私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
知久を呆れた目で見る私と違って、他の女性は彼の一挙一動に歓声をあげていた。
テーブルの女性客は『目があった!』と大騒ぎになり、ますます毬衣さんのご機嫌は悪くなった。

「知久君。君の婚約者のご機嫌が相当悪いようだ。こちらのテーブルより先に挨拶しておくべきだったな」

「それじゃあ、バイオリニストらしく音楽でごきげんをとろう」

目を細め、笑みを浮かべた知久は顔からふざけた表情を消した。
それにどきりとしない女性なんていない。
知久は私をちらりと見た。

「小百里さん。俺と一緒に演奏しない?」

「私? 私は唯冬みたいに上手くないけど」

弟の唯冬はピアニストで知久と同じ音楽事務所に所属している。
いわゆるプロの音楽家。
私はピアノ教室でピアノを教えているだけで大勢の人の前で弾くことなんて滅多にない。

「失敗しても俺がフォローするから大丈夫。みんな、俺を見ているだろうし、緊張しなくていいよ」

「もう……!」

憎たらしいことを言っても許されるのは知久の持つ愛嬌のおかげで、普通なら嫌味だととられるのも冗談で済まされる。
私と知久のやりとりを聞いていた笙司さんがワイングラスを置き、毬衣さんのほうをちらりと見た。

「小百里。ピアノを弾いてあげないとこの場は収まらないんじゃないか」

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