私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
「客は来なくなり、スタッフは辞め、会社の株は奪われ、売却しようとした資産は値下がりしてたいした金にもならなかった」

それは恨みというより恐怖に近かった。
知久がなにかできるわけがない。
だって、彼はこの数ヵ月、バイオリンを弾いていただけなのだから。
それは笙司さんもわかっているようだった。

「悪魔としか思えない。あんな男に好きになられたら身を滅ぼすだけじゃすまないぞ」

それは私への忠告だった。
婚約者だった笙司さんから、私へ向けられた最後の言葉だった。
二人が寄り添うように居間から出ていった。
笙司さん達が出ていくと、父は難しい顔で煙草に火をつけた。

唯冬(ゆいと)に続いて小百里の婚約までうまくいかないとはどういうことだ」

「私の結婚のことだけど……」

私が話を切り出そうとした瞬間、父がイライラと煙草を灰皿に押し潰した。

「結婚のことなら心配いらない。お前の相手はきちんと考えてある。見合い相手にも結婚を前提にと、お願いしてあるから、来週の日曜日、空けておきなさい」

「お見合いって……! そんな勝手に!」

「勝手? 勝手なのは唯冬一人で十分だ。まったく! あいつには困ったものだ。小百里、お前が結婚しないのなら、唯冬に話をするつもりだ」

「唯冬になにを言うつもりなの……」

「ピアノをやめさせ会社を継がせる。結婚は認めてやったが、その尻拭いをあいつにさせる。会社で働かせて柊冴の右腕にでもさせよう」

唯冬からピアノを奪うなんてとんでもないことだった。
私の脳裏に唯冬と千愛ちゃんの幸せそうな顔が浮かび、私は言葉を飲み込んだ。

「……わかりました。私がお見合いしますから、唯冬はそっとしておいてあげてください」

そう言うしかなかった。
この家庭を壊した子である私には弟の幸せを奪うことはできない。
どうしても弟達は幸せでいて欲しかった。
泣かずにすむよう私はいつものように心を閉ざした。
なにも考えないようにして、人形のように父の言葉にうなずいたのだった。
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