私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
正妻の子である弟の唯冬(ゆいと)を差し置いて、コンクールで賞をとるわけにはいかないというところだろう。
渋木の家を追い出されるか、ピアノを弾かせてもらえなくなるか―――彼女にとって、辛いことが起きるのは間違いない。

「いいのよ。唯冬(ゆいと)は本当にいい演奏をするの。早くプロになって欲しいわ。きっと有名になるわよ」

自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
胸がなぜかざわついた。
なぜだろう。
さっきまでは少しも胸がざわついたりしなかった。
誰に誘惑されても俺の心は誰のものにもならない。
そう思っていた。
今の今まで。
彼女の栗色の髪に触れて、俺はキスをした。
忠誠を誓う騎士のように。

「知久さん。毬衣さんと婚約したのでしょ? それに高校生になったんだから、昔と違って冗談で済ませられなくなるわよ」

少しくらい驚いてくれたらいいのに。
彼女は微動だにしない。

「本気ならいい?」

「え?」

「小百里のことが好きになったみたいだ」

誘惑しているつもりが、誘惑されていた間抜けなカルメンは俺。

『もし、あなたが私を愛していないなら、私はあなたを愛す。もし、私に愛されたなら、気をつけなさい!』

カルメンが情熱的に歌っている。
今なら最高のカルメンを弾くことができそうだった。
この日から、俺の得意な曲はカルメン。
そして、彼女を想って弾くのはグノーのアヴェマリアに決まったのだった。

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