部外者だけどさ、沙香ちゃんが嫌そうなのに黙ってらんないでしょ。」


…修羅場みたいになってる。


「ああああの!私、本当に一人で大丈夫ですから。」
「や、送ってくよ。こいつまたちょっかい出しそうだから。」


今度はライフガードさんが私のエコバッグの肩紐をひっぱり、ひょいっと私から抜き取る。
それから、スッと笑顔を消して、片岡さんを見た。


「…沙香ちゃんが好きなのかも知んないけど。相手を怯えさせるほどの強引は無しじゃない?
口説くなら、口説く相手とフェアにやれよ。」


綺麗な顔立ちのせいだろうか、それとも、穏やかだけれども強い眼差しのせいだろうか、迫力を増して、片岡さんは気圧される。


「…出直す。またな沙香。」


そう言うと、商店街の中へ足早に消えて行った。


「沙香ちゃん、大丈夫?」
「は、はい…。」


私が気まずそうに返事をすると、クッと少し含み笑いをしてから、笑顔全開になった。


「やー!スッゲー偶然!こんな事ってあるんだね!」


その顔に何故か惹きつけられて私も嬉しさを覚える。


「本当に。驚いちゃいました。お住まい、このお近くなんですか?えっと…」
「ああ、そっか名前!俺は中嶋智希!」
「中嶋さん…」
「うん。俺ね、商店街出て少し行ったとこから入ってくとあるんだよ、アパートが。」
「そうだったんですね…。あ、うちは…」
「いいよ。案内して。本当に送ってくから。」
「で、でも…」
「荷物なら心配しないで。一人暮らしとはいえ、流石に持って逃げたりしねーから。」


…不思議。
一度しか話した事が無いのに、このサラッと気の利いた返しを出来る感じが懐かしく思える。


「じゃあ…お願いします。」
「おうっ。お願いされます。」


相変わらず、人当たりが良い人だな…中嶋さん。


他愛もない話をしながら歩く事数分、喫茶店の前にあっという間に到着。


私に荷物を返しながら、「へー…ここで下宿してんだ」って見てる。


「あの…よかったらコーヒー飲みませんか?お礼に私、淹れます。」
「え?!沙香ちゃん、働いてんの?ここで。」
「はい…でも、コーヒーくらいしかお店に出せるものは作れませんが…」
「飲む飲む!いただきます。」


どうぞって案内をしたら、嬉しそうに「お邪魔しまーす」とお店に入ってくれた。


「お帰り沙香ちゃん、荷物重かったろ、ごめんな…って誰だ!お前!沙香ちゃんとどう言う関係だ!」


いきなり眉間にしわを寄せて口を尖らせる涼くんに、中嶋さんが礼儀正しくぺこりと頭を下げる。


「初めまして、僕は通りすがりのライフガードでして。荷物が多かったのでお送りした次第です。」
「お、おう…そうか…ご苦労…」


あまりにも礼儀正しいから、涼くんはタジタジして、「コーヒーでも飲めば?」とバツが悪そうにカウンターに中嶋さんを促した。


「”涼くん”、本当に優しそうだね。沙香ちゃんのこと大事に思ってるのが伝わる。」


水を出す私に、そう言って微笑む。


「沙香ちゃんも一緒に飲もうよ、コーヒー」
「で、でも…」
「えーよ?今、お客さん少ねーかんね。」


涼くんが私にも水を入れてくれて、中嶋さんの隣に置いてくれた。


湯気が立ち上る、艶やかなコーヒー。


中嶋さんが、「いただきます」とつぶやきながら、カップを取り、私のにカチンとつけた。


「…うん、美味い。」
「ありがとうございます。ようやく、アメリカンは入れられる様になりました。」
「そっか。努力の証って事だ。それを知ると余計に美味しいかも。」


香りを心地好さそうに味わいながら、また一口。


「なんか、得した。ちょっと荷物運び手伝っただけなのに、美味いコーヒー飲めて。」


…良かった、喜んで貰えて。


「そう言えば、お引き留めしちゃいましたけど、どこかにお出かけの途中でしたか?」
「あー…うん。まあ。でも大した用事じゃないから。」
「だ、大丈夫…ですか?」
「うん。平気。ちょっと映画観に行こっっかなって思ってただけだから。」
「映画…」
「そ。ほら、魔法使いのやつの続編。」
「あっ!それ!私も好きです!」
「本当に?じゃあ…今度一緒に行く?」


勢いではい!と答えそうになって、ちょっと待てと自分を制した。


二人で一緒に映画は…まずいんじゃ…


「それは…」
「ああ、彼氏に怒られる?そういうのダメな人なんだ…ろうね、彼氏。そんなイメージかも。」
「…わかりませんけど。男の人はそう言うの嫌じゃないんですか?」
「さあ…どうだろうね。人によるんじゃない?」


そう言うもんかな?
青木さんはどうなんだろう…


”青木くんは、空腹レベルでさんを求めてる”


…少し前ならともかく。


”青木さんの教育係、巨乳の美人らしいよ”


今は気にしない、か。


急に悲しくなって鼻の奥が少しツンとして、誤魔化す様にコクリと一口コーヒーを飲んだら、涼くんが少し不思議そうに私を見た。


「沙香ちゃん、中嶋くんもヘーキなんだな。」
「え?」
「や…ほら。昔は柊以外の男はあんまり近寄れなかっただろ?今だって…瀬名と真大と柊位なもんで…」
「え?そうなの?全然わかんなかった。」


ふわりと笑う中嶋さんに「まあ…」と苦笑い。


「昔、よくいじめられてたから、男の子に。」
「ああ、それって男子特有の『ちょっかい出したい現象』でしょ?」
「…何その迷惑な現象」
「や、だからさ!気に入ってる女の子をからかいたくなんだって、男子は!
ってことはそっか〜!昔から可愛かったんだ、沙香ちゃんて」
「そりゃあもう!3歳の時なんてな…」


涼くんが身を乗り出して、中嶋くんに私の幼き頃の思い出を語り出す


「えっ!マジっすか!」
「おう!沙香ちゃん、探すの大変だったんだぞ。柿の木とかヘーキでするすると登っててな…スカート破れて、毛糸のパンツを回収するのに俺も登んなきゃいけなくなって…」


涼くん、思い出というよりは、素行の悪さだ、それ。


「あ、あの!映画、すみませんでした!今度観たら感想教えてくださいね!」


慌てて他に話を移そうと試みたけど


「うん、もちろんいいよ?とりあえずじゃあ…連絡先交換しとこっか。」
「え?!」
「感想聞きたいんでしょ?」
「ま、まあ…」
「じゃあ、ほら。スマホ出して!」


ちょっとそらし方を間違っていたかも。


結局、交換してしまったし、連絡先。


そしてその日から、3日。
毎日、メッセージのやり取りをしている。
だってさ…無視するわけにもいかないし。


中嶋さん、漫画好きで読んでいる少年漫画系が被ってたりしてつい…。


バイト休みの今日。
久しぶりに美容室に行って髪を切って、トボトボと歩く涼くんの喫茶店のある駅から二つ先の駅。


…ここの駅、彩月さんとアイコさんに綺麗になるためにお洋服を選んでもらったり美容室に連れて行ってもらったりして…その後は水着を探しに来たくらいで。
自分単独では初めて来たかもな…。


頼もしい二人に連れられて歩いた過去二回とは違って、何処と無く周囲の景色が広く知らないものに感じる。

…彩月さん達と来た時は思わなかったけど、ちょっとポツンと感じてさみしいかも。


心細さで、思わずスマホを出して青木さんとのトークを開く。
けれど、そこは1週間前の「頑張ってください」と私のメッセージの後送られて来た『ありがとう』のスタンプだけ。


涼くんちを出る時は「せっかくだからおしゃれなカフェでお茶でもしてから帰ろう」なんて思ってたけど、もう帰ろうかな…


駅に向かって歩き出す。


「おじょーさん。映画でも行きませーんかっ!」


不意に、目の前に人が現れて思わず目を見開いた。


「な、中嶋さん?!」
「どーも。つか、偶然!」


本当に…


「沙香ちゃん、髪切った?もしかしてヘアサロン行ってたとか?」
「は、い…」


少し整えただけなのに、気が付いてくれるんだ…


「中嶋さんは…あ!もしかして映画…」
「そっ!この前のリベンジ!」
「す、すみません、この前は…」
「や、だからさあの時は俺が勝手にした事だし、沙香ちゃんの入れたコーヒー飲んだし…ってそうだ!」


中嶋さんが、突然何かを閃いた様に目を輝かせた。


「今から一緒に映画観に行こうよ。」
「え…?」
「だって、ほら。沙香ちゃん、気になるって言ってたでしょ?感想教えて欲しいってさ。だったら観ちゃった方が早いじゃん。俺も感想言うのに、そのほうが伝え安いし。」


…確かに。
あのシーンがああだった、こうだったってリアルに伝わる…って説得されてどうする。


「で、でも…」
「彼氏?」
「……。」


正直、わからない。
青木さんが今、そういうことを気にするのかどうか。

でも、私的にやってはいけないって思うからな…


「あー…じゃあさ。映画館まで一緒に歩こっか。駅も隣だし。そこまで行ったらどうするか答え出すってどう?」
「は、はい…」


促されてそのまま歩き出す。


「そういや、彼氏とは会ってるの?この前、『元気?』って聞いたら『今、忙しいみたいだから会ってない』って言ってたよね。」
「……。」
「会って…ないんだ。」
「…お仕事頑張ってるのに邪魔しちゃいけないから。」


そうだよ、青木さんは今、とにかく仕事を覚えることに一生懸命で、忙しくて…


何気なく顔を上げたけれど、歩行者天国に差し掛かる道で、思わず足を止めた。


…ううん。


勝手に止まったって言った方が正解かもしれない。


「沙香ちゃん…?…あっ」


中嶋さんも息をハッと飲んだ。


目の前にはスーツ姿の青木さん。


私と中嶋さんを見て、目を見開いている。


「沙香ちゃん……」
「えっと、あの…」


別にやましいことをしていたわけじゃない。
ちゃんと説明をして笑えばいい。
そう思っているのに、心が動揺して何も言えない。


「丁度良かったです!彼氏さん!俺、覚えてます?ほら、ビーチで会ったライフセーバーです。」


そんな私の横から、陽気に中嶋さんが割って入った。


「実は、俺、これから映画見ようと思ってて。
沙香ちゃんも同じ映画観たいなーって思ってたみたいで。一緒に観ていっすか?」


青木さんが、ゆっくりと、中嶋さんから私に目線を移した。


「…観たいの?」
「えっと…」


どう答えていいかわからなくて、そこから目線を外す。


「沙香ちゃん…「青木くん、行くよー!」


向こうから、少し通る声がした。


自然と三人とも目線がそっちに行く。


肩下でふわりと少し巻き髪になっていて、自然な前髪
タレ目といえばタレ目だけど、綺麗な顔立ち。

スラリとした足が膝丈のスカートから覗く。


そして……正面から、しかも少し遠いのにわかる、胸が大きい。(ついでにウエストは細い)


私達を見て、ニコリと品良く笑い、少し会釈をした。


「…ごめん、今仕事中だから、行くね。沙香ちゃん…また連絡する。」
「連絡するつってあんまとってないみたいですよね。そんなんだったら、俺が貰っちゃいますよ。
どうやら、俺も平気みたいですから、沙香ちゃん。」


青木さんがまた少し目を見開く。


「そう…なの?沙香ちゃん…」


それから、黒目がちな瞳が何処と無く揺れた気がした。
一度、少し目を伏せがちにした青木さんは、「そっか…」と少し弱々しく笑う。


「…じゃあ、俺、行くね。沙香ちゃんまた。映画楽しんで?」


楽しん…で…

ズキンと気持ちが痛みを覚える。

先輩であろうその人の元に走って行く青木さんの背中を目線で追いかけた。

ぽんぽんと青木さんの腕に触れ「行くよ」と促すその先輩の人。
歩き出した青木さんの背中越しに、私を見て、もう一度ニコッと微笑んだ。


「あ〜…宣戦布告されたかな、今。」
「え?」
「や、あの女の人、青木さんのこと好きそうだなーって思って。」
「……。」
「ごめん、あくまでも俺の感想だから。気にしないで。」
「気にするよ、そんなこと言われたら。」


ムッと口を尖らせて中嶋さんをにらんだ。


「あ!睨んだ!」
「…何で嬉しそうなんですか。」
「可愛いなあって思うから。」


不意にふわりと風が吹き、中嶋さんの髪を少しさらう。
フリーズした私に、ニコッと笑って見せた。


「…あの海の日からずっと思ってる事だけどね、それは。
でも、話せば話すほど、もっとそう思う。」
「な、何言ってるんですか…」


私の髪を中嶋さんの指がふわっと少し優しく掬う。


「…ずるいよ、青木さん。あんな泣きそうな顔して「映画楽しんでこい」なんて言われたら、沙香ちゃんがどういう選択するかわかってるのに。」


それをちゃんと拒否すべきなのに、出来ない。


「だからさ…俺はちゃんと言う。
沙香ちゃんと付き合いたい。もっと一緒に居たいと思うし、ほったらかしにはしない。」


中嶋さんの、優しく真剣な眼差しに、体が…動かない。










「…ただいま。」


結局、涼くんの喫茶店に帰り着いたのは青木さんに会ってから2時間程してから。


『考えといて』


中嶋さんはそう言って私の返事を聞かず立ち去っていった。


…断らなきゃいけないのはわかってる。
でも…瞬時に断れなかった。


にこやかに笑うあの綺麗な女の人が脳裏をちらつく。


それをかき消したくて、深く溜息をついた。


木枠のドアを開けて入って行くと、カランといういつものカウベルの音がして、涼くんがいつものふにゃんとした優しい笑顔で迎えてくれた。


「真大、来てるぞ。」


え?!あ、青木さん?!
ど、どうして?!


急いで部屋へと行ってみたら、ドアに凭れしゃがみ込んでスマホを握りしめたまま、突っ伏している青木さんが確かにいた。


「あ、あの…」


声をかけたら勢いよくその顔が起き上がる。


「…おかえり。」


笑顔だけれど、悲しさが表情からみてとれて、黒目がちな目は潤み気味。


“ずるいよね、あんな泣きそうな顔して『楽しんで』なんて言ったら”


不意に中嶋さんの言葉を思い出した。


…私は“ずるい”とは思わないけど。
でも、そんな泣きそうな顔で笑われたら、気持ちが痛くなる。


床に膝をついて、そのまま青木さんに手を伸ばして抱きしめた。


「…お仕事じゃなかったんですか?」
「うん…まあ…」


青木さんの腕が伸びてきて、私をぎゅっと引き寄せる。


「沙香ちゃん。」
「はい。」
「映画、楽しかった?」
「…観てません。あれから一人でショッピングを少しして帰ってきました。」
「そう…なの?」
「はい。」
「…そっか。」


回されている青木さんの腕に力がこもる。


「沙香ちゃん…ごめん。俺、本当に度量が狭いよね。」
「違います。青木さんは『映画行っておいで』って言ってました。」
「そうだけどさ…それ以前にさ…」


そこで青木さんは言葉を切った。


「青木さん…?」


離れようとしたら、それを腕で阻止される。


ど、どうしたんだろう…?


「…沙香ちゃん。今から俺んち行こ。」
「い、良いんですか?」
「うん。支度して?俺、下で待ってるから。」
「は、はい…」


支度…遊びに行くだけだからそれほど時間かからないけど…


そこでようやく、少しだけ腕の力が弱る。
けれど、私を腰から捉えたままの状態。


あひる口で微笑むその顔は、泣きそうな表情は消えて、どこか穏やか。


「沙香ちゃん、夏休みの残り1週間、俺んちに居てくんない?」


1週間…青木さんのお家に…?


「で、でも…お仕事が…」
「うん。本当に忙しくて、毎日それだけで一杯一杯。」
「だったら、私が居たら休めないんじゃ…」
「違うって、逆!」


青木さんは、私を引き寄せると、私の胸元に顔を埋めた。


「…今日みたいの目の当たりにしちゃうと仕事が手につかなくなる。」


あ……


「ご、ごめんなさい…あの…私、二度とその…映画に行こうとか…」
「違うってば。俺の度量の問題。でも…今は色々考えてる余裕も無いから。
全然連絡取らなくて、勝手なのもわかってるけど……側に居て?」


気持ちが、ズキンと痛みをまた覚えた。


…青木さんが連絡を取らなかったのは、忙しくて取りたくても取れなくて。
そして…私を信用していたから。


私が、ちゃんと青木さんを想って待っているって…信じてくれていたから。


それなのに…


“青木さんはもう私のこと好きじゃ無いのかな”


そんな風に歪んでしまった。
それによって、私の気持ちに、隙が出来たんだ。


だから…


キュッと唇を噛み締めた。


「…青木さん、ごめんなさい。」
「なんで沙香ちゃんが謝んのよ」
「だって…」


青木さんのスラリとした掌が私の髪を撫で、そしてそのまま頭を引き寄せる。ふわっと唇同士が触れ合った。


「…支度、します。」
「うん。待ってるね。」


コツンとつけられたおでこが暖かくて。
鼻の奥がツンと痛みを覚える。


…1週間、青木さんだけを想って過ごそう。
青木さんがそれを望むなら。




…とは思ったけど、さすがに一週間の外泊なんて涼くんから許しを得られないかも。


両親が信頼を寄せている涼くん。
だからこそ、下宿が出来ているわけで。


首を縦に振ってくれるだろうか…



「真大んちに一週間?えーよ。いってらっさい。」


支度をしてから下へ降りて行き、恐る恐るお伺いを立てたら、涼くんはいつも通りふわりと笑いそう言った。


「でも、心配だな…真大が居ない時間が。」


…そこ?


「大丈夫!俺、頑張って早く帰るから!」
「仕事と沙香ちゃんの面倒両立大変かもしんねーけど頑張ってな!」
「うん!涼くんもごめんね?沙香ちゃん居なくて寂しいよね」
「真大…俺の心配してくれんのか。優しいな…」


グスンて…涼くん。
いつの間にそんなに青木さんと仲良くなったの?


というか、私、もう大学1年生なので。
昼間一人で居ても危ない事はあまりしないと…


「沙香ちゃん!危ない人についてっちゃダメだからね!」


…前科があるからやっぱり心配するか。


「真大の言うとおりだぞ!知らないオジサンに『アメあげるから』って言われてもついてっちゃダメだからな!」


涼くん、それは大丈夫。


涼くんの私への愛情が3歳の時と変わらない事を再確認してから出た喫茶店。
空はすっかり夜へと変わって、アスファルトの熱を受けながらもフワリとふく生暖かい風に何となく秋の気配を感じた。


「…行こ。」


青木さんが穏やかにそう言って私の手から荷物を取り、反対の手を繋ぐ。


「あ、あの…荷物自分で持ちます。」
「大丈夫だって。」
「で、でも…」
「沙香ちゃんの気が変わって『やっぱり帰る!』ってならないように人質だもん」


“だもん”って…


さっきの寂しそうな弱々しい笑顔とはうって変わって楽しそうな笑顔。
それにきゅうっと胸が締め付けられて少し目頭がと頬が熱くなる。


…そんな表情されたら、嬉しくて舞い上がっちゃうよ。


ギュッと強く青木さんの手を握った。



「…青木さん。」
「んー?」


前を向きながらもそんな私の手を握り返してくれる。
それにもっともっと嬉しさが込み上げて、何だか泣きたくなった。


「今日のお夕飯何食べたいですか?」
「そっか!ねー?何食べよっか。」


白い歯を見せて今度は私の方へ振り返る。
サラリとその髪が向かい風に揺れた。


「あ!うちのバイト先で食ってく?柊に怒られるかなー?『沙香は連れてくんな!』って言われてるし。」
「……。」


「照れくさいんだよね、きっと!」って青木さんは笑ってるけど。理由は違う。


実は一度だけ柊のバイトしてる姿を見たことがあって。
その時は…青木さんも瀬名さんも居なかったけど。


「…一度行ったことありますが…青木さんのバイト先は、イケメンだらけだから。」
「え?!イケメン?!まあ…そっか。シェフの冴島さんとかね、超かっこいいし」


そうそう、イケメンと美女が働き過ぎてるのよ、あそこは。
だからつい…行ってしまう、別の世界に。


あの時は、店の前でその天国のような光景に見惚れてたら、白シャツに黒エプロン姿の柊(その日はどうやらカウンターでコーヒーを淹れるポジションだったらしい)が鬼の形相で飛んできて、「お前な…」って(その姿もイケメン過ぎて、しっかり二次元化)


そんなんだから、今行ったらもっと凄い事になってそうだよね。
だって、そこに、青木さんと瀬名さんが加わるワケだから。


今だったら、同じふんわり系の瀬名さんと冴島さんのやり取りとか…(瀬名さんの中身はともかく)


『冴島さん、今日も飲み行きます?』
『おっ!行く行く!』
『最近毎日一緒っすね。おかしいでしょう、この関係。』
『んな事言って〜!瀬名、ほら行くぞ!』(瀬名さんの頭をぐしゃぐしゃっと優しく撫でる)
『ったくしょうがないねー』(照れて嬉しそう)


ああ…どうしよう顔が緩…「…ちゃん?沙香ちゃん!」


青木さんに呼ばれて、ハッとなった。


…しまった。
つい、妄想の世界に行ってしまった。


「も〜…やっぱりあの店には連れてかない!冴島さんとか超かっこいいからダメ!」


…そうですね。
毒が強すぎるかもしれないから、もう少し精進してから行きたいと思います。


えへへと誤魔化す様に笑ったら、急に真顔で私をジッと見る青木さん。
何だろう…と小首を少し傾げた途端、その黒目がちな目があっという間に近づいて来て、フワリと唇同士がくっついた。


…ってえ?!


ろ、ろ、路チュー?!
しかも、難易度マックスの少女漫画の王道、“横断歩道のシチュエーション”!


わ、私が?!


「あ、あわわわ…」
「沙香ちゃん、目移りしないでよ。」


真面目なその顔にまた、ドキンと鼓動が跳ねた。

青木さん…ごめんなさい。
全く要らぬ心配をおかけして。


「…するわけありません。」
「本当に?だって、今すっごい思い出してたじゃん、柊の働く姿!それとも冴島さん?あっ!もしかして瀬名とか?」


…すみません、確かに全員思い出してはいましたが。


「…青木さんの働く姿が見たい。」


そりゃもう、群を抜いて。


「えー?柊に怒られてばっかだよ?俺。」


笑いながらまた私の手を引き歩き出す青木さん。


「家で食おっか。」
「はい!」
「じゃあ…チャーハンでもつくる?」
「はい、私頑張ります!」
「えー?俺が作るよ?」


やっぱり白い歯を見せて笑う青木さんに、私も頬が緩む。


…この一週間は、絶対青木さんの為に過ごすんだ。
二次元もちゃんと捨てよう。



.





信号を渡って駅に到着したのはそこから10分程。

改札を通ろうと、青木さんが手を離した瞬間だったと思う。


「…あれ?沙香。」


その声に、ゾクリと身体が反応する。


「…出かけんの?」


か、片岡さん…


くるりと踵を返すと、ガシッと腕を捕まえられる。


「…いい加減、挨拶くらいしろって」
「は、離して…」
「おいっ!」


先に改札を通っていた、青木さんが、眉間にしわを寄せて少し大きな声を出したら、駅員さんが気にしてこっちを見た。けれどそれに気が付いたのは私だけで、青木さんは相変らずまっすぐ片岡さんを睨んでる。


…片岡さんも。


「…“青木さん”。なんだ、まだ繋がってたんだ。てっきり別れたかと思ったのに。」
「はっ?!」
「だって、最近全く見かけねーし、沙香はずっと元気なかったし。」


相変らず眉間にしわを寄せている青木さんの黒目がちな瞳が少し揺らめいた。
きっと、その表情の変化を片岡さんは見逃さなかったんだって思う。


「俺が言えた義理じゃないけど、少し前のあんたはもっと沙香の事以外何にも見えてないんじゃねーか?ってくらいスッゲー好きなんだろうなって…伝わってきてたけど。
今は都合よく、独占欲かざしてるだけなんじゃねーの?全然沙香んとこに来てなくてさ。」


私の手首を掴んでいる手に少し力がこもった。


「…俺はさ。嫌われてるの承知でこいつに絡んでんだよ。都合の良い話かも知んないけど、沙香が元気にあの商店街に居て笑ってりゃ良いなって今は思う。
あんな事したんだから好かれようなんて思わない。ただ、笑えるようにって思ってるだけで。
あんたはどうなんだよ、青木さん。」


青木さんから私に目を向けた片岡さんの表情は、真顔なのに何処となく、穏やかで柔らかい。


「…パン、どれが美味かった?」
「え?えっと…」
「また焼いて持ってくから、どれが美味かったか今度教えて。」


じゃあな。と手首がするりと解放される。


初めて…かも。
しつこくせずに、離してくれたの。


”沙香が元気にあの商店街に居て笑ってりゃ良いなって今は思う。”


言われた言葉が頭の中にリフレインしていたら、「沙香ちゃん」と青木さんが私を呼んだ。


「い、今行きます。」


慌てて改札を通ると、ぎゅっと手を握られる。


「あ、あの…」
「……急ご。電車来る。」


言葉少なにそう言った青木さんは、そこからアパートの青木さんの部屋の前まで、手を繋いだままほとんど喋らなかった。


怒って…る、のかな。
そりゃそうだよね。


青木さん、あんなに片岡さんとは関わるなって心配してくれているのに、未だにああやって縁が切れないでいる。
その上パンまで貰って食べているんだもんね…。
しかも青木さんの事情もわからずあんな風に言われたのに…私、反論しなかった。


家について、青木さんは、鍵を開け、「入って」と私を促す。


緊張気味に入って荷物を置いたら、背中からぎゅっと包み込まれた。


「……。」
「あ、青木…さん…あの…」
「ごめん。」


ごめん…?


「悔しいけど、あいつの言う通りだと思う。俺、自分が忙しいって理由でずっと沙香ちゃんの事ほったらかしにしてさ。」
「そ、それは…だって、お仕事だから…」
「でも、その間に沙香ちゃんが違う奴にって言うのは我慢できないんだよ?こうやって家に連れてきて独り占めしようとしてさ…
勝手過ぎるって怒られても文句言えないでしょ。」
「そ、そんな事ないです!」


思わず勢いよく青木さんの長い腕の中で振り向いた。


「わ、私…ご褒美の前借りだって思ってます!」
「ご褒美…の前借り?」
「そうです。」


こうなったら、ちゃんと全部ぶっちゃけよう。
だって…青木さんに“ごめん”なんて思って欲しくないから。


「私…青木さんと全く連絡取れなくて、もしかして私の事もう好きじゃなくなったのかもって思ってました。」
「っ!そんなわけないじゃん!」
「そ、それ位悩んでたし、寂しかったし、その…今日青木さんが一緒に居た、美人の先輩の人と青木さんの姿がお似合いだって…嫌だ!って思いました。」


青木さんの黒目がちな目が見開いて少し揺れた。


「…でも。帰ったら青木さんが居て。私…凄く恥ずかしくなったんです。自分の度量の狭さに。青木さんの事、もっともっと信じないとって…反省もしたんです。だから、私をここに連れてきてくれるって青木さんが言った時、これは青木さんが私のために与えてくれたご褒美だって思ったんです。これから先、多少連絡が取れなくてもちゃんと信じて待てるように。」


一気に喋って気持ちが高揚したんだと思う。
目頭が熱くなって、勝手に涙がポロポロとこぼれ落ちる。


「お、お願いです…青木さんが“ごめん”なんて思わないでください…。」
「沙香ちゃん…」
「『ごめんなさい』は私なんです〜!私、嫌な事ばっかり考えて!その上、パン貰って食べちゃって…」
「沙香ちゃんてば」
「あ、青木さん、ごめんなさい〜!」
「沙香ちゃん!」


ぎゅうっと抱き寄せられて、青木さんの胸元に顔が埋まった。


「も〜…」


頭の上から少し呆れた様な、それでいてさっきよりも明るい声が聞こえてくる。


「…いいよ。パン食ってたことは。」
「で、でも…。」
「涼くんがパン屋のご主人と仲良しなわけだしさ。商店街の一員同士なんだから仕方ない所もあるじゃん。」


青木さんの大きな掌が、私の頭を丁寧に優しく撫で出した。


「だから…許してあげる。」


青木さん…優しい…。


涙がまた込み上げて、青木さんのシャツを少し濡らす。


「う〜!」
「ほら、泣かない!」


少し体を離して私の顔を覗き込んだ青木さんは、あひる口で笑顔。


「でも、『許してあげる』だけだからね!なるべく食わないで欲しいとは思うけど。
今までの分は、帳消しって事でさ。」


帳消し…?

キョトンと小首を傾げたら、目尻にシワを作って


「沙香ちゃん!」


またその長い腕でギュウッと抱き寄せられる。


「もー…超可愛い。超…好き。」
「あ、あの…青木さん…?」
「沙香ちゃん、一緒にシャワー浴びよ。」
「え?!そ、それは…」
「そしたら、パン食ってたの許してあげる!」


帳消しって…シャワーを一緒に浴びる事でって事?!


「ほら、行くよ!」
「あ、あわわわ…」


ふと瀬名さんの言葉を思い出した。


『貰ってきた時点でもうまーくんの事裏切ってるけどね』


そ、そうか…私の罪はその位重いんだ。
シャワーを一緒に浴びるという一大事でしか許されないくらいに。

で、でも…シャワーを一緒に浴びるのはハードルが高すぎ…


「おりゃっ」
「わあっ!」


躊躇している間に青木さんが私を持ち上げる。


「あ、青木さん…」
「だーめ。この前、『次は』って約束してたし!」


いや、多分『時間をください』と言ったはず!


とは心の中で思っても、あっという間に洗面所までついてしまって。ストンと降ろされた。


腰から抱き寄せられてコツンとおでこ同士がくっつく。



「沙香ちゃん…この一週間、いっぱい沙香ちゃんの事堪能させて?」


穏やかな優しい表情の青木さんに、きゅうっと気持ちが掴まれる。


…ハードル高いけど。
青木さんの為に生きるって決めたんだもん。

私も答える様に青木さんの背中に手を回す。


「沙香ちゃん…好き。」


甘い吐息と言葉が唇をふわりと包み、それからもっと甘いキスが降ってきた。










片岡の言った事、図星だったし、沙香ちゃんがパンを貰ってたってこともすっごいショックだった。


…全部、俺が悪いよね。
自分の忙しさにかまけて、ボロボロの自分を沙香ちゃんに見せたくないって勝手に思って沙香ちゃん不足になっているのを我慢に我慢して働いて。

でもそれって全部独りよがりだったのを思い知った。

結局、そうやって沙香ちゃんの元気を奪っちゃってさ。
その上、ほったらかしにしてたくせに、他の奴と居ると「ダメ!」って思っちゃってさ…


…でも。


『美人の先輩の人と青木さんの姿がお似合いだって…嫌だ!って思いました。』


ヤキモチ…妬いてくれたんだって思ったら、もう全部吹っ飛んだ。


こんな身勝手で、沙香ちゃんの事誰にも渡したくないって…自分の家に閉じ込めるような奴なのにね。

沙香ちゃん、ありがとう。
ずっと、ずっと…俺ので居て。


優しくキスを繰り返しながら、着ていたTシャツの裾から中へと掌を忍び込ませる。


「んっ…」


それに反応した沙香ちゃんが可愛くて、簡単に身体は疼きを増す。


「脱いじゃおっか。」


言った俺に、沙香ちゃんは顔真っ赤にしながらコクンと頷く。


頑張ってくれてるんだよね、俺の為に。
沙香ちゃんはさ、俺がここに沙香ちゃんを連れてきたことが「ご褒美の前借り」だって言ってたけど、俺にとっても同じだよね。


もっと、もっと…沙香ちゃんを大事にして、一緒に居る時間も作るからね、これからは。


キャミソールと下着だけの上半身に心許なさを感じているのか、俯いている沙香ちゃん。


そんな沙香ちゃんも可愛くて、覗き込む様に唇を塞いだ。


太ももを辿り、スカートを捲り上げる俺の手を沙香ちゃんの手が力なく押さえようとする。


…何しても全部、俺が調子に乗るだけだよ?


もう片方の手のひらで、胸を覆った。









シャワーのお湯がふわふわと浴室内を満たして、肌を掠める。
蒸気のせいなのか、自分の体が熱くなっているのかわからないくらいに頭の中は真っ白だった。


「沙香ちゃん…」


鼻にかかった甘いかすれ声が耳から体中へ響く。

青木さんの泡を纏ったすらりとした指と大きな手のひらが私の身体を滑り動いた。


「っ…」


反応して強張る身体を逞しい青木さんの腕が抱え込み離してくれない。
自由を奪われて余計に身体は熱さと疼きを増した。


もう…ダメ…


何も考えられなくなる直前

くるりと向きを変えられて、向かい合わせになると、そのまま身体を沈められ、塞がれる唇。


繋がる感覚と絡み合う舌の感触が相まって、青木さんの首に腕を回して夢中で引き寄せた。


…この世の全てが青木さん一色に思えて幸せで。


果てた身体を青木さんから離したくなくて、ぎゅっとしがみついた。


「沙香ちゃん…大好き。」


そんな私を抱きしめ返してくれる青木さん。
二人で浴び直したシャワーは、いつもよりもずっとずっと優しく温かく感じた。


どうしてそんな風になってしまったのかはわからないけれど、お風呂を出ても青木さんから離れ難くて、私の髪をふわふわのバスタオルで丁寧に拭いてくれる青木さんに思わずくっついた。


「何?何?どしたの?」


くふふと笑う青木さんがバスタオルごとぎゅーってしてくれる。


「……。」
「沙香ちゃん?」


優しく呼びかける青木さんの声が心地良い…。


ずっとこのまま居られたら良いのにな。


「もー…沙香ちゃん?ほら、飯食おうよ。ね?」
「…はい。」


よしよしと撫でてくれる手のひらも心地よくて。
あんまりワガママばっかりはいけないよね、と断腸の思いで離れた。


「沙香ちゃん、俺も手伝うよ?」


夕飯の用意をしようとキッチンに立ったら、青木さんの腕が背後から腰に回ってきて引き寄せられる。


「か、簡単にぶっかけうどんにしちゃいましたから。おうどんを茹でて具を乗せるだけだし。」
「でも、二人でやった方が、早く用意できるからさ。」


くるんと向きを変えられて、また引き寄せられて


おでこ同士がくっついた。


「…そしたら、早くイチャイチャ出来るでしょ?」
「…っ」
「ダメ?」
「ダメ…じゃありません…」


クスリと笑う青木さんは、きっと私が顔が熱くなってる理由はわかってる。


…”くっついていたい”

そう思ってるのがバレてるんだ。


「沙香ちゃん…ほんと、可愛い。」


呟くように、囁くようにそう言われて、唇がふわりと塞がれる。


不意にカタカタとお鍋の蓋が沸騰した事を知らせた。


「…一緒に仕度しよ?」
「は…い。」


甘くて、優しい声色。

本当に…夢みたい。
こんな時間をこれから1週間も過ごせるなんて。






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