君だけの風景
名前のない再会
行先のない切符が、一枚、手帳の奥に眠っている。
“遥人”という名前を記憶のなかで呼ぶたび、
紙片の縁が少しずつ擦り切れていくような気がした。
名を呼ぶことは、思い出すことではなく、
思い出に傷をつける行為のようだった。
その朝、わたしは小さな港町の宿を出た。
潮の匂いと、まだ眠る漁船の影が、波間に揺れていた。
通り過ぎる人々の顔はどれも知らない顔で、
でもそのなかに、「知っているかもしれない誰か」の輪郭を、無意識に探していた。
ふいに、背後をすれ違った男の人のジャケットの端が、わたしの手の甲に触れた。
まるで、風が指先を撫でていくようだった。
その瞬間――
世界が、きしんだ。
わたしは、思わず振り返っていた。
でも、そこに彼の姿はなかった。
ジャケットの色も、背丈も、あの頃の遥人とは違っていた。
それでも、心のどこかで、
彼が“そこにいたかもしれない”という感覚だけが、確かに残っていた。
ー
わたしのなかにある君は、
いつから「幻」になってしまったんだろう。
もう名前を呼ぶだけで、
世界のどこかが痛むようになってしまった。
それでも、呼びたい。
風のなかで、ひとりでいる自分をつなぎ止めるために。
遥人。
ー
その日は、小さな灯台まで歩いた。
晴れていたのに、灯台の先に立ったとき、風の湿度が強くなり、
髪が頬に張りついた。
眼下には、遠くまで続く水平線。
まるで何かを隠しながら、すべてを見渡しているような海。
遥人と初めて見た景色も、こんなふうに始まっていた気がする。
ふたりで座ったベンチの木目、コンビニで買った缶コーヒーの温度、
彼がわたしの顔を見て笑ったときの、あの目のしわの深さ。
どれもこれも、もう、確かな形をしていなかった。
ー
たとえば、
風が吹いたとき、
君がその風のなかに立っている気がする。
通りすぎる自転車の鈴の音に、
君の笑い声が混じっていた気がする。
知らない町で、
君の背中を追いかけていた気がする。
でも、いつも、“気がした”だけだった。
それが、こんなにも残酷なことだとは知らなかった。
ー
夜、港に面したベンチでひとり座った。
月がまだ満ちていないせいか、夜の暗さが深く、
水面に映る灯りも、どこか震えていた。
手帳を取り出し、最後の空白に、こう書いた。
『君が世界のどこにいても、
わたしはいつも、君を忘れないように忘れようとする。
忘れたふりをして、風景を焼き付ける。
そして、思い出すたびにまた、
名前のない再会が、胸の奥で始まる。』
遥人が今どこで、誰と、どんな日々を送っているのか。
もう、たぶん知ることはない。
でも、
わたしはあの旅で、確かにひとつの世界をもらった。
もう、二度と彼に会えないとしても。
わたしは、彼と一緒に見た風景の続きを、
今度は自分の足で、歩きなおしていく。
名前がなくてもいい。
再会が訪れなくてもいい。
でも、“この想いが嘘じゃなかった”と信じることだけは、
世界のどこで迷っても、わたしの歩みを止めない理由になる。
“遥人”という名前を記憶のなかで呼ぶたび、
紙片の縁が少しずつ擦り切れていくような気がした。
名を呼ぶことは、思い出すことではなく、
思い出に傷をつける行為のようだった。
その朝、わたしは小さな港町の宿を出た。
潮の匂いと、まだ眠る漁船の影が、波間に揺れていた。
通り過ぎる人々の顔はどれも知らない顔で、
でもそのなかに、「知っているかもしれない誰か」の輪郭を、無意識に探していた。
ふいに、背後をすれ違った男の人のジャケットの端が、わたしの手の甲に触れた。
まるで、風が指先を撫でていくようだった。
その瞬間――
世界が、きしんだ。
わたしは、思わず振り返っていた。
でも、そこに彼の姿はなかった。
ジャケットの色も、背丈も、あの頃の遥人とは違っていた。
それでも、心のどこかで、
彼が“そこにいたかもしれない”という感覚だけが、確かに残っていた。
ー
わたしのなかにある君は、
いつから「幻」になってしまったんだろう。
もう名前を呼ぶだけで、
世界のどこかが痛むようになってしまった。
それでも、呼びたい。
風のなかで、ひとりでいる自分をつなぎ止めるために。
遥人。
ー
その日は、小さな灯台まで歩いた。
晴れていたのに、灯台の先に立ったとき、風の湿度が強くなり、
髪が頬に張りついた。
眼下には、遠くまで続く水平線。
まるで何かを隠しながら、すべてを見渡しているような海。
遥人と初めて見た景色も、こんなふうに始まっていた気がする。
ふたりで座ったベンチの木目、コンビニで買った缶コーヒーの温度、
彼がわたしの顔を見て笑ったときの、あの目のしわの深さ。
どれもこれも、もう、確かな形をしていなかった。
ー
たとえば、
風が吹いたとき、
君がその風のなかに立っている気がする。
通りすぎる自転車の鈴の音に、
君の笑い声が混じっていた気がする。
知らない町で、
君の背中を追いかけていた気がする。
でも、いつも、“気がした”だけだった。
それが、こんなにも残酷なことだとは知らなかった。
ー
夜、港に面したベンチでひとり座った。
月がまだ満ちていないせいか、夜の暗さが深く、
水面に映る灯りも、どこか震えていた。
手帳を取り出し、最後の空白に、こう書いた。
『君が世界のどこにいても、
わたしはいつも、君を忘れないように忘れようとする。
忘れたふりをして、風景を焼き付ける。
そして、思い出すたびにまた、
名前のない再会が、胸の奥で始まる。』
遥人が今どこで、誰と、どんな日々を送っているのか。
もう、たぶん知ることはない。
でも、
わたしはあの旅で、確かにひとつの世界をもらった。
もう、二度と彼に会えないとしても。
わたしは、彼と一緒に見た風景の続きを、
今度は自分の足で、歩きなおしていく。
名前がなくてもいい。
再会が訪れなくてもいい。
でも、“この想いが嘘じゃなかった”と信じることだけは、
世界のどこで迷っても、わたしの歩みを止めない理由になる。