夜探偵事務所

​夜の衝撃的な告白。
電話の向こうの仁は絶句したようだった。スピーカーから漏れる息を呑む音。
やがて絞り出すような悲痛な声が続いた。
『夜……ワシが絶対に死なさん!ワシの命に代えても……』
​「仁の命一個じゃ深淵一人と天秤にかかんねぇーよ!」
夜は父の悲壮な覚悟をケラケラと子供のように笑い飛ばした。
その残酷なまでの正論に仁は言葉を詰まらせる。
『ぐぅーっ!!やかましいわ!』
​怒声の後わずかな沈黙を挟み、仁の声は少しだけ冷静さを取り戻した。感情的な説得が無駄だと悟ったのだろう。
『……で、その深淵は覚醒しとるんか?』
​「多分まだ覚醒はしてない」
​『……それが唯一の救いやな……』
仁は安堵したようにそう呟いた。
『……とりあえずや、タイマンに持ち込むなら対象を室内に閉じ込める結界を張って、そこにおびき寄せるのはどうや?』
​「なるほどな。で、深淵の者が結界に入ったら私と二人っきりでタイマンってわけか」
夜は頷き、その視線がちらりと健太に向けられた。健太は自分が値踏みされているような気がしてびくりと体を震わせる。
「コイツが少し危険に晒されるが、おびき寄せるならコイツを餌にするしかないか」
​『ならワシもすぐにそっちへ行く!』
仁の切迫した声が響く。だが夜はそれをあっさりと一蹴した。
​「来なくていい。かなり大ごとになる。だから――仁の家でやる」
夜はまたしても楽しそうに笑った。
​『先祖代々のこの寺をお前は潰す気かぁっ!』
仁の絶叫が事務所に響き渡る。
​その抗議を夜は完全に無視した。
彼女の声からそれまでの子供っぽさが完全に消える。
「で、結界を張るのはどれくらいかかる?」
​『……一日あれば何とかできる。それはワシに任せろ』
​「―――可愛い愛娘のためによろしくね。パパ♥️」
夜は再びからかうような甘えた声でそう言った。
電話の向こうで仁がまだ何か叫んでいたが、彼女は一方的に通話を切った。
​「……よし」
夜は独り言のようにそう呟くとスマートフォンをポケットにしまい、再び健太に向き直った。
​「さてと。残った問題はお前があの女とのキスで何をされたかだな」
​「何をって……どういうことですか?」
​「深淵の者は多種多様な能力を持つことが多い。意味もなくキスなんてまどろっこしい真似はしないはずだ。何かの呪いかマーキングか……」
夜は顎に手を当てて思考を巡らせる。その言葉に健太は唇に残るあの冷たい感触を思い出し背筋を凍らせた。
​「……」
​「とはいえ分からんものは分からん。そこは出たとこ勝負しかないな」
夜はあっさりと結論づけて健太が座るソファを指差した。
「そのソファは貸してやる。久しぶりに安心して寝ろ」
​「あ、はい……」
健太が弱々しく返事をすると夜はふっと表情を和らげた。
それは人を食ったような笑みや氷のような真顔とは違う、初めて見る穏やかな表情だった。
​彼女はほんの少し口角を上げて優しく微笑んだ。
​「じいさんに感謝しろよ」
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