夜探偵事務所
深妙寺・本堂
壁に叩きつけられた衝撃で、肺から空気が無理やり押し出される。だが、夜の意識は明瞭だった。彼女はゆっくりと身を起こすと、制服についた埃を、パンパンと軽く手で払った。
その脳裏には、先ほどの不可解な感触が残っていた。
『手のひらを当てた時の感触……あれは、何?』
絶対的な自信を持つ自身の攻撃が、何か柔らかいものに吸収されたかのような、奇妙な違和感。加奈は、初めて得体の知れないモノに触れたかのように、わずかに眉をひそめた。
「やっべー、着地、失敗しちまった」
夜は、悪びれもなく舌をぺろりと出し、おどけてみせた。その態度が、加奈の疑念をさらにかき立てる。
「お姉ちゃん。今、何をしたの?」
「ん?別に、なんにもしてねぇけど」
夜は、からかうように笑いながら答えた。
言葉と同時に、夜は再び床を蹴った。漆黒の刀が、縦横無尽に加奈へと襲いかかる。だが、その猛攻の全てを、加奈は柳に風と受け流すように、両手のひらだけで、いとも簡単にさばいていく。
その、刃と掌が交錯する最中だった。
夜の脳内に、暴力的なまでの鮮烈さで、一つの映像が流れ込んできた。
――薄暗い部屋。酒の匂いをさせた中年の男。男は、まだ幼い加奈の手を引き、あの悪霊だった医師の家へと連れて行く。そして、汚れた紙幣を数枚受け取ると、娘をそこに置き去りにした。医師の、ねっとりとした視線が、幼い加奈に向けられる。恐怖に震える小さな体。抵抗もできず、ただ弄ばれるだけの、地獄のような時間――
『もう一度……確かめる』
加奈の心の声が響く。
攻防の最中、加奈は夜の体勢が崩れた一瞬を突き、その肩に、先ほどよりもさらに強い力を込めた掌底を叩き込んだ。
「!?」
しかし、その手応えに、加奈は目を見開いた。
夜の体は再び吹っ飛ばされ、本堂の壁に背中から激突する。だが、彼女は何事もなかったかのように、むくりと立ち上がった。
『……当たった時の感触が、やっぱり柔らかい』
まるで、分厚いクッションを叩いた時のような、芯のない感触。手応えが、全くない。
「お姉ちゃん……?」
加奈は、理解できないといった表情で夜を見る。夜は、そんな加奈の方を見て、さも不思議そうな顔をしてみせた。
「全然、効いてないでしょ?」
「うん。全く効かないな」
夜は、あっけらかんと笑う。
そしてまた、夜は加奈に向かって走り出した。連続して、何度も、何度も斬りかかる。
その度に、夜の脳内には新たな映像が焼き付けられていく。
――あの看守だった男に、幼い加奈を渡し、金を受け取る男。次は、あの刑事だった男。次は、あの作業着姿の男……。加奈は、まるでモノのように、次々と男たちの手に渡されていく――
そして、その合間に、加奈は何度も夜に掌底を叩き込み、夜は何度も壁まで吹き飛ばされる。
「……ずっと、この繰り返しのつもり?」
加奈が、呆れたように言った。
夜は、ニヤリと不敵に笑う。
そして、それでも夜は、また加奈に向かって斬りかかった。何度も、何度も、何度も。
その時、これまでとは全く違う映像が、夜の頭を撃ち抜いた。
――ボロボロに汚れた服、顔や腕には痛々しい痣。ズタボロになった加奈が、夜、自宅アパートのドアを開ける。すると、中にいた同じくらいの年の少年――彼女の兄が、驚いた顔で駆け寄ってくる。彼は何も言わず、ただ優しく妹の体を拭き、傷の手当てをし、温かいご飯を差し出す。その目には、深い悲しみと、無力な怒りが浮かんでいた――
夜は、目を見開いた。
『なんだ……これは!?』
心の中で、思わず叫ぶ。知らなかった。加奈に、そんな存在がいたなんて。
「……なるほどな」
夜は、小さく呟いた。
「なに?お姉ちゃん。もう降参する?」
加奈が、イタズラっぽく笑う。
「いや」
夜は、刀を握り直し、決意を秘めた目で加奈を見据えた。
「もう少しだけ、お前の過去(はなし)に付き合ってもらう!」
そしてまた、夜は、真実を求めるように、加奈へと斬りかかっていった。