私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
知久は椅子から立ち上がり、私の髪に触れ、頬に触れ、指が首筋に触れ、指を絡める。
そして、私の目を覗き込む。

「すべての私を知らないと気が済まないの?」

「そうだよ。全部俺の物にしておかないと小百里はすぐに逃げるから」

知久が、なぜ私を好きになったのかわからない。
きっと、これは神様からのプレゼント。
ひとりぼっちだった私に神様がくれた一時の安らぎ。
いつか、知久は私の手から離れていくのはわかっていた。
彼は天才バイオリニストで、鳥のように自由な人だから。
私の頬に長く美しい指が触れ、柔らかな唇を重ねた。
いつか、失うとわかっていても、今だけは。
そう、今だけは誰もいない私のそばにいて欲しかった。

「小百里のことが好きだよ」

繰り返し言ってくれる言葉は私の孤独を埋めてくれる。
そんな私の心を満たすように何度も角度を変え、キスを繰り返す。
もっと私を求めて。
誰も私を必要としない世界で、唯一あなただけが私を必要としてくれた。
この時はまだ自由だったのだと、後に思いしる。
まさかこれ以上、自分が渋木の家に縛られることになるとは思ってなかった。

「もう帰るわ。運転手さんが迎えに来ているの」

「お嬢様も楽じゃないね」

「お互いにね」

私達は微笑み合って別れた。
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