夜探偵事務所
健太の意識は冷たく暗い水の底へ沈んでいった。
―――どれくらいそうしていたのだろうか。
「おい!起きろ!起きんかコラァ!」
鼓膜を突き破るような怒声。
そして目に直接突き刺さるかのような眩い光。
健太は無理やりその暗い水底から引きずり出された。
ハッと目を開ける。
そこはホテルの部屋ではなかった。
灰色の壁。窓もない狭い部屋。目の前には傷だらけの金属製の机。天井から吊るされた裸電球が一つだけチカチカとまたたいている。
取り調べ室だ。
ドンッ!!!
突然目の前の刑事が机を拳で力任せに叩きつけた。
「お前がやったんだろうが!えぇ!?」
「……え……?」
まだ意識がはっきりしない。頭が霧の中にいるようだ。
「とぼけんじゃねえぞ!あの道の駅で!お前があの女を殺したんだろうが!」
「ち、違います……!」
健太はかろうじて声を絞り出した。
「俺は……便所に行ったらその……花柄のワンピースを着た女の子が……首を吊ってて……」
「あぁ?」
刑事は心底馬鹿にしたような顔で健太を睨みつけた。
「あの少女の死因はな。頭部への複数回にわたる強い衝撃だ。硬い何かで頭を滅多打ちにされたことによる脳挫傷だ!」
刑事はまるで最終宣告でもするかのようにそう言い放った。
「……お前のバイクのそばに落ちてたヘルメット。あれには被害者のものと完全に一致する血痕がべったりと付着してたんだがなぁ!」
「……っ!」
健太は言葉に詰まる。
「そ、それは……正当防衛だったんです!あの女が急にバイクの後ろに現れて……俺の首を……!」
「嘘をつくんじゃねぇっ!!」
刑事は立ち上がり健太が座っていたパイプ椅子を思い切り蹴り飛ばした。
ガシャァン!というけたたましい音。
健太はパイプ椅子ごと床の上に激しく転倒した。
打った背中と後頭部が痛い。
だがそれ以上に心が絶望で張り裂けそうだった。
もう誰も信じてくれない。
俺はここで終わるんだ……。
うずくまる健太のそのすぐ目の前にふわりと影が差した。
ゆっくりと顔を上げる。
そこにいたのはあの花柄のワンピースの少女だった。
彼女はその場にそっとしゃがみ込むと健太の顔を心配そうに覗き込んできた。
「……大丈夫?」
その声はどこまでも優しくそして透き通っていた。
「ひっ……!」
健太は短い悲鳴を上げた。
そして尻を床につけたまま必死に後ずさる。まるで蛇に睨まれた蛙のように。
取り調べ室の一番隅の壁に背中がドンとぶつかった。
「い、生きてる……生きてるじゃないか!」
健太は震える指で少女を指差した。
もう錯乱していた。何が現実で何が夢なのか。その境界線が完全に溶けてなくなっていた。
「何をやっとるか!さっさとそいつを地下の留-置所に連れて行け!」
刑事が部下らしき二人の警官にそう命令する。
健太は乱暴に両腕を掴まれ引きずられるようにして取り調べ室を後にした。
薄暗いコンクリートの廊下を引きずられていく。
やがて重い鉄の扉が開けられ狭く冷たい空間に突き飛ばされた。
留置所だった。
ガチャンという重い音がして鉄格子が閉められる。
ここにいれば少なくともあの女は入ってこれないはずだ。
そんな虚しい希望を抱き健太は壁に背中をもたれて座り込んだ。
ぼんやりと虚空を見つめていた。
その健太のすぐ目の前に誰かが立っていることに気づいた。
鉄格子の外ではない。
この閉ざされた空間の内側に。
花柄のワンピースの少女だった。
「ひ……」
声も出せず後ずさろうとするがコンクリートの壁が体を阻む。
少女はゆっくりと顔を近づけてくる。
その瞳は底なしの闇のように健太を吸い込んでいく。
「ねぇ……?もう行こ」
吐息がかかるほどの距離で少女がそう囁いた。
「ど、どこへ……」
健太がそう言いかけたその時だった。
少女の氷のように冷たい唇が無理やり健太の唇に重ねられた。
「んん―――ッ!!」
そこで健太は絶叫と共に勢いよく体を起こした。
そこは留置所ではなくシーツの乱れたホテルのベッドの上だった。
窓の外はすでに白み始めている。
悪夢。全ては夢だったのだ。
しかし唇に残るあの生々しい冷たさと魂に深く深く刻み込まれた恐怖は決して夢ではなかった。