私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
「笙司さんもそう言ってることだし、一曲だけでも弾こうよ」

「しかたないわね」

席を立ち、一瞬だけ知久と視線を絡ませてから腕を差し出す。
エスコートに慣れている知久のふるまいは自然だった。
女性がそばにいることに違和感がない。
私がその腕に手を絡めたところで、周りはおかしいとは思わなかった。

「ただいま、小百里」

さっきとは違う低い声。
今年の春、留学先のドイツから帰国した知久。
大人の男の人の色気を兼ね備え、以前に増して魅力的になった。
ふざけているのは変わらないけど、本当は誰よりも色々なことを考えていることを私は知っている。

「なかなか会えなくて寂しかったよ。小百里は?」

「どうだったかしら」

はぐらかされたと知久は気づいていた。
でも、彼は嫌な顔はしなかった。

「そんなふうに言えるのも今だけだよ」

「怖いわね」

「留学する前から決まってるんだよ。小百里が俺の物になるのはね」

「欲しいものを我慢することができないのかしら?」

「残念。俺が欲しいものを諦めたことはないんだ」

まるで殴り合うかのような会話。
初めて会った時から私達はこうだった。
お互いの本当の姿を唯一知る者。

「知久。私達には婚約者がいるのよ」

私には笙司さん。

知久には毬衣さんが。
それぞれ観客席(テーブル)から私達を見ている。
家同士の決めごとによって選ばれた婚約者達。
それは何年も前から決められていた。
抗えないもの。
私の婚約は、私を不幸にするための婚約、彼の婚約は家の都合のための婚約。

―――私達には婚約者がいる。
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