私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
彼らの三重奏を聴くのは久しぶりで、その音は特別だった。
グノーのアヴェマリアが春の夜に響き渡る。
その音色は空気を澄ませ、夜の闇を清らかにしていく。
テラス席のキャンドルは小さく揺れ、その灯りは仄かなぬくもりを感じる。

「素敵ねぇ」

「私、コンサートに行ったことあるけど、ここで聴くと、また違う特別な気持ちになるわね」

アヴェマリアの演奏が終わると、そんな声が聞こえてきた。
一曲で終わりだろうと思っていると、知久のバイオリンが歌い出す。

「木星……」

ホルストの木星を奏でる知久の音は、切なく胸が痛くなり、悲しい気持ちになる。
ピアノとチェロの音が知久の音に合わせるように重く深みのある音で弾く。
曲が終わった時、知久は微笑みを消して、私を見ていた。
―――私達は音でしか本心を語れない。
耳に響く拍手の音が、私の心臓の音を速めた。

「小百里。俺の演奏、どうだった?」

先に一人だけ戻って来ると、私に微笑みながら尋ねた。

「なんだか、切なかったわ」

「留学中、よく弾いた曲だよ。この曲は―――」

知久は最後まで言わなかったけれど、演奏している途中で、私は気づいていた。
あの切ない音は、知久の望郷の念だったということに。
私に会いたいとその音は語っていた。

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