私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
『あなたが捕まえたと思えば、あなたから逃れ、あなたが逃れたと思えば、あなたを捕まえる』

俺にキスしようとしたけれど、目を閉じることのない俺を見て、毬衣さんは顔を赤くした。

「どうしたのかな?」

煽る俺から、毬衣さんは身を離した。

「私のことを少しも好きじゃないのね」

涙目になり、毬衣さんは逃げるようにして部屋を出て行った。

「健全な高校生だな」

あの程度の毒で俺を誘惑しようなんて、どうかしている。

「さてと、陣川家の次男として役目を果たすとするかな」

面倒だからといって、渋木家のいくつもあるゲストルームに隠れている場合じゃない。
そろそろパーティールームに行って、顔を出さないと両親にうるさく言われるだろう。
ため息をつき、ゲストルームから出るとピアノの音が聞こえた。
澄んだ音。
曲は―――

「グノーのアヴェマリア……」

サンルームのほうから聞こえてくる。
午後の明るい日差しを受け、ピアノは輝いて見えた。
栗色の長い髪が波うつように背に広がり、その横顔は憂いと寂しさを含んだ栗色の瞳。
アヴェマリアを弾く彼女は優しげで気品があり、ビスクドールのように精巧な美しさは今まで俺が出会った人間にはなかったものだった。
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