私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
母から捨てられてしまった今、どこにも行くあてがない私は現実を見つめていた。
最低限の許される範囲で、ここで暮らすしかもう選択肢はない。
悪魔みたいな彼にはわかっていたのかもしれない。
もう帰ってしまって、ここにはいなかったけれど、私の頭の中にはあの悪魔のトリルが繰り返し流れていた。
すがれるものはなにもなく、頼れる人もいないこの場で、私を唯一助けてくれたのは彼が奏でた音だけだった。

「……章江おば様。生意気な口をきいてしまってごめんなさい。渋木の家にふさわしい娘になれるよう努力します」

そう言って微笑んだ。
さっきまで大騒ぎしていた章江さんと毬衣さんはなにも言えなくなった。
聡い私は学んだ。
渋木のお嬢様らしく完璧に振る舞っていれば、誰も私を傷つけることなどできないのだと。
そして、作り笑いを浮かべる私は彼と同類。
陣川知久と同じ―――私もみんなを欺く悪魔なのかもしれない。
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