夜探偵事務所
夜の体が、ぐったりと力を失い、蜘蛛女の手から滑り落ちる。
ドサリと、物のように地面に転がった娘の姿を見て、蜘蛛女は、ようやく邪魔者が消えたと、満足げに息を吐いた。
そして、ゆっくりと、夜の背後に佇む、黒衣の存在へと向き直る。
「さて、と。残るは、アンタだけになったわねぇ、死神さん?」
蜘蛛女は、挑発的に笑いかけた。
『…………』
死神は、答えない。
フードの奥深く、顔があるはずの場所は、ただ、星も呑み込むような、完全な虚無が広がっているだけ。
その虚無が、ゆっくりと、目の前の土地神だった化け物に向けられた。
空気が、変わった。
夜の山の、全ての音が消える。風も、木々のざわめきも、蟲の声さえも。
まるで、世界そのものが、この二柱の神の対峙に、息を呑んだかのように。
先に動いたのは、蜘蛛女だった。
残った七本の足を、巧みに操り、目にも留まらぬ速さで、日の懐へと潜り込む。そして、鎌鼬(かまいたち)のような、鋭い斬撃を、同時に、何十発と繰り出した。
だが、その全てが、空を切る。
日の姿が、陽炎のように揺らめき、全ての攻撃を、まるで幻のように、すり抜けていた。
「なっ……!」
蜘蛛女の動きが、一瞬だけ、止まる。
その、一瞬。
日は、ただ、静かに、その巨大な大鎌を、真横に、薙いだ。
ヒュンッ――。
風切り音だけが、遅れて響く。
次の瞬間、蜘蛛女の、長大な七本の足のうち、三本が、何の抵抗もなく、宙を舞った。
切り口は、刃物で切られたようではない。まるで、空間ごと抉り取られたかのように、滑らかだった。
「ぎゃあああああっ!」
バランスを崩し、その場に倒れ込む蜘蛛女。
日は、追撃の手を緩めない。大鎌が、天から、地から、あらゆる角度から、情け容赦なく、蜘蛛女の体を切り裂いていく。
それは、戦いではなかった。
ただ、生命を刈り取るだけの、「作業」。
死神という名に、あまりにも相応しい、一方的な蹂躙だった。
「こ……のっ……!」
追い詰められた蜘蛛女は、最後の賭けに出た。
彼女は、残った足で、地面を強く蹴る。だが、その目標は、目の前の日(あきら)ではなかった。
狙いは、地面に倒れ伏している、夜。
『!』
日の動きが、初めて、止まった。
彼は、今まで見せたことのない、凄まじい速度で、夜の前へと回り込み、その身を、盾にした。
ズブリ。
蜘蛛女の、渾身の一撃。その鋭い足の先端が、日の、黒衣に覆われた肩口を、深々と貫いた。
『ぐ……ぅ……!』
初めて、死神の口から、苦悶の声が漏れた。
その体は、霊体だ。物理的な痛みはない。だが、その魂の核に、確かに、ダメージが刻まれた。日の姿が、ノイズの走った映像のように、激しく揺らめく。
「……ははっ!そう、そういうこと!アンタは、そのお嬢ちゃんを守らなきゃ、いけないのねぇ!」
勝機を見出した蜘蛛女は、狂ったように笑う。
彼女は、日を無視し、その攻撃の全てを、意識のない夜へと、集中させた。
日は、その全てを、自らの体で受け止めるしかない。
何度も、何度も、蜘蛛の足が、その体を貫く。その度に、日の存在は、薄く、希薄になっていった。
(……まずい……このままでは、夜を守りきれない……)
日が、そう判断した、その時だった。
彼は、あえて、がら空きの胴体を、蜘蛛女の前に晒した。
「もらったぁ!」
蜘蛛女は、とどめを刺そうと、残る力の全てを込めて、その鋭利な足を、日の心臓部へと、突き出した。
『――終わりだ』
日が、静かに、そう呟いた。
彼は、突き出された足を、あえて、その身に、受けた。
そして、懐に飛び込んできた蜘蛛女の体を、両腕で、強く、捕縛する。
ゼロ距離。
もう、逃げられない。
『夜を、傷つけた罰だ』
日(あきら)は、その巨大な大鎌を、自らの体を貫通させることも厭わず、捕らえた蜘蛛女の核めがけて、振り下ろした。
閃光。
そして、無音の、爆発。
世界から、一瞬だけ、色が消えた。
……どれくらいの時が、経っただろうか。
やがて、世界に、色が戻る。
そこには、もう、蜘蛛女の姿はなかった。
ただ、その力が解放された衝撃で、彼女の体は、夜の真横まで吹き飛ばされ、人の姿に戻った、亡骸となって、静かに倒れているだけだった。
日(あきら)もまた、立ってはいられなかった。
その体は、ほとんど透き通り、今にも消えてしまいそうだった。
彼は、その場に、ゆっくりと片膝をつく。
そして、その巨大な大鎌を、杖のように、地面に突き立てて、かろうじて、その存在を保っていた。
ただ、静かに。
意識のない夜の体を、守るように、見下ろしながら。