夜探偵事務所

太一たちは、もつれる足で、ただ無我夢中で山を駆け下りていた。
背後から、もうあの化け物の声は聞こえない。だが、代わりに、世界が震えるような、凄まじい衝撃音が、断続的に響いてくる。
「な、なんなんだよ、一体……!」
竜二が、泣き叫ぶように言った。
やがて、山の中腹。見覚えのある、寺の山門が見えてきた。深妙寺。
「……行くぞ!」
太一は、決意した。あの女は、自分たちを逃がすために、たった一人で、あの化け物と戦っている。自分たちだけが、助かっていいはずがない。
太一は、寺の母屋の扉を、叩き壊すような勢いで開けた。
「誰じゃ!」
仁が、驚いたように顔を上げる。
「はぁ……はぁ……!た、助けてくれ!化け物が……!」
太一は、息も絶え絶えに、仁に説明した。祠の封印を解いてしまったこと。化け物が現れたこと。そして、一人の少女が、今も戦っていることを。
仁の顔から、血の気が引いた。
「なんやと!!」
仁は、雷のような怒声と共に、太一の胸ぐらを掴み上げた。
「夜は!夜は、今、どうしとるんじゃ!」
仁は、それ以上、答えを待たなかった。
彼は、部屋の奥から、大きな玉の念珠や、何枚もの御札を掴み取ると、嵐のような勢いで、夜の山へと駆け出していった。
【精神世界 ― 生と死の狭間】
夜は、ゆっくりと目を開けた。
上半身を起こし、回りを見渡す。
服は着ていない。真っ裸だった。
ここは、どこでもない場所。右には、全てを飲み込むような、絶対的な闇の空間が広がっている。
左には、全てを許すような、絶対的な光の空間が広がっていた。
「なんや……死んでもうたんか、私」
夜は、あっけなく、そう呟いた。
「アイツ(日)もおらんし……」
心は、不思議なほど、穏やかだった。
夜は、すっと立ち上がり、右側の闇の空間を見る。
「私の名前から考えても、こっちやな……」
彼女は、自らの魂が還るべき場所へと、何の躊躇もなく、足を踏み入れた。
その、瞬間。
誰かが、夜の腕を、強く掴んだ。
その腕は、驚くほど力強く、そして、太陽のように、温かかった。
夜の体は、抵抗する間もなく、明るい光の空間の方へと、ぐいっと引きずり込まれる。
目の前に、自分よりも背の高い男が立っていた。彼もまた、素っ裸だった。
黒い髪、静かな瞳。それは、夜が、初めて見る、兄の姿。
その男が、夜の体を、優しく、そして、力強く、抱き締めた。
『僕の分まで、生きてよ……夜……』
頭の中に、直接、声が響く。懐かしい、優しい、兄の声。
「……だったら、しっかり守れ」
夜は、そう言うと、自分も、その温かい体に、強く、強く、腕を回した。
二つの魂は、光の中で、一つになった。
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